蒼の城塞、淝東大湖に対峙す
水平線の向こうは、蒼天。
広大な水面にかすかに立つさざ波が、七月の炎天下に無数の煌めきを放っている。穏やかな水の上を、多くの舟がゆったりと漕ぎ行く。三方は海の如く、岸は見えぬから、どこに向かうにしても水夫にとっては疲れる操船になる筈だ。
ここは、淝東湖。
泳州の大湖である。
大河たる楽河の流れが泳州低地に溢れ、拘泥し、幾万の湖沼を形づくったが、淝東湖はその中で随一の面積を誇る。湖水は蒼く深く、湖民に豊かな漁場を提供し、また荒れることの無い湖面によって水運業者にこの上無い安全を保証していた。
「淝東湖に面するから、『淝面楼』がいいか。いや、『罷免』に通じて、縁起が悪いな。」
大湖をのぞむ楼閣の上。
一人の若い男が立っている。
腕組みし、凝然と立ちはだかり、瓜実の雅な輪郭に似ず、浅黒い肌に大きな杏仁型の二重目はひどく野性的である。
楼閣は目も眩むような高さに建ち、男の足元は切り立った亜麻色の巨壁が緩やかな曲線を描いて、湖に埋没している。
だが、男は怖がるどころか、真っ白な歯をギラリと見せて、笑う。
「こうやって、悩んでいる時が一番楽しいな。」
と、そこへ鈴の鳴るような軽やかな声が転がり込んできた。
「うふふ。楼閣の名はまだ決まりませんか、湖英様。」
側近の袿九雲であった。練り絹のようにきめの細かい肌を持つ、おっとりした美人である。
「ぬ。九雲か。そっちこそ、養生の覆いはまだ外せぬのか… 」
「城壁作事の足場は完全に撤去されました。この中央楼の名が決まりましたら、その名とともに眼下に向かって号令下さい。湖側の養生は、それを合図に一斉に取りさられる手筈が出来てます。」
しかし、外見の割にこの女の気は強い。仕事が出来るのはいいが、いつも湖英は馬鹿にされている気分になる。
「ぬ。」
「いいじゃないですか。『罷免』されるなら、望むところでしょう。湖英様?」
さすがに、湖英は顔色を変えて周りを見回す。誰もいなくてよかった、が、他に耳目がある時に、この女がそんなことを言うはずがなかった。頭が良く回る優秀な側近であった。
湖英は恥ずかしくなりながら、「ええい、決めたわっ」と吐き捨てて、楼閣の中央に立った。
「気をつけて下さいね。」
袿九雲が湖英の背中におっとりと声をかける。
眼下は、万丈の空隙を隔てて、大湖の湖面に真っ逆さま、である。
しかし、そんなものは怖くない。
湖英は両手を大きく広げて、高らかに宣言した。
「この『淝望楼』より宣言する。泳州は漫丈平に泳村家による東城壁の竣工せることをっ。東壁、披露!」
同時に亜麻色の養生幕が乾いた音ともに一斉に取り払われ、大城壁がその姿を現した。
「おおー」
城壁の各所から歓声が上がった。
鮮やかな青に塗装された磚を積み上げて造られた城壁は、淝東湖に東面してそそり立ち、夏の陽射しを照り返して輝く。緩やかな曲線は美しく、また上部はほぼ垂直で、湖側から水軍が攻城しても、侵入はほぼ不可能であろう。いや、もし水軍が湖面からこの大城壁を見上げたら、その高さから絶望感に打ちひしがれ、指一つも触れられず引き返すに違いない。
「お見事ですわね、湖英様。これ程堅牢な水城は、他にありますまい。漢翰府を越えたんじゃないかしら。」
城壁の縁から、「淝望楼」の奥に退く湖英に、袿九雲が声をかける。それに対して湖英は真っ白な歯を剥き出して笑顔を返すが、目に鋭さがあった。
「まあな。だが、これも両湖地方を防御する布石の一つに過ぎん。」
「両湖地方は、東に淝東湖、西に汜西湖が満々たる水を湛え、まさに天然の城塞を成しています。さらに守りを固める必要がありますか。」
「おうよ。早晩この楽界を襲う戦乱は苛烈なものになる筈だ。それに比べれば州内で起こったこれまでの内乱など、子供の喧嘩みたいなものだ。泳州がこれまでに経験したことのない、壮絶な戦になるだろう。この漫丈平に城を築いたところで、楽河沿いに防御を講じねば、簡単に水軍の着岸を許すことになり、両湖地方は北部から敵兵の馬蹄に踏みにじられることとなる。」
湖英が頬を赤らめて熱弁をふるうのを見て、袿九雲はあえて湖と反対を見下ろし、少し話題を変える。
「でも、この城の役割は軍事だけではないですわね。」
「そう、そこだ。」
ぐっ、と湖英が身を乗り出した。そして、袿九雲が視線を向けた城内へ向けて、人差し指を突き下ろした。
「官庁、議場等の行政施設、書院や学院、劇場等の教育・文化施設群、商家の集積区域、城民の居住区域、寺院、観等の宗教施設。揃わぬものは無いっ。」
湖英は言い切った。
これは大言壮語ではない。
城壁の上から湖とは反対の城内を見渡せば、扇型と格子型を組み合わせた変化に富んだ街区が、しかし整然と居並んでいる。薄灰の石家が幾千と配列されている中、諸所に黄色い尖塔が天を衝き、また朱塗の甍を載せた幾つもの大宇が威風を払っている。南方には城壁をくり抜いた重厚な水門が建設中で、湖上水運との直接的な聯絡が可能となる予定で、城内に網の目の如く張り巡らされた運河が血管の如く機能する筈である。
行政都市、商業都市としても一大拠点となるのは明白だった。
「御意。富国の為の城市としても、漢翰府を超えましょう。」
袿九雲は、だが、ここでいたずらっぽく主の顔を見上げた。
「すべて完成したら、ですが。」
確かにまだ施工中の区画が大部分だし、市民の居住はこれからで、商業区などは商人がどれほど流入してくるかはまったく未知数であった。
「ふ。そう、急くな。東壁が完成した。そして『淝望楼』の名が決定した。今日はそれでいいだろう。」
「うふふ。失礼しました。眞暦1849年7月。湖英様の巨大な牙城がその全貌を見せた。そんな記念すべき日ですわね。」
「こら。」
湖英は満更でもない表情で、しかししばしば口の過ぎる側近をたしなめた。
「俺の城ではない。口に気をつけろ」
と、その時。
「おお、郭州王様!」
という甲高い声が足下に聞こえた。
「ほれ見ろ。」
湖英は眉間に皺を寄せた。少し早く来られていたら、聞こえていたかもしれない。
「いいか、袿九雲。余計なことを言うなよ。」
「はいな。臥龍の池に伏す内は、鯉にも見えぬ、とね。」
「こら。」
「いやあ、凄いな。湖英よ!」
カンカン、という沓音を響かせ、淝望楼に初老の男がせわしく現れた。
「湖英。この城市、見事だ!」
だぶだぶした紗の長袍に身を包み、両手を開いて、暑苦しい笑みを浮かべている。
二人は、ざっ、と足を揃えて頭を垂れ、拱手した。
「州王には炎暑の中、御足を運び下さり、恐縮に存じます。」
「あはは。湖英よ、苦しゅうない。面を上げい。袿九雲もほれ、可愛い顔を見せてくれや。」
あえて湖英は満面の笑みで、真っ白な歯を見せつけるように顔を上げた。そして横を確認すれば、案の定、袿九雲は石仏の如き無表情であったから、「人形のようだのう、九雲!州王もお好みだぞ。そうですな?州王。」と州王に笑いかけてやる。
「おう、好きだぞ!確かに、九雲は湘荘人形のようだのう。」
そう言って州王は誤魔化されてくれた。袿九雲の目に侮蔑の色が浮かび続けているのに、この初老の男は気づきやしないのである。
姓は泳村、名は郭。
泳州王である。在位六年。
「まあ、それはよいとして、湖英よ。よくぞ、これ程の城を。お主、まだ22歳であろう?」
興奮する泳村郭は、禿げ上がった頭頂の脂で、七月の炎天をはね返している。げっそりとこけた頬を隠そうと白髪混じりの髭で、顔の下半分を覆っている。吊った目に丸く座る瞳は、灰色がかって、偏執的な色彩を帯びていた。
「そして。お主がこの漫丈平における築城を建議したのが、わずか二年前。この期間にここまで造るとはな。監督の苦労が偲ばれるぞ。」
いつものことだが、一方的に喋る。
州王府での大臣会議に出席する湖英は慣れているが、袿九雲なぞは無表情のまま口をあんぐりさせている。
(ふふ。それでよい。)
袿九雲だけではない。泳州の百官、州民、皆の口が開いたまま塞がらないのが良い。
皆が、この泳州王への軽蔑を募らせれば募らせるほど、湖英は心中に快哉を叫ぶのである。
と言って、あからさまに態度に出すのもどうかと思われ、
「とんでもございませぬ。州王のもとに泳州の天地が鎮まっているからこそ、順調に建設が進んだのでございます。なっ、袿九雲!」
そうやって袿九雲の肩を叩き、彼女を正気に返すのであった。
だが、州王・泳村郭は、そんな湖英の遠謀や配慮に一切気づかず、話したいことを話す。
「そうだ。そもそもお主は一八四三年に若干十六歳で、泳州昴試を首席合格した。わしが州王に即位した年だから、よう覚えておる。政策論文の主題が、 ― 両湖地方における湖岸拠点の整備 ― であったのう。あの時すでに、漫丈平を想定していたのじゃろ。」
「いえ。あの時はまだ。」
「だが、いくらなんでも二年でここまでは出来んじゃろ。前もって構想がなければのう。」
泳村郭の言う通り、建議の前から湖英は泳州作相府に出入りし、構想を練り始めていた。だが、幾度か作相府を通じてその構想を州王に上げたのに、まったく検討されず、ようやく二年前の建議で決議されたのである。
湖英からすれば、
(あんたの決裁が遅かっただけじゃないか)
という思いだ。
泳村郭は湖英の返答を待たず、眼下の湖からそそり立つ巨大な蒼き城壁を指差す。
「いずれにせよ、二年でこの城塞を築いたのはすごい。お主を作相代に就けるよう、言っておく。」
「はっ、ありがたき幸せ。」
袿九雲が白けた顔をしているのを横目にしながら、湖英は頭を垂れる。最早、彼は現作相の彪冊鈴に取り入っており、泳村郭抜きで就任の根回しは進んでいる所だ。大体、州王は予算の編成にまったく力を貸さず、特に三鼎龍の府が非協力的だった為、作相府が単独で奔走し、他の省庁から予算枠を分けてもらったり、作相府の名で借款を募ったりしたのである。州王になんの恩義もない。
それにしても泳村郭の言葉は何と空虚なのであろう。こちらをおだてるような事を言うのだが、このようにどれも的が外れていて、全く心が動かない。
名家泳村家の当主として、そして泳州王として、誠に不安な限りだが、それでも領内が良く治っているのは、泳州昴試という独特な官吏登用試験のおかげである。この制度の為に、泳州は他州に比して人材の質が高かった。
(俺もその秀才の一人だがな。)
その試験で首席合格した湖英は、強い自負を胸に秘める。しかし、州王当人には恐縮して見せる。
「幸せではありますが、この城の事業はすべて州王の、泳村家のご威光によるものです。私の力は、ほんの小さな歯車の一つにしか過ぎません。」
よく言うわ、という声が、音もなく袿九雲の方から聞こえた気がする。
「何を、当家は口も金も出しとらんわ。すべてお主の功績じゃよ。」
太陽は宙空を過ぎ、少し傾いてきたが、夏の陽はいよいよ強く、青い大城壁は焼けるが如くであった。
泳州王泳村郭は、いよいよ暑苦しい笑顔を振りまく。
「どうじゃ、『湖英都』というのは。」
「え?」
驚きの声をあげたのは湖英ではなく、袿九雲であった。
「この城市の名じゃよ。漫丈平、じゃあ格好悪い。」
「私の名を入れてしまうんですか?」
「言ったろう。州王家は何もしとらん。この城を造ったのはお主じゃよ。」
「しかし」
横を見ると、袿九雲がまた口をあんぐりあけて、泳村郭を見つめている。
湖英は、言う。
「州王の御為、この漫丈平に泳州全体で築いた城市です。私個人の地は、ここに寸土も有りませぬ。依って私の名を冠すなど以ての外です。何卒、ご再考ください。」
「いや。もう決めたのじゃ。この蒼き、壮大な城壁を見よ。淝東湖の眺望を見よ。今後、この城は泳州の只中に輝く、宝玉となるじゃろう。お主の大功を、州民の記憶にはっきりと刻まねばならん。」
普通に考えれば、迷惑な話である。作相の彪冊鈴の他、今回協働した作相府の官僚たちの心中をまず慮らねばならない。また、州王府に巣食う閣僚、州内の豪族、あまた実力者どもは自尊心に凝り固まった猜疑心の塊だから、湖英を嫉視し、警戒する筈である。
「ご再考下さい。」
湖英は、泳村郭に対してそう繰り返したが、しかし内心ほくそ笑んでいる。
(ふふ。この世間知らずの坊々親父も、珍しく我が意を得たわ。)
大湖の湖面を滑る幾艘もの舟。
城壁を隔てて反対側では、槌音をたてる無数の人夫達。
青い磚を積層させた東城壁は、その上で甍を煌めかせるこの淝望楼は、見上げる彼らの目にはどう映っているか。
炎天下の淝東湖岸に誕生した、この大城郭は、これからどんな存在になっていくのか。
(『湖英都』か。)
湖英はそう考えながら、わくわくしているようだった。口の端に、真っ白な歯が見える。笑っているようだった。
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泳州




