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獣髯記談義


 福(ふく)州の三月はさすがに南国、すでに暖かいが、夜はまだ薄着にはなれない。月が、たなびく雲に見え隠れしている。


 州北部の被筆賁(ひひつふん)という街の郊外に、ひとつの白い邸宅があり、そこから笑い声が漏れていた。


「この葷史罫(くんしけい)って人は、本当に面白いわねえ」

 この邸の娘、禮戌(れいじゅつ)は、興奮気味に語る母に対して、同意の目線を送る。幼い顔の真ん中に付く賢そうな薄茶の瞳が、愛らしい。


 禮戌の母は、一冊の本を握りしめていた。表題は『獣髯記(じゅうぜんき)・巻之二』と読める。


「へん、どうせお前ら女は、困士甜(こんしてん)がお気に入りなんだろ?」

 円卓の対面に座る禮戌の父は、にやりと笑いながら、女二人を指差す。母はぱっちりとした二重(ふたえ)の眼を更に大きく見開いた。禮戌は母のこの表情を見るにつけ、(喰われそうだわ)と思って、怖くもあり、可笑しくもあった。

「それはそうよ。困士甜って、醜女(しこめ)だけど、電光石火の早技で男どもをなぎ倒してさ。格好良いじゃない。あと、一途に穣界皇(じょうかいおう)を輔(たす)けて、軍事に関しては幕下で最大の貢献度だったでしょう。ねえ、戌。」

 その大きな眼で、母は禮戌に同意を促す。禮戌が、それに反応せずにいると、すぐ父が反論した。

「女が男をぶっ飛ばすのが爽快なだけだろ。あんなエラの張った女、俺は嫌だな。」

 父はそう言って、母の瓜実顔をゆっくり撫で、

「どうせなら、掬巴且(きくはしょ)のような美人か、揆朋楓(きほうふう)のように色っぽい女がいい。」

 とデレた顔で言う。母は父の節張った指を白い手で優しく包むと、しかし語気はきつく父を責めた。

「あなたのお立場は何ですか。福州交相(こうしょう)府の被筆賁支部次官補ですわね。そういう助平(スケベ)な目線ではなく、一官吏として穣界皇と褐剣髯(かっけんぜん)の戦史をきちんと踏まえ、お答えなさい。」

「はっはは。厳しいな。」

 母の糾弾に父はのけぞってみせたが、禮戌の目にはその表情が楽しそうに見えてしょうがない。自分に似た父の薄茶色の瞳が、半円形になって、笑っている。


「俺のご贔屓は、やはり褐剣髯だな。」

「褐剣髯 ― 塊協半(かいきょうはん)か。卑賤の出から身を起こした英雄だけど。あなたのような役人にとっては、危険な存在じゃないかしら?」

「そうだな。俺の立場だと、正直な所、穣界皇の方について行きたいね。二千年近い歴史を誇る名家の、しかも名君だからな。対して、褐剣髯は反体制派だ。」

「なら、どうして。」

「創造力だよ。」

 禮戌は、父の笑顔を興味深く眺める。

「穣界皇美獣は覇道を行った。自らの恵まれた資源を最大限活用した。一方の褐剣髯は徒手空拳、資源を持っていなかった。だから、褐剣髯は一から自分の手で資源を創ったんだ。」

「そうなの。」

「そうなの、ってお前。その手に持っている『獣髯記』をもっとよく読み直せ。」

 父の頬に、少し赤みが差した。

「ほら。褐剣髯は、塾夢塾(じゅくむじゅく)という農本主義の桃源郷を作ったろう。」

「そう言えば描いてあったわね。それに、あの村はまだ実際に存続してるわ。」

「塾夢塾は、穣河(じょうが)以北の美獣(びじゅう)の領地からも流入民を呼び込んだ。褐剣髯は、塾夢塾によって穣界皇の農業生産力を削ぎ、自らの力に変えたのだ。それで、圧倒的優位にいた穣界皇に伍することが出来た。」

「ふぅん。」

 禮戌は、父の話に小さく唸った。両親には聞こえなかったようだが。

「それであなたは褐剣髯が好きなのね。」

「地盤が無いのに、即効性の低い農本政策を採る。肚が座っていて、長期的な視点に基づいて行動する為政者だ。行政に携わる者としては、手本にしなければならない。」

「ふふーん。なんか、真面目過ぎてつまらない回答。」

「お前が職業柄を踏まえて考えろ、って言ったんだろうが。」

 父は怒ったが、表情は楽しそうな笑顔のままだった。


(ふうん。でも。)


 禮戌の贔屓は断然、朦罠(もうみん)だった。


 朦罠。

 主君に殺されかけたが、褐剣髯に助けられて生き延び、その恩で褐剣髯の臣下になった男。そして褐剣髯亡き後、自領の明(みん)州に独立した男。知勇兼備の良将で、かつ処世に長け、臣としても、首領としても力を発揮した男。


 禮戌は、ふと母の背後に立つ本棚を見る。『獣髯記』の一巻、そして一冊分の空隙があって、三巻から五巻までがきれいに並んでいる。


 昨年、眞暦(しんれき)一八五二年。

 市中の作家である葷史罫が『獣髯記』を発表した。因州王で名家の嫡流、「穣界皇」美獣と、坡(は)州の貧民で剣の如く硬い褐色の髯を持つ「褐剣髯」塊協半の両雄が、穣界を二分して激突する戦記である。四十年以上前の実際の戦乱について、史実に基づいて叙述している。

 当初、都州帝城(としゅうていじょう)や穣界で発刊され、瞬く間に流行し、ここ楽界でも刷ったら刷った分だけ売れた。今年に入り、どの本屋でも品切れの状態である。


 禮戌は、『獣髯記』全五巻を既に何度も読み返した。

 だが、朦罠のように万能な人物は他にいない。


(私はやっぱり、朦罠だなあ。)

 父譲りの薄茶の瞳を光らせて、幼女は一人思う。爽快な女軍人の困士甜でも、創造性ある英雄の褐剣髯でもない。


 暖かな福州の春夜。

 月が傾いていく。

 深更まで、白壁の広壮な邸から明るい笑い声が漏れていた。












*************************************



福州


挿絵(By みてみん)



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