夢郷感傷
冬の昼。
(家畜も元気そうだし、菜園の物成りもなかなか良いわね。)
越冬しようとする麦畑が黒々と見渡す限りに広がり、牛、豚などの家畜がゆったりと歩き、そこここに冬野菜が収穫を待つ。そして、足を大地に踏みしめながら、農夫たちが着々と農作業をこなす姿が、至る所で見受けられた。
開村して三十三年。
総統の昱右が、変わらず眺めてきた風景である。
坡州の穀倉地帯、塾夢塾。領域の中心に鎮座するからみ煉瓦造の「夢郷永鱗館」の望楼に、総統である昱右はちょこんとその小さな体を座らせている。
真冬でありながら生産力は衰えず、郷の歴史は既に長くなったが弛緩せず、かつて「坡州夢郷」と称された大地は今でも発展を続けているのである。
しかし、五十六歳になった昱右に感慨は無い。視界には、麦畑の彼方に盛り上がる枯草色の小丘が入っているはずだが、些かも顔色は変わらぬ。その丸顔に鋭く吊りあがった眼差しを乗せ、冬の弱々しい日に照らされる田園を睥睨する。
(根菜を東の山麓に増やしましょ。あとこの冬は寒気がきつく無さそうだから、塾民を動かして西の山麓に大規模な植樹をしたがいいわ。そうね、この仕事は監初広にまとめさせよう。)
眞暦1840年1月。
塾夢塾の総統、昱右は、富国への策を次から次へと無限に考え続けていた。これも開村から三十三年、変わらぬ風景なのである。
ぴゅっ、と一月の冷たい風が吹く。
望楼の昱右は身を縮めるどころか、
(例年の一月と同じ温度で推移しているわね。順調な冬だわ)
などと考えて満足げですらあった。だが、その風の吹いた方向を見やって、
(ああ。)
と、何か合点がいってしまい、少し陰鬱な気分に転じた。
しかし、明るく声をかけた。
「こんにちは、樹冷奠。」
望楼の入口に二人の訪問者がいた。
「昱右総統。こちら、尼紋公子がお着きになられました。」
「先生。突然の訪問、すみませぬ。お久しぶりでござる。」
樹冷奠と呼ばれた男は白髪の老人で、昱右と同い年だが、巨体であり、小さな昱右と比べると、大人と子供以上の差がある。今だに筋張った丸太の如き上腕が、黄の長袍を通してうかがわれた。
一方、尼紋と呼ばれた隣に立つ男は、対照的な風体であった。
(確か。十六歳かしら。それにしても父君とは似ても似つかぬ… )
背は低く、痩せて、青白い。
薄い唇の両側をひくつかせ、少年の割には肌が老けて、かさついている。
ただ眦が裂けるように見開かれた大きな二重目だけは、偉大なる父に似ていた。
「老婆は何かと足のせいにしますがね。履端に参上しなければならぬ所、申し訳ありません。」
「いえ。とんでもないです」
「本当に、十月はおめでとうございます。お祝いをしに行きたかったのですが」
「いいえっ。とんでもないですっ。」
庇州尼家の家中の者なら、誰もが快哉した昨秋の戦勝。昱右の祝賀はしかし、尼家の嫡男には不快だったようである。彼が発した言葉は、か細い公子には似つかぬ語気の強いものであった。
何が、気に障ったか。
さすがの昱右も、心中で首をひねった。
「庇州王はこれで覇道の先が見えてきましたわ。よろしくお伝え下さいまし。」
再び、寒風が身を打つ。
吹きさらしの望楼を容赦なく凍えさせる風は、やはり尼紋から吹いているように思えてならない。
「ふうう。寒うございますな。」
「そんな筋肉の鎧をまとっていても寒いのかい?樹冷奠。」
「総統のような、脂肪ではないのでね。戦士の鍛えられた体は、かえって堪えるもんです。」
樹冷奠と笑いながら、昱右は尼紋を見やる。
痩せちびた体はこちらを向いているものの、細面の顔は麦畑の方にひねって、塾夢塾の大地を見つめていた。
「先生。先ほどの言葉、庇州王には、伝えておきます。」
話は聞いているようだった。
「ええ。宜しくお頼み申します。しかし公子、闔州からついでに寄るにはこの老婆の村はずいぶん遠回りですわね。」
「そんなことないです。」
「戦場からそのままお越しになったら、ひどく長閑な世界に見えたでしょう。」
「いいえ。」
「武人からご覧になったら、この塾夢塾は、ひどく腹が立つのではないですか。」
尼紋少年は「武人」と呼ばれて、肩をビクつかせ、硬直した。
樹冷奠が、昱右を訝しげに見ている。尼紋を「武人」扱いしたら、不興になるのは分かっているだろ、なぜあえてそんなことを?樹冷奠は昱右の故意性に気づいただけに、意図をつかめず、不審に思っているようだ。
望楼の眼下、大根や甘藷等、根菜を山積みした手押し車が延々と通っていた。収穫は楽しい。車を押す農夫たちはみな笑顔であった。
「私には、見えます。」
だが、こう言う尼紋に今見えているのは、もっと違うものだろう。
尼紋少年は、思い詰めた真剣な眼差しを塾夢塾の大地に向け、細面の顔はいよいよ青ざめている。小刻みに、両手の親指の爪を噛み始める。
昱右も樹冷奠も、この神経質な公子の言葉を待つ。
冷たい風。
公子は、木枯しに立ち向かうように吐き捨てる。
「見えますよ。この桃源郷を、先生がどれほど手塩にかけて、大事に育ててきたか。確かに、武力に頼む為政者にとっては、先生の楽園が生ぬるく感じるでしょうね。」
穏やかではない。
「武力に頼む為政者」が誰か。尼紋が誰を指しているのか、昱右たちに分からぬ訳がない。
しかし昱右は顔色一つ変えず、尼紋少年を見守る体である。
尼紋が、昱右に向き直った。
二重目の眦は紅く染まり、いよいよ裂けるが如く見開かれている。
「穣界が、いや斐界全体が全てこの塾夢塾になったら、どんなに良いでしょうか。」
庇州公子、尼紋の激白である。
対して昱右は、つい、
(何百とその台詞を聞いてきた。)
と、遠い目をした。
33年。昱右の作った一大生産拠点は、為政者に利用されたし、また昱右自身も彼らを利用してきた。為政者 ―
塊協半と尼乎磊 ― 彼らは塾夢塾が無ければ立志はならなかったし、逆に彼らが無ければこの桃源郷は成立も存続も、し得なかった。無数の駆け引きの過程で、この世の全てが塾夢塾になったら良いのに、と多くの関係者からつぶやかれたものである。しかし、出資者となった為政者の二人は、そんなことは言わなかった。
尼紋は、はっとした。
昱右の表情の変化に、気づいたのである。途端に口をつぐんだ。
少し、人の気持ちに敏感過ぎるか。
恐縮して、にわかに身を縮ませてしまった尼紋が心配になるが、構わず遠くを見つめる。視線の先には、麦畑の只中に顔を出している枯草色の小丘がある。
(臭にこの敏感さが少しでもあったら、良かったのかな。)
珍しく昱右は感傷にひたった。
弟、昱臭のことを思い出しているのである。涙は出ぬ。五年前の8月、あの丘の頂にさらされた屍。あの時も泣かなかったのだから、今出るはずもない。鋭く吊った眼は、目尻に深い皺を刻んでいるだけ、少し濁った瞳にさしたる潤みも無い。
尼紋少年は呆然としながら、沈黙した老婆の白い鬢を、ただ見つめ続けている。
塾夢塾を、手押車が延々と縫うように進む。枯草色の小丘を避けるように。冬の弱々しい光の中を。
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坡州




