武叔酔考
剤栗は、よれよれの麻服を胸元にかき寄せながら、にやりと笑う。
「今日の変装はいつもより上手くいったぜ。」
口に出しては折角の変装も意味が無いと思われるが、酒家の店内は喧騒に溢れており、一人客の独り言など埋没してしまう。
眞暦1842年5月。
剣州の中山間に位置する城市、刎上塁は、城壁の内外に貧民街を抱え持ち、それが為に庶民の活気が特徴の大都市である。夜を迎えて、酒家や妓楼が無数の灯火を連ね、酒精と脂粉の匂いが街中にたちこめていた。
剤栗が座を占める酒家は、店内が朱で塗られ、壁の所々に料理や酒の名が荒々しく墨書されており、下卑た客層と相まって、混沌とした空間をつくっている。
「よし、そこまで言うならこの後、剄賈楼に登ろうじゃないか。」
「無理をするな。お前ごときがなけなしの金をつぎ込んでも、あの到聯聯の気はひけんよ。」
「それが、俺に惚れてるのさ。こっちを見る眼が違うんよ。今夜一緒に登楼して確認するが良い。」
そこらじゅうで酔客が酒を片手に欲にまみれた会話を散らかし、くだをまく。
剤栗は、この街の雰囲気が好きだった。
城市には活気があるのが何よりだ。青い帰剛菜と大蒜の炒めをつつきながら、濁米酒を舐めつつ、涼やかな薄茶の瞳は楽しげだ。面長な顔と細く通った鼻筋が高貴な生まれを想起させるが、それに気づかぬほど顔面は汚れ、垢じみており、酒場の雰囲気に馴染んでいた。すらりと高い背も、貧げな麻服の背を丸めて隅っこの席に座っているものだから、まったく目立たない。
ふと、耳に入った会話がある。
「うっく… 大根餅が足らん。酒も足らん。ひく。」
「どっちも、もう止しなされ。食い物は不味いし、何より飲み過ぎだ。」
「飲んでも飲んでも、酔えん。」
円卓二つ向こうの二人組がひそひそ話している。小声なのが、かえって剤栗の気を引いた。少し首を伸ばして見やると、なかなか身なりのきちんとした男二人組であった。低質だが絹地の官服を着ている。剤栗は、服の形状とその訛りから、どちらも類州交相府の下級外交官と踏んだ。
「酒の質が悪いから酔えんのだ。ですがな、だからといってガブガブ飲んでると、明日悪酔いしますぞ。」
酔えないと愚痴を言っている外交官は痩せて赤黒い髭面、たしなめている外交官は太ってつるりと眉毛すら無い無毛の白面。
「ですな。賛楓の酒家と勝手が違くて、つい。」
「賛楓」は類州王瞠靺の居城であり、やはり剤栗の見立て通り、類州交相府の官吏のようである。それはともかく、赤黒い髭面はなかなか従順で、しゃっくりしながら酒碗に手で蓋をした。
肥えた白面は、少し周りを見回した。理由は無いが、剤栗は思わず、首をすくめた。そもそも変装しているのだから、こっちを注視したとしても身分は割れないはずだが、隣州の交相府関係者となれば、用心するのは当然である。
白面はほお肉をぶるぶるいわせて、ささやく。
「劍園なら… こんな酒出す店なんか、ありませんわ。」
「え?。」
「ケ・ン・エ・ン。劍園。ここは、刎上塁は、やはり二流の街だよ。」
剤栗は、小さく舌を出す。
劍園は剣州の州都で、州王烈風家が累代鎮座し続ける、斐界有数の美しい大都市だ。刎上塁のような下町と比較したら、劍園の方が可哀想だ。
とはいえ、剤栗は目の前の帰剛菜の炒めについて、しょっぱ過ぎる味付けが今更気になり出してはいる。
「ああ。劍園な。しかし、お堅い都でしょお。あれぁ。まあ、酒は美味いか。」
確かに良い酒は多いが。
剤栗はあの都城で、酔えたことがない。堅苦しく、そして足を引っ張りあう州王府での百大臣会議。州王族の会合。長老や拾閣との謀議。豪商からの脅迫にも似た陳情。そして、間諜と同義の妓女。
色々思い出して苦い顔になったところ、二人組がいよいよ小声で語り始めて、剤栗の渋面がいよいよ皺を深めていく。
「うく。劍園といえば、よ。」
「お。なんだ。変なこと、大声で言いなさんなよ」
「分かっとる。そろそろ、尼乎磊が北衛関を超えてくるじゃろ。」
剤栗は、本気で首をすくめた。こんな軍事の話題をよくも、まあ。類州の交相府は口が軽いな、とヒヤヒヤしたが、幸い周りの喧騒は増す一方で、髭面の話を聞き耳立てているのは、剤栗のみのようである。
「それまでに劍園の正嫡様は、こちらの武叔を組みしけるかな。」
ここに至っては、舌をもっともっと伸ばして、顔をベロンと隠してしまいたくなった。
「これ。声が高い、というのに。」
「お。すいやせん。しかし、界流島から聞いた話じゃ、尼乎磊の戦備はついに本気らしいですぜ。」
(なんと。界流島を使ってるのか。さすが瞠靺、配下の経費も潤沢と見える。)
剤栗はもはや、右手に持った酒瓶をそのままに、硬直してしまっている。
「ふうん。どちらにせよ、妖天と手切れて半年経つ。尼乎磊も戦備は着々という所でしょ。」
「ここの城の暴れん坊も、それこそ刀槍武具を手当たり次第買い込んでるらしいが。我が瞠靺姫と違って、外が見えてない。」
「げに。結局、剣州は『外国』よ。大陸本土ではないから、趨勢を俯瞰的できないのでしょう ― 」
― ましてや、貧民街を領する王家の傍流が、大所に立った判断が出来るわけない ―
剤栗はそう言われることを覚悟したが、二人組の卓に豚肉の唐辛子煮が運ばれてきて、そこでこの会話は終わった。
夜が更けて、客共はより声高になり、所々に議論が湧いている。
すでに冷めてしまった野菜炒めが進まぬのは、味付けが塩辛過ぎる為か、それとも剤栗の心がにわかに沈んだ為か。
「よおし!到聯聯の顔を拝みに行こうじゃないかっ。」
そう言って三人ほどが、勢い良く立ち上がる。椅子がガラン、と床に転がったが、それにも見向きする者は無い。それ程に酒家の中は喧しい。
そんな激しい喧騒の中、「武叔」剤栗は一人で麻衣をかき寄せながら、延々と濁酒を舐めている。
瞬きを忘れて見開かれた薄茶の瞳。現実の世界から乖離し、円卓の上の虚空を見つめている。
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剣州
附類平原




