黒き蠍の鯨波
夏空の下、黒褐色の武人が、一人。
時は、眞暦1850年7月。
所は、坡州の原野、址天野。現在、妖州勢と坡州勢が争っている戦場である。
武人は、黒褐色の甲冑に身を包んでいる。胸当、肩鎧、行縢、佩刀、兜まで、艶消しの黒で統一されていた。目庇の下、その目は影となり窺えず、形の良い厚い唇も真一文字に結ばれているが、鎌の如き鉤鼻が前面に飛び出していて、それがひどく目立つ。
いや、もっと目を引くものがあった。
鎧武者は背に黒光りする鉄製の造形物を背負っているのだ。複雑な形状で鉤鼻よりも、異様である。
それは、蠍だった。
大きな鉄製の蠍を背負っているのである。天を掴むように伸びる両の鋏。大地を叩くように反り返る、先の尖った尾。
ふりそそぐ初夏の昼光が、背の大蠍にギラギラと反射している。戦場において、その黒色の凶々しい姿はやはり異様であった。
武人の姓は蠍、名は魅。
母は虫州や闔州で遊女をやっていたが、息子の蠍魅は妖州軍の中で千人もの歩兵を束ねる部将に成り上がっている。彼は右手に直径十cm、長さ三mの、これまた真っ黒な鉄槍を握り締め、余人の近付きがたい武者振りであった。
蠍魅は、戦場を睥睨する。
すでに勝負はついている。妖州軍の圧勝であった。彼の指揮下にある千の軽装歩兵は息をあげ、肩で息をしながら、しかし満足気な表情を浮かべて、蠍魅の指示を待っていた。皆、部隊長に合わせて、黒の戦袍や甲冑に身を包み、見る者を圧倒する漆黒の集団を形成していた。
蠍魅は分厚い唇を紅く開いた。
「蠍軍、総員勝鬨を上げよっ」
その声は若かった。
声変わりこそすれ、少年の幼さも少し残る。
彼はまだ、十九歳であった。
「おおー」
蠍魅隊千は一斉に、刀槍を高く天空に上ぐ。その咆哮は、戦場に響く。若年の隊長が下した指示に、皆、一糸乱れず従った。
(戦は楽しいな。これほどの圧勝なら、六牙将の中でも軍功第一であろう。)
蠍魅の鉤鼻が少し歪み、その下の厚い唇が嬉し気に笑う。
彼の目には、累々と横たわる敵兵の骸が映っている。どの敗兵も虚ろな目をして、生きている者はない。址天野は小さな丘陵が点在する原野であったが、平野には勿論のこと、丘の上にも死骸が積み重なっていた。
(こいつら皆、絶望したような顔して死んでるな。俺の奇襲がよっぽど突然で、そして強力だったからだろうなっ。)
蠍魅の隊だけで、三千人の坡州兵を葬り去った。敵は側面を突かれ、驚愕し、混乱し、なすすべなく崩れ去ったのだ。
(しかし、地四兩もこの程度か。かの塊協半軍における伝説の名将、地十の子息といっても、何程のことやあらん。まったく手応えが)
と、その時、原野のかしこから、丘陵の向こうから、至る所で勃然と雄叫びが巻き起こった。味方の別隊も、蠍魅隊に負けじと壮大な鯨波を上げたのである。
他隊もかなりの戦果と見える。妖州軍総勢四万。戦場は地鳴りのような勝鬨に揺れた。
蠍魅の厚い唇がきっ、と結ばれた。犬歯が下唇に食い込み、鮮血が滲んだ。
次の瞬間、右手の巨大鉄槍を天に突き上げ、先ほどに数倍する大声で吼えた。
「牙皇太子に聞こえるよう叫ばんかい!他の五牙に負けるな!」
若い蠍魅の叫びは、広大な址天野の隅々にまで届き、全軍の脳裏に鳴り響いた。
途端に妖州軍四万は水を打ったように静まり返る。夏空高く掲げられた蠍魅の鉄槍に目を奪われ、そして、その大音声に驚いたのだろう。
だが、蠍魅に叱咤された彼の直轄軍、千名までが、一緒に黙ってしまった。気圧されて、言葉が詰まっているのである。
(この址天野の戦いにおいて、軍功の第一は蠍魅なのだ。他の五牙ではない。)
血だらけになった口をなお食いしばり、黒く光る巨大鉄槍はいまだ蠍魅の逞しい右手によって屹立している。背の凶々しい鉄蠍が、その研ぎ澄まされた鋏で蒼天を切り裂かんとしているかに見える。
急に、蠍魅の遠吠えより更に大きい、
「ああっはは!」
という笑い声が戦場にこだました。
高い、玉のような笑い声。
それこそ声変わりもしていない、少年のそれだが、蠍魅の絶叫を上回る大きさながら、野卑でなく、蠍魅たち六牙将をはじめとする荒くれどもとは、どこか異なる高雅な色音。
その笑声は、妖州軍の本陣の方から飛んできた。
蠍魅は、すい、と鉄槍を下す。
血塗れの厚い唇は、再び笑った。
彼が心血を捧げる「牙皇太子」に、我が主張は承認された。そういう、喜びからだろう。
既に古今最強と謳われるこの妖州軍は、妖州を発してより破竹の勢いであり、今、穣界にて彼らに対抗する勢力は見当たらない。
黒褐色の武人は、焼けつく大地に立ちはだかり、これからの快進撃を予感しているのか、目庇の影の中で眼光を煌めかせた。
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坡州




