海商盛衰考
「そして、広屋の奴が裏切り、投島城は炎上。そして… ぐっ。」
績菩梵の眼前にいる痩せこけた男は、ふいにこみ上げた涙を必死にこらえた。傍に控える計数頭の紊興は、長い黒髪をかきあげながら、値踏みするような目で男を見つめている。
窓から吹き込んだ冷たい風が、痩せ男の縮れた小鬢をめくる。
豪商である績菩梵の邸宅は、彼の父が贅を尽くして建設したもので、この客殿も光沢ある大理石で仕上げられ、全ての調度も林州家具の一級品で統一されている。
しかし、寒い。
時は眞暦1828年12月。
南国網州の港市、維嗚にあってもさすがは十二月、特に今日は海は荒れ、冷たい東風が街全体を強く襲っている。この部屋も例外ではない。窓が開け放たれてるから眼前に港が広がって眺望は良いが、冬の海風がまともに吹き込んで来てしまう。
績菩梵は重たげな厚い目蓋を瞬かせ、驚いた声で言った。
「何と。深町殿、それでは御家は。」
「滅亡したようなものですっ。」
対して深町と言われた痩せ男は、真っ黒に日焼けした顔をくしゃくしゃにしながら叫んだ。深町 ― 深町範義 ― は海賊らしく、喜怒哀楽の起伏が大で、今は怒りが前面に出ているようであった。
「滅亡したようなもの?正香殿はいかがした。」
「うう。」
深町範義は痩せこけた顔に、治りかけの金創を所狭しと走らせている。しわくちゃに歪む表情は、この裂傷のせいだった。
一方、績菩梵の福々しい顔といったら無い。健康的に日焼けした面長の顔面に満遍なく肉を付け、額の真ん中に大きなほくろを持つ。深町範義に比べて、何とも緊張感が欠けていた。
「正香様は、杖鳴香めに囚われました。恐らくその弟の腹賢に嫁ぐことになります。」
「え?杖に嫁入りさせられるのか。大海道の棟梁が?」
紊興はぱっちりとした黒目を更に大きく見開いて、績菩梵を確認する。陸島の巨大勢力である海道家の情勢より、自分の主人の声音にびっくりしたようである。
「海道家の勢威は、大陸にまで鳴り響いておる。それが、のう。我が大陸も穣界の戦乱は泥沼化しておるが、陸島も大変じゃな。」
「貴家には大変お世話になり申した。これまで本当に多くの御発注を頂きました。」
また、海風が三人の体にぶち当たる。
績菩梵は窓の外を見た。
邸宅は高台に建つ為、入江に発着する多くの船がよく見えた。そして、その半数が績家の橙色の帆をあげている。
少し、績菩梵がため息をついた。
「ついに飛田と海道の決着がついたという訳だな。」
はい、と深町範義は蚊の鳴くような声でうなずき、紊興はまた不思議そうに主人を見やった。
績菩梵は、港から深町範義に視線を戻した。
「貴家には、こちらこそ世話になった。遠くまで、辛い話を伝えに来てくれて、済まなかった。貴殿も、希望を持って、これからを頑張ってくれ。」
深町範義は、最早言葉にならず、無言のまま立ち、海の見える客殿から退室した。
福々しい顔にどことなく憂いの影がさす主人に対し、深町の足音が遠ざかるのを確認してから、紊興が問いかける。
「菩梵様は、海道滅亡の顛末は、既にご存知でしたわね。だから途中まではあの陸島人をいたぶってらした。」
績菩梵の表情は変わらぬ。しかし紊興は、長い黒髪を揺らしながら続ける。
「でも途中からは、別のことをお考えでしたわ。」
「十歳だったかな。」
「は?」
績菩梵の重たげな目蓋は今や完全に閉じ、うわ言のような言葉を漏らし始めた。
「1805年だ。秋だったと思う。父が、績晋が興奮しておった。」
「大旦那様が。」
「うむ。相手は、訛りの強い|豊《》ほう語を話す矮小な男だった。」
「それが当時の海道家の使者だったのですか。」
それには答えず、績菩梵は薄く目を開け、天井を仰いだ。
「そこの梁の留め具もその時、彼の者らから買ったのだ。父は当時、網州から炎州の建造事業に手当たり次第首を突っ込んでいてな、資材をごっそり買い占めていたもんだ。海道の卸す陸島の金物類は品質が良かったから、特に気を遣っていたらしい。」
紊興は紅をさしたその唇を、あ、という形に声も無く開けてから、いたわるように言った。
「その頃、この維嗚の港市も急拡大し始めたんでしたわ。」
「あの時は、維嗚の港には我が家の船しか無かった。」
もう績菩梵は海を見ない。再び目をつむり、腕を組んでいる。
身を切るような海風が、いよいよ強く窓から入ってくる。その福々しい長者然とした顔相は、眉間の皺のためか、今や厳しいものに変わり、額のほくろまでがひどく陰影を強めていた。大した時間ではなかったが、2人とも、長くてそして重く感じていた筈である。いま績菩梵がついたため息は、随分と深かった
しかし、沈黙は破られた。
「泪恋の理霊汪角が着きました。」
侍童が室外から告げたのである。
「お通ししますよ。あの海商は狡猾ですから」
いたわる声色はそのままに紊興が注意するが、績菩梵は言葉をかぶせた。
「納期遅れの珊瑚があったな。汪角が座る前に、お前からこの件を切り出せ。」
もう、眉間の皺は消えている。
「厳しめにな。」
「はい。」
紊興はにっこり笑うと袍の襟を正し、新たな訪問客を迎える準備をした。
冷たい風が、潮の香りを運んできている。
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網州




