小盗賊、大軍に対峙す
竹州西部の城市、笙乙の郊外に範北器という小村あり。
数日来の霖雨は先程漸く止み、村の前に立ちはだかる緑濃き深山は山襞に霧波立て、草木の芳香を周辺一帯に送り出していた。
時は眞暦1853年6月。
無限に続くか、という程壮大な緑山は岑篁山脈と言い、その麓に小さく縮こまっているこの村は、夏を前にした密林の力強い息吹に呑み込まれたようであった。
村人はいない。
だが、杣家の如きうらぶれた家屋たちは無人となって久しからず、周囲の雑草群もまだ絡んでなく、つい最近の生活の跡も散見される。
廃村ではなさそうだ。
勃然と、岑篁山脈の大自然に変化が生じた。
集団が見えた。緑の壁の如くそそり立つ山岳を、力強く駆け下ってくる隊列が現れたのである。
どこぞの軍であるか。
山襞を縫うように、蟻の如く整然とし、そしてその行軍は速かった。この村は、楽界平原の西端である。はるか西方から、波濤の如く波打つ岑篁山脈を越山して、楽界を目指してくる大軍とは。
「ちっ。もう来やがったか。」
無人と思われた範北器村に、しゃがれた男の声。
空き家となった一軒の暗い窓に、髭に覆われた男の顔が覗いていた。
姓は笙、名は験一。
笙乙の街を拠点に、周辺で空き巣を働く、しがない盗人である。
極端に小さい右眼をしばたたかせて、山を下る一軍を見つめながら、薄い唇をせわしなく舐め始めた。
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十日程前の夜。
降りしきる雨の中を、笙験一が油傘を差して歩いていた。所は、笙乙の裏街。行き交う人々を避けながら足を進める。左足を少し引きずっているが、慣れた道だからか、割と速く足を進めている。
(あいつ、何しているかな。)
足早なのも当然で、馴染みの女のもとへ向かう途中なのであった。小指の先ほどしかない小さな右眼は、いやらしく上を向き、何事か想いを巡らせている。
ふと、前を歩く下吏と思しき二人組の会話が、耳に入った。
「三籠軍はとっくに進発してるらしい。」
「え。凱源を?」
「馬鹿か。それぁ、随分前に触れが出とるだろ。聞いてなかったのか。嵩兵口をもう進発したのよ。」
「ええ!じゃ、早々にこの笙乙も襲われるじゃないか。」
「十日、いや、十四、五日後かな。」
「まあ、岑篁山脈を越えてくるわけだからな。それぐらいかかるか。ちなみに、兵数は。」
「六万。」
「ひえ。範北器とか、州境の郡村に早く伝えないと。」
雨音で油断しているのか、声も落としやしない。口の軽い役人ではある。
「明日にでも州交相府から特使が来る筈だ。」
「それから周知か。村々に伝わるのは明後日だな。」
(ほほう。)
ここまで聞いて笙験一は、小さく左の拳を握った。傘の下、髭の中で満面の笑みである。
(千載一遇の稼ぎ時だ。)
しばらくして、女の家に着いた彼は意気揚々と言った。
「やっと、お前を楽させられるぞ。」
「本当かい?儲け話なの?」
「おうよ。西から山州の大軍が攻めてくっからよ。西の諸郡は皆んな避難するのさ。」
「そりゃ、盗み放題だわ。良かったじゃない。」
「この平和な竹州で、戦なんてそうはねえからな。本当、空き巣稼業にとっちゃ、稀に見る好機よ。」
「まあ、きっとこの笙乙も危なくなるわよね。そん時はさ、私も東の縁戚の家に避難するわ。ここよ。」
女はその東の縁戚とやらの所在が書き刻まれている木片を、笙験一の手に握らせた。随分と用意が良い。
「ここにいるからさ。奪った金はここに送っておくれよ。」
「よおし。無事に待ってろよ。お前の縁戚ともども、まとめて裕福にしてやらあ!」
そう言うなり、笙験一は女にむしゃぶりついたものである。
翌朝早く、彼は旅支度を整え、情婦の家を飛び出した。そして、笙乙西方の郊外へ向かう。
「やはり、役所の話は民衆に筒抜けだな。」
まだ避難令は正式に布告されてない筈だが、村々の多くは既に避難の支度に入っており、中には早くも無人になっている村落もあった。これまた、随分準備が早い。
笙験一は髭に埋もれた顔を皺くちゃにして、
「早く来てよかった。」
と喜び、早速仕事に取りかかった。
無人の村では堂々と戸を開け、施錠の扉は斧で豪快に破壊して、留守宅に押し入った。避難準備中の集落では、雨の中で村民が皆繁忙を極めているから、どさくさに紛れて、細かい金品をちょろまかし、最後はひと抱えある荷包みを1つ、鷲掴みして村を脱出する。以前から、この地域の中間点にある竹林の中に隠れ家をこさえてあり、盗品は都度、そこに放り込んでいく。
この辺りにも盗賊は星の数程いるが、今回の始動は彼が最速だった。四日間徹夜で、霖雨もものともせず、片足を引きずりながら十数ヵ村を走り回り、隠れ家は盗品で溢れんばかり、しかし彼の欲望は満たされず、留守宅侵入を継続した。
範北器村に着いたのは四日目の朝であった。笙乙西方の十数ヵ村でも最西端に位置しており、順番としては一番最後になった。すでに村民は退去し、他の村と同様、静まりかえっている。三日目くらいから同業の空き巣と競合し始めていたが、四日目の範北器は一人で入れた。
しかし、笙験一の眉根は曇った。
「くそ。ここも、先を越されたか。」
三日目くらいから、同業も動き出してきる訳だから、遠方の範北器が、先回りされるのも道理であった。
だが、すぐに気を取り直し、眼前の一軒を目掛けて、右足でぴょんぴょん飛ぶように迫ると、すでに鍵が破壊された扉を引いて、慣れた身のこなしで侵入する。案の定、家内は引っ掻き回されているが、居間などには眼をくれず、まっすぐ寝室に向かった。寝室と言っても倉庫と兼用のすえた臭いがこもる小部屋であったが。
重たげな箪笥があり、これをズズッ、と動かした。
「へっ。先客さんはまだまだ盗みの日が浅くてらっしゃるな。」
箪笥後ろの石壁が一部、掘り込まれて、そこに少ないながら宝飾品が置かれていた。ジャラジャラと鎖や指輪の一かたまりを掴む。
「貧しい家でも、先祖代々の品を持っている。そいつは家の中でも一等奥まった所に隠すもんだ。」
笙験一はまだ見ぬ先乗りの同業者に対して、一人、説教を垂れた。
暫く物色し、他にもいくつか金目のものをほじくり出すと、一軒目を出る。
じゃりっ。
その時、遠くで物音がした。
咄嗟に、家の前の木陰に隠れる。
「本当か」
「ああ、あの家に…居るように見え…」
小声で話す二人の男の声。
木の裏から覗き見ると、足音を忍ばせながらこちらに近寄ってくる二つの人影があった。野良着を着ているが、肩や胸のあたりが盛り上がっていて、中に甲冑を着込んでいると思われる。
屈強である。変装した兵士ではないか。忍び足ながら、たまに石や枝を踏んで、小さく音を立てる。
「窓の中に… していた…」
家の方を指差し、しきりに何か言っている。家を出る姿は見つからなかったようだ。
(しかし、このままでは、捕まるぞ。)
隠れている木は、家のすぐ傍だ。今、走り出したら見つかるだろう。
扉は開いたまま。
笙験一は素早く足元の小石を拾うと、家の中に投げ込んだ。
からん
軽い音がした。
「あ。やはりいるぞ。」
「しっ、静かに。村人ならまだいいが、竹州府の奴だと厄介だ。気を付けて行け。」
二人組は、引き続き忍び足で家に近づいてくる。
二十m、十m、五m。。。
ついに木の幹の向こう、眼前まで迫ってくる。
(間違いない。山州軍の ― 三籠侯軍の偵察兵だ。)
二人とも顔中に刀創を走らせ、いかにも百戦錬磨の武人であった。
扉の破壊跡を見て、目配せし合っている。先乗りの盗っ人がこさえたものだから、切断面は一日が経過している。― 今ではないが、つい最近壊したようだ ― そんな、やりとりであろう。
二人は笙験一の目の前を通り過ぎ、家の中に忍んでいく。
ややあって、家中に声が響いた。
「誰かある!州龍牙府の者だ!」
「出てこい!」
しばらくそう呼んでいたが、その隙に笙験一は足早に家から離れていった。
その後、彼は笙乙西方の十数ヵ村に、再び押し入った。二巡目になった訳だが、さすがに稼ぎは少なかった。途中、隠れ家に収蔵した盗品の一部を情婦の避難先に送ったりした。
そして五日後、空き巣開始からで言えば、九日後。
「範北器の村に、まだ獲り残しがあるかもしれぬ。こないだは邪魔が入って、一軒しか漁れなかったからな。」
三籠侯の軍が範北器村に到着するまで、あと四、五日あるはず。そう考えた笙験一は、西端の村を再訪したのである。
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「しかし、ま。お早いお出ましだなあ。」
眼前に、四、五日後に着く筈の三籠侯軍が来襲している。霧の立つ、雨上がりの緑山を、長蛇の隊列が、楽界の大平原目掛けて降ってきている。
「まったく。この村も、あらかた持ち去られてやがるしな。」
笙験一による範北器村の再探索は、不発だった。その後の六日間で、他の空き巣に盗みつくされたものと見える。舌打ちしながら、それでも諦めずに空き家を物色していた時、越山軍の襲来に気づいた訳である。
遠く、馬にまたがった三人の偵察兵が、こちら目掛けて駆けていた。
速い。あっという間に近づいて、窓にたたずむ笙験一を指差し、馬上に会話している。
もはや、見つかった。
(さて。)
空き巣の笙験一は、腕を組んで堂々と、立つ。
この辺りや笙乙の情報を提供すれば、いくらか、報酬を呉れるかな?場合によっては、案内役として雇ってくれるやもしれぬ。
迫り来る三人の偵察兵の背に、旗幟が立っているのが見えてきた。
「三籠侯」と読める。
覚悟は決まった。
目付きの鋭い生粋の武人どもに負けぬよう、左右で大きさの違う眼でこちらもしっかりと睨み据えながら、笙験一は髭の中の薄い唇を舐めまわした。
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竹州




