秋空、炯軍島を過ぐ
「馬邪謁様、それは本当ですか。」
澱商拓は、秋の日煌めく海で舵を握る。
波のうねりは然程でないが、八百m先に横たわる岩肌荒々しい大きな島の足元では白波が砕けて、海を行く者に緊迫感を与えていた。
「そうよ。それよりちょっと。ほら、炯軍島から目を離すなっ。」
「あ。はあ。」
「旗船が舵を誤れば、全船暗礁に乗り上げるわよ。」
そうだ。島の沖には大きな瀬がいくつかあるのだ。後ろをふり向けば、艨衝、小船五十隻で構成された炎州王燦家の誇る高速船団がついてきていた。
澱商拓は調練とは言いながら、自分の責任の重さに今更ながら手が震えた。狐のように吊った目は一層鋭く釣り上がり、奥歯をグッと噛み締め、それが為に細長い顔が少しだけ短くなったが、顔はそれでも常人の顔面の倍は長かった。
(伝統ある麗后水軍を、壊すわけにいかぬ。)
澱商拓は緊張感をみなぎらせたが、馬邪謁はそれに水を差すように声を投げかけた。
「本当よ。」
「は?」
「陽皇の話よ。」
急に話を戻した馬邪謁は、ゆったりと首をめぐらせ、澱商拓には視線を合わせていない。真っ黒に日焼けしたその小さな丸顔は、四方の海に向かっている。
(麗后水軍たる者、五十艘の船団に難所を超えさせつつ、軽口の一つも叩く余裕が無いといけぬ。と言ったところか。)
よく見れば、馬邪謁はその二重の大きな碧眼を炯々と光らせ、海面に隠れた暗礁群、船団、炯軍島を抜け目なく目配りしていた。炯軍島の周囲に散在する黄色い岸壁の小島や海面に顔を出す岩礁の群も、一つ一つ確認し、その都度茶褐色の長髪が、さらさらと揺れた。
馬邪謁 ―
麗后水軍の現副総督であり、かつて燦蝉のもとに水軍を創設した「麗后四将軍」の一人、馬邪李韻の子孫でもある。
「そうですか。そうすると馬邪謁様、剋鮮が剣州から渡海して島の頭に立ったから、そういう国になったということですか。」
「それだけでは無いわね。」
南方特有の風貌を色濃く残す馬邪謁は、ゆったりと言う。澱商拓が艨衝の衝角を北に向けると、続く五十隻も舵を切る。船団がざざざっ、と白波を蹴立てながら一斉に旋回したのを確認し、再び馬邪謁は口を開いた。脂の乗った女盛りの唇である。
「剋鮮が渡海する前から大陸との交流はあったし、以後も剋鮮の王統になった陽皇家とは関係なく、大陸と流通する海民は無数にいたからね。陸島の民は、航行技術の研鑽を惜しまず、優れた操船技術、造船技術を持っている。剋鮮が時の康言陽皇に呼ばれて渡海した後、ええと、七四八年後になるかな。陸島は時の女鬼帝が派遣した大姚帝国の水軍を国内で破っているわ。綿之山野戦、久乃浦海戦、とね。」
一気に解説されて、澱商拓は吊った目をパチクリさせたが、舵を間違ってはいけないから、取り敢えず馬邪謁がさっきしたように、暗礁群と後続の船団と炯軍島及びその周辺の小島の位置を目視確認した。長い顔がゆらゆら揺れた。
そして、なかば上の空で、言う。
「副総督、陸島のことお詳しいですね。」
秋の高い天空の下、ひたすらに海は青く、波が揺れ、海鳥が舞っていた。海中の魚群に突っ込んでいく鳥たち。だが、麗后水軍はその鳥たちを蹴散らしながら、海上を行進していく。
「あの島のことは、私はあまり。『浮天界』や『閣公譜』は読みましたが。そもそも陸島については書物も」
「商拓。」
ふいに名で呼ばれ、口をつぐむ。
馬邪謁の声には棘があった。澱商拓の舵を持つ手が、突如発汗した。
「この麗后水軍は誰が作ったのよ。」
「あ、ええと。燦蝉公と麗后四将軍です」
澱商拓は、目を細めて航路を見やる。私は操船に集中しています、陸島についての会話は乗り気ではありません、と態度に出した積もりだった。
しかし、許される筈がないのも分かっていた。実際に、小麦色の妖艶なる副提督は、そんな顔の長い操舵主を捉えて離さなかった。
「本当の答えは違うわよ。あと、先に言っておくけど、あんた、今度陸島のことを『島』呼ばわりしたら、蹴っ飛ばすからね。」
薄い鉄札を連結した水軍鎧を纏う馬邪謁は、鋭い三角錐の鋲をびっしり埋め込んだ行縢を見せつけて、脅した。
あんなので蹴られたら下手をすれば死ぬ。
澱商拓はちら、と馬邪謁の鎧姿を見たが、すぐに長い顔をそむけた。
「以後、注意。いたし、ます。」
怖くて、まともに馬邪謁を見られない。
「水軍創設の発案は、燦蝉公でも四将軍でもない。陸島の関係者、亡命の剋流陽皇家の関係者よ。」
「そうだったんですか?」
これは知らなかった。
大陸で無双の精強を誇るこの麗后水軍は、今から百七十年程の昔、燦家の初代炎州王である燦蝉が指揮し、そして馬邪李韻・煇響文・俳忖・剋綱勢という「麗后四将軍」が編成の実務を執って、完成したものだと教えられてきた。
「まったく。お前はただ海に出て、何も考えず船を漕いでるだけだから、無知なのよ。もっと、古参の連中に混じって、教えを乞いなさい。そうすれば、とっくにこのことは知っていた筈。」
「は。」
「初代総督である洪先珠の本名は、姓が高木、名は珠連。」
澱商拓の針のように細い目が、丸くなった。
「え?では。」
「そう。陸島人なのよ。というか、高木家は古来から陽皇家に仕える朝臣の家柄。彼の家は、陽皇家の亡命に付き従ったのね。四代に渡って大陸に息を潜める主上を故郷に返す為、高木珠連は炎州の炎勢里に強力な水軍を作った。そして、実際に麗后水軍は、波濤を超え、彼の地に陽皇家を復活させた。」
小麦色の頬を少し紅潮させながら、馬邪謁は続ける。
「炎州王燦家でも、このことは代々そ忘れずに語り継いでいる。こんな感じで、陸島は切っても切れぬ縁。この水軍にいる以上、陸島史は知らなければならないわ。ふふ、ここであった戦さのことは知っているわね。」
「あ、当たり前です!知ってます!」
さすがに澱商拓は顔を赤らめて、ムキになった。
「一六九一年八月、我が麗后水軍が、陸島の劇営水軍をこの炯軍島海域にて撃破したのであります!」
炯軍島海戦。
それこそ炎州の民なら、幼い頃から知っている常識で、誇りある歴史の一頁である。
しかし、どちらかというと影の薄い初代総督の洪先珠が水軍の実質的な創設者で、しかも「高木珠連」などという陸島人だったとは。
「失礼。とにかく、もっと陸島のことを良く勉強なさい。そして年長者ともっと交流なさい。」
「分かりました。」
澱商拓は素直に頷いた。
それを見て、馬邪謁も白い歯を見せ、海に視線を移した。
「妖州生まれの狡猾な老人に入り込まれたけど、新しい王もいるし、そんなのに乗っ取られるヤワな国ではないわ。」
これは独り言で、澱商拓には半分も聞き取れなかった。
だが、頷きながらも澱商拓の方は思案顔である。
(我が水軍の発端が、陸島にあるのは理解した。しかし。)
しかし、それにしても、馬邪謁は陸島の肩を持ちすぎなのではないか。
澱商拓は、舵を握る手に力を込める。
(副総督の祖にして、「麗后四将軍」の一人、馬邪李韻公の出自は、熱方の海賊だった。豊人への対抗心から、熱方人である馬邪家は、同じ非豊人である陸島人に親近感を持っているのかもしれぬ。)
馬邪謁は幾度も環泪海を越え、陸島に渡って、海賊掃討など軍事的に手を貸している。心情的なものがなければ、こうした行動は考えにくい。
澱商拓の艨衝に率いられた五十隻の船団は、炯軍島と小島の間の海域を抜けた。皆、百六十年前にこの海で何があったかを胸に思いながら操船したことであろう。しかし、大きな炯軍島の岸壁も、小島の黄色い島影も、あっという間に、船団の背後に過ぎ去って、もはや眼前には紺碧の海だけが茫漠と広がっていた。
広大な環泪海を見ているうち、澱商拓の長細い顔から思案の皺がとれて、徐々に緩んでいく。
眞暦1851年10月。
天高く抜ける秋の晴天の下、麗后水軍の船団は、悠然と海洋の浪を蹴立てていた。
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環泪海




