女商人の足
「剣軍が来るぞ!」
「烈風軍に潰されるぞ!」
「阡果園は掠奪されるぞ!」
狂乱する人々が騒ぎ、走り、ぶつかり合い、罵りあっている。皆、重い荷を負い、息を荒らげ、焦慮と恐怖で表情を歪ませていた。しばしば馬蹄が鳴り、そのいななきも合わせて街の急を際立たせる。初夏の陽光に、人馬の巻き上げる塵埃がもうもうと照らされていた。
「馬鹿だねえ。」
通り沿いの掘っ建て小屋で茶を売る作司及は、店の前に展開しているそういう騒動を、侮蔑していた。色黒で鼻は丸型だから、この辺り ― 都や類州等の俗に言う附類平原 ― では美人の部類では無いが、まつ毛が長く目元が涼やかで、肉感的な唇を薄桃の紅で塗り包み、まだ若い身体は豊満であったから、男性客が絶えなかった。
もっともさすがに今日は、茶を買う者など皆無であったが。
「街は終わりだあ!」
街中の叫びに同調して、左隣の店が泣き喚いていた。隣も掘っ建て小屋で若い店主ではあったが、陶磁器を売る男である。
大騒ぎをしながら、小屋の中でガチャガチャと慌てふためいているようだった。
作司及は左のこめかみに、ぴき、と青筋を浮き立たせる。と次の瞬間には、ズカズカと陶磁器屋に踏み込んでいった。
「頚裁、静かにおし!情けない男だね、本当に。」
「わっ。」
陶磁器屋の頚裁は、顔中涙で濡らしくしゃくしゃになっていた。お世辞にも男らしい凛々しい顔貌ではなく、また、作司及に怒られて、目の潤みが増してしまったようである。
「司及ぅ。」
という声も虫酸が走るような女々しさで、口をつくのは愚痴である。
「でも、やっと店も軌道に乗ってきた所でさ。こないだ璧白窯から大量に仕入れたばかりだし。」
「あんた、本当に璧白窯の品ならそんな、ガチャガチャとさ、手荒に扱えないでしょ。偽物だろ、どうせ。」
「な。客に聞こえたらどうするんだよ!もっと小さい声で言ってよっ。」
「頚裁、だから落ち着きなさいよ。こんな時にほら、客なんていないでしょう。」
頚裁は語るに落ちた訳だが、彼の産地偽装はともかく、街の人間と同様にひどく取り乱している。散らかった陶磁器屋の店内と人馬でごった返す大路を見比べながら、作司及は厚い唇を少し尖らせた。
眞暦1846年5月。
都州阡果園の街は、戦火の予感に震え、混乱の極にあった。
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阡果園。
都州東端に位置し、北大運河と南大運河、そして帝城に沿って流れる隊水の結節点にある大都市である。都に向かう斐界中の物資が、ここ阡果園に集散する為、古くから最重要拠点として発展してきた。錯綜する水路と石畳の街路を常に多くの人と物が移動し、混沌とした迷路の如き街である。
そんな普段から無双の喧騒を誇る阡果園であるが、今日はまた、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「戦の度に慌ててるようじゃ、阡果園の商人は務まんないよ。」
目の前を巨漢が車を引いていく。車には荷が山と積まれ、石造のがたがた道で車輪は轟音を響かせている。
それでも作司及の声は、頚裁に届いていたようで、涙声で反論してきた。
「三年前、瞠靺おばさんが庇州軍を騙し討ちした時は、酷かったじゃないか。街中が」
「掠奪されたわねえ。」
作司及は無意識に脇腹を触ったが、頚裁はそのことには気づかず、まくしたてる。
「戦は、俺たち商人の邪魔ばかりする。流通を止めて、商機を潰して、店を壊して、あげくは商品も利潤を根こそぎ強盗していく。盗賊よりタチが悪い。」
(それなら、まだいいわ。商人本人が傷つけられたり、殺される。それこそ本当の戦よね。)
甘ったるい頚裁の愚痴に苛立ちを隠しはしないが、しかし作司及が口から吐いた言葉は別のことであった。
「それなら帝城に引っ越すなり、障尽塞に籠りゃいいじゃないのよ。この街には城壁が無いんだ。無防備なんだよ。軍にやられるのは当たり前じゃないのさ。」
「そんな。俺は逃げずに。この阡果園で勝負したいんだよ… ぐ?」
「格好つけてんじゃないよ!」
作司及はその厚い唇をひん剥きながら、頚裁の胸ぐらを掴みあげ、息がかかるくらい頚裁に詰め寄ってその大きな目で睨みつけた。豊かな胸が頚裁の腹の辺りにぶつかって、柔らかく変形している。
いつもなら、行き交う大路の人馬が足を止め、「姐ちゃん、いいぞ、もっとやれ」「そうだそうだ、もやし兄ちゃんを叩き直せ」「俺の胸ぐらも、掴んでくれ」「ヒヒーン」などとはやし立てる所であるが、今日そんな暇人はいない。
「都で高い地代を払って商売やる才覚もない。と言って、糊議宋さんみたいに砦を、障尽塞を築いて阡果園を守ろう、なんていう義心もない。ただ楽して商売しよう、ってだけじゃないか。」
「うぎ… 苦しいよ、司及」
「ったく。」
作司及がぱっ、と手を離すと、頚裁は床にへたり込み、ゲホゲホとむせた。陶器の散乱した床に尻餅をつき、その際に何個か器が割れたが、それは意に介して無いようである。
「まあ、今度来るのは、『狡玉睨』妖天を潰しに来る世直し軍だからね。粛々としたもんよ。瞠靺おばさんの私兵とはわけが違う。もっと軍紀は締まっている筈よ。」
頚裁は転がっている陶器を粗く払い除けて、床に手を着くとぐっ、と起き上がった。
「ふう。でもさ、その世直し軍は類州王をバッサリと殺したんだぞ。」
「もう、ちょっとは考えなさいよ。烈風蹄にとって、瞠靺のおばさんはどう見える?本当に危険な女で、信頼なんてできないでしょ。白旗あげようが、命乞いしようが、生かしちゃおけないわ。透刃軍祖の二の舞になっちまう。」
「ふーん。」
頚裁は、売り物の陶磁器がごろごろ散乱する店内を見回しながら、少し考える風である。
初夏の日光が、二人の小さな店の中に差していた。大路をかけていく人馬が蹴立てる塵埃もまた、どんどん店舗に吹き込んでいた。
「そうかぁ。てことは、今度攻めてくる軍は、物盗りしない、ってことか?」
頚裁は両手を腰に置いて埃っぽい店内を引き続き眺めつつ、作司及に問いかける。特に返事は無い。
男の表情は笑顔だ。
「じゃあ、逃げる必要は無いか。いやあ、このガラクタ… じゃなかった器たちをどう荷造りするか、悩んでいた所なんだ。棄てるのも勿体無いし。馬も車も無くて、俺一人で運ぶのは難儀じゃないか。ねえ、剣州軍からは逃げなくてもいいってことだよね、作司及?」
作司及の返事がない。
「あれ?」
振り向けば、戸口に作司及の姿が無い。頚裁は右隣の店へ足を向けたが、
「じゃ、お先に。」
と、急に飛び出してきた作司及とぶつかりそうになった。
作司及は葛篭を1つ背負い、脚絆、手甲を装着し、編笠被って、裾絡げ、いつの間にやら旅装を完璧に整えていた。
「って、おい司及。お前こそ逃げる準備が万端じゃねえか!」
「ふふ。戦が落ち着いたら、また戻ってくるかも。それまでお互い無事でいましょうね。」
「ちょっと。待ってくれ」
しかし作司及は涼やかな瞳で笑い、右手で脇腹を抑え、左手をひらひら振りながら、
「じゃあね。」
というが早いか、雑踏の中に紛れ込んでいく。
「おいていかないでくれぇ。司及ぅ。」
見れば、作司及の店内はすっからかんになっていた。売り物の茶は前もって売り払ったか、駅馬に託したか。
5月の陽光の中、店内に埃が舞う。
「ずるいよ、自分だけ… 」
取り残された頚裁は、また溢れてきた涙をひたすら拭う。
「剣州軍が運河向こうに現れたぞぉ。」
「烈風蹄は15万の兵を率いて、賠扼真まで来ているぞ!」
商業都市、阡果園は、市民が右往左往し、いよいよ混乱し、入り乱れ、流言蜚語が飛び交う。
そんな街の中、ガランとした掘っ建て小屋に佇む男は、そこだけ時間が止まったかのように、いつまでも茫然自失としていた。
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附類平原




