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声王水を煌々たる光矢が駆け巡る事


(でも、こんな風に崩れるものかしら。)


 蟲渫絹(むせっけん)は大馬(だいば)に跨(またが)り、薄い暗闇に展開する戦況に目を凝らし、不審がる。

 夜が明ければ、その背に翻る旗幟が、薄灰の地に橙(だいだい)で染め抜かれた「檜」の字が、さぞかし眩しかろう。闔(こう)州王閥檜(ばつかい)の伝令にのみ許された誇り高き旗である。蟲渫絹は馬上から、閥檜陣営の右翼に目を走らせ、目指す蘭剤(らんざい)将軍の影を見つけて、馬腹を蹴る。艶やかな金色の長髪を靡かせているはずだが、これもその眩しさが闇に消えている。


(確かに機先は制されたわ。でも、むざむざ閥檜様がそれを受けるかな。)


 旭日は地平線にいまだ姿を見せず、暁光が空の一部を白く染める程度であり、無数の兵士達は薄闇の戦場に蠢き、叫んでいる。蟲渫絹は一瞬、この暗い戦場を黒い殺気の海と錯視したが、恐れず疾風の如く駆けた。



――――――――――――――――――――



 眞暦(しんれき)1837年。

 穣界(じょうかい)は、闔(こう)州王閥檜(ばっかい)と庇(ひ)州王尼乎磊(にからい)によって二分されていた。かつて坡(は)州王塊協半(かいきょうはん)と因(いん)州王美獣(びじゅう)が龍虎の戦いを繰り広げた穣河(じょうが)流域は、もはや次世代の英雄達がしのぎを削る場に変貌したのであった。


 この年の七月、両軍は軍を催し、勢力の拮抗せる坡州東部にて対峙した。閥檜は、州北部の穣河沿いに建つ小城、塢宜(うぎ)を発し、また尼乎磊は東部の大邑、坦陸(たんりく)に兵を整え、満を持して出兵した。そして、塢宜と坦陸のほぼ中間に北流する河川、声王水(せいおうすい)の氾濫原が、決戦の地となった。


 音も無く騒めく、未明の平原。真っ暗な中、夏の夜気は暑くなく、ひどく爽やかだった。

 だが、この闇に両陣は粛々と陣を整えていたのである。


(だけど、尼乎磊の方が早かった。)


 東の空がほんの少し白んだ時、尼乎磊陣営が動いた。

 全軍ではない。

 しかし、先陣の隊が錐の如く、突撃を敢行した。それを受けた閥檜陣営の前衛、蜥淳(せきじゅん)軍はもろくも崩れた。目を凝らして観察し、敵の突撃隊が尼乎磊の誇る勇将、鹿北汪の軍だと知れた。




「このまま手をこまねいて見ておれと言うのかっ」

 馬上の蟲渫絹を見上げながら、蘭剤将軍は吼えた。

 蟲渫絹は、目指す蘭剤のもとに駆けつけたものの、困惑の体である。


 差し始めた朝日が、鎧に身を包んだ二人を照らす。


 蘭剤は、闔州交相(こうしょう)まで務めた蘭千展(らんせんてん)の長男だが、父とは異なり武官の道を選び、今は州龍牙府に所属する有力将軍の一人である。顔を覆う虎髭、隆々たる筋骨をしのばせる鋼製の甲冑が、勇ましい。

 対して蟲渫絹の体は、細くしなやかであった。州王直属の伝令として戦場を疾駆する彼女の甲冑は羽毛の如く軽量、薄い鉄製の甲片を繋ぎ合わせたもので、日を跳ね返して煌めいている。しかし、彼女の印象はやはりその金髪に集約される。白い肌、切れ長の目、きゅっと閉じた薄桃の唇、その小さな顔は端正で、淡白に過ぎたが、半球の鉄兜から流れ落ちる金髪は腰まで達し、旭日を受けてあまりに眩しい。


 馬上の彼女を見上げる蘭剤が大声を出しているのは、この緊迫した戦況におよそ似つかわしくない金髪の美しさに戸惑っているのも、原因の一つであった。


 蟲渫絹は、諭すように言う。

「将軍。閥檜様にもお考えあってのこと。待機下さいませ。」

 しかし、蘭剤の猛りは続く。彼は勢い良く、節くれた太い人差し指で前線を指した。

「ええい、見よ。蜥淳将軍の先陣は、もう突破されてしまうじゃないか。尼軍の先手は、鹿北汪(ろくほくおう)だろう。」

「左様でございます。」

「奴は一気に突いてくる。二段目の閥星冬(ばつせいとう)様と監署邦(かんしょほう)の軍が抜かれたら、もう閥檜様の本軍ぞ。左翼の血戈(けっか)も待機か。貴殿の姉君、蟲李趣(むりしゅ)もか。ぬぬ、尼乎磊の本軍も動き出したではないか。」

 武人はまくしたてる。確かに尼乎磊陣営全体が騒めき、各隊が押し出していた。


 だが。

 蟲渫絹は閥檜から、本陣の大曇旗(だいどんき)が振られ、大銅鑼が早打ちされるまで、何があっても全軍待機と言われているのである。

 何があっても。それは、尼乎磊が全軍総攻撃を号令し、閥檜近衛軍が危うくなっても、という命である。


「ああ、蜥淳がやられる。」

「まずは貴陣のみをお守りください。くれぐれも今は動きませぬよう。いずれ… 」

 蟲渫絹は金髪をふわさと空中に舞わせて、振り向く。その目には、孤軍斬り崩されいく蜥淳軍が映る。だがよく見ると、彼らは剣を合わせているが、斬り結ぶ者は無い。蜥淳軍は損害を出さず、じりじりと後退しているだけなのである。

 閥家の誇る歴戦の士、蘭剤ほどの武将がこれに気付かぬのか。


「ああ。なぜ州王は我らを止める?もう蜥家のことは許されたのではないのか?」

 だが、蟲渫絹は武人のこの言葉で俄かに合点した。将軍が気付かぬはずが無い。だが、同じ武人仲間としての同情が、彼の心に入り込んでいるのだった。叛逆者たる祖父の負の遺産にめげず、閥家に献身してきた蜥淳の真摯な態度を、家中で知らぬ者は無い。


「あまつさえ先陣に配し、結局かような冷酷な処遇をされるのでは、な。蜥将軍が変な気を起こさんとも限らんぞ。」

 良くは分からぬ。分からぬが、閥檜に何か策があり、味方である蘭剤がこのように考えているということに、蟲渫絹は何故か、この戦に勝つ予感がした。


「いずれ、というか、すぐ。出撃の令が出る筈です。しばし、お待ちを」

 言いながら馬首を巡らし、蟲渫絹はまだ何か喚いている蘭剤を置いて、州王本営目掛けて駆け出した。背に差した灰地の伝令旗が誇らしげにはためいた。

 日が昇り、明るくなった戦場を見渡す。バラバラになった蜥淳軍を鹿北汪軍が追い、その背中に向けて尼乎磊の全軍が魚鱗の陣形で殺到していた。


(出撃令を本営からすぐ受け取り、きちんと各将軍に伝えねばならないわ。)


 出撃の機を感じ、切迫する思いにかられた蟲渫絹は、真後ろに金色の髪をたなびかせ、鞭も折れよと馬を急き立てる。


 遠く尼乎磊軍の後方に、ゆったり北流する声王水の流れが見え、暁光に煌めく川面が鏡のようである。

 その美しさに彼女は興奮した。









******************************************





坡州


挿絵(By みてみん)


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