黒蛇、逆襲開始
何日も雨が無く、七月の陽光の下で全てが乾燥していた。
「ということで必勤様のお許しを頂いてきた。」
眞暦1822年。捻州西部の田舎町、投甘衡。
捻州は平均気温の低い北国だが、やはり今は夏だ。恙郭は薄い眉をへの字にしかめ、眉間に皺を寄せて額の汗が流れるに任せている。黄土を搗き固めた自宅の壁も、開け放した戸の外に横たわる道も、どちらも熱を帯びて乾ききり、暑苦しい。壁に掛けた代々使われている鋼製の鶴嘴も、今は光沢なく、黄色い砂の舞う一室に沈んでいる。
いや、黄土平原に生まれ暮らしてきた彼がその程度で不快になりはしない。山師の家に産まれ三十三年、真っ黒に変色した太い手指を落ち着か無げに組み替える彼の眼前に、一人の訪問者が座っている。
「必勤公子のぉ、これが許可証でえ。不信なら、問合せて貰っでいいぜ。」
変な喋り方の老人だ。陸島の人間とのこと、外国人だから豊語が不自由なのも仕方ないが、そんなことはどうでもいい。
問題は、その風態だ。
小柄で丸みを帯びた老いた男。この猛暑にあって、漆黒の毛皮を着込んでいた。熊か。話には聞いたことがあるものの、見たことのない動物である。捻州の山を歩き回った彼でも、お目にかかったことはないが、渤方の山中に居て、彼の地の者はこの毛むくじゃらの外皮を防寒の為に着ていると言う。
男の顔はといえば、しわだらけで褐色。表情の一々が、お世辞にも好感を持てるものではない。とにかく顔も風態も、恙郭を不快にさせる老人ではあった。
「しかし、捻州王家もツイてますな。まさかお隣の超大国が倒れるとは、思ってなかったでしょお。」
ひひひ、と口を歪め、真っ白な犬歯を見せて笑うが、その薄茶の瞳は全く笑っていない。ずっと瞬きもせず、値踏みをするように恙郭から視線をそらさない。
「おや。あまり政のことは興味は無いですかな。」
いよいよ恙郭は渋面となる。
捻州王必黄站がかつて愛した掬巴且は、美獣の寵愛を受けて実質的な捻州の長となり、以来十三年間、「老捻王」はしなびた傀儡の老人に成り果てて、憎悪と情念を鬱積させ続けた。そしてつい四ヶ月前、調練中の掬巴且を「老捻王」必黄站は討った。掬巴且と公私ともに抜き差しならぬ関係だった因州王美獣は当然激怒して坡州壥強から北転し、七十二歳の捻州王の征伐に向かう。一方の必黄站も、当然こんな事をしたら美獣に屠られるだけだと分かっており、ただ十三年の妬心を暴発させただけだから、既に滅亡を覚悟していた。だが美獣は北進の途上、闔州盪関で突如、戦場の露と消えた ―
この一連の出来事は、捻州では童子とて知っている。
(ツイテいる、か。まあ、そうかもしれないが。。。)
だが眼前の老人の問いは、時の政府に対して批評するようなもので、一技師の恙郭には答えようがなかったのである。
熊毛皮の老人は汗一つ浮かべぬ。ニヤけた唇の上に載せた笑わぬ目が、恙郭に視線を絡ませていた。
「さてさて。貴殿は金鉱の見立てに詳しいとのことだなあ。どうですな、この捻州は。有りましたかなあ?」
有るにはある。だが僅かなものだ。姉の夫、義兄の恙傘材はとっくにこの家業に見切りをつけて恙郭に家督を譲り、別の職を見つけて、悪仏で羽振り良く暮らしているという。要は恙郭が斜陽の事業を押しつけられた訳で、継いで以降、新たに見つかった金鉱は、たった一箇所だったから、義兄もなかなか鼻の利く男である。州王家もよくこんな家を抱え続けているな、と我ながら不思議なくらいだった。チラリと、壁の鶴嘴に視線を向ける。
「まあ、そこそこだが。」
「そこそこ、ねえ。やり甲斐はどうじゃ。捻州もそれこそ、そこそこ広いがもう探し尽くしたんじゃないか?」
図星である。
先々代から恙家は捻州で鉱脈を探し続け、もうすべての山を掘り返したと言って過言ではない。美獣の支配下だったらまだ良かったかもしれぬ。他州への調査を命じられたかもしれないからだ。だがそれも今になっては夢想に過ぎない。
(もうここは、捻州の天地で汲々とする「老捻王」の国に戻ったのだから。)
恙郭を、他州へ派遣して金鉱脈をぶん取ろう、なんて大それた事を考える筈がない。
思えば彼の黒い手は、もう半年も土に触っていなかった。恙家の誇る鋼製の鶴嘴も、このまま使われずに壁にぶら下がったまま、錆び果てていくのではないか。
恙家の棟梁は、皺をいよいよ深くする。
「ぐむう。」
「陸島は ― 美陸は、黄金の山がごろごろしておるぞお。」
ぴく。
恙郭の薄い右眉が斜めに吊り上がった。
そんな恙郭を見て、顔色も変えず、老人は喋り続ける。
「貴殿はどんどん陸島の山野を歩き、気になった所は手当たり次第、鶴嘴を振り下ろせ。人夫は何人でも付けるぞ。」
「なに。大人数を使えるのか。」
「当たり前だ。」
恙郭の額の汗が滝のように滴り始めたのを、老人が気づかぬ筈ない。
「貴殿のような目利きを辺境の島国に招こうというのだ。相応の待遇をせねば、無礼なりぃ。ワシの評判が下がってしまう。」
恙郭の薄い眉がまたハの字にひしゃげる。
(そう。確かに遠い。俺は生まれてこのかた、捻州から出たことが無いんだからな。陸島なんて。)
対して老人のごま塩眉は微動だにしない。目だけが妖しく光ったが、恙郭は気づかなかった。
「ワシの国じゃ、露頭坑が蟻の巣穴みてえにポツポツ開いててな。勿体ねえのよお。」
「露頭掘り?鉉延じゃないんですかい。」
恙郭が身を乗り出すのを、老人は明らかに分かっていた。
「そうそう。貴殿には鉱脈を芋づる式に掘り出して貰いたいのよお。」
「そりゃ」
鉉を辿らせれば、穣界随一の自信がある。
「でかい仕事になるぜえ。貴殿にゃあ、すべてを任せる。数十人の人足を使って、当たりを付けた山をじゃんじゃん掘りたまえ。好きにやれ。金堀部隊を丸ごと運営して、金銀を根こそぎ掘り出して貰いてえんだあ。」
そんなに技術が遅れているなら、俺が行けば彼の地の山師を圧倒できるのではないか。
そう思いつつも、眼前の老人は暑苦しく、今は寒気を感じる程の狡猾な笑みを浮かべて、こちらをうかがっている。
(でも、やはり遠過ぎる。断るか。)
老人は、恙郭の思考にかぶせるように、先程の許可書を眼の前でバサバサ振った。暑苦しい熊の毛がつられてフワフワと揺れる。
「この許可書をよっぐ見い。『恙郭には、蔵水秀に転籍し、陸島で鉱業を従事せる事を勧告する』とあるだろお。命令では無いが、公子が言うには貴殿にとって大変良い話だろう、とのことじゃった。不信なら問合せてもらっでいいぞ。」
これではもう、断る理由が無い。
「公子の頼みでは…。従わざるを得ぬ。」
首を垂れる恙郭。満足気な老人。
「そうか。よしよし、そうと決まったら引越しの準備だ。これがワシとの契約書、これがこの家を購入したい者の経歴と買取希望額、家財の支度は明後日十二時までにせい。その時間に二頭引きの馬車が荷台をくっ付けて三台やってくるからそこに荷を積むんだぞ。それじゃ。」
老人は満面、笑い皺を浮かべているが、もう最初から恙郭の回答が分かっていたかのような準備の仕方だ。先回りで根回しされ、がんじがらめに囚われた気分である。
目は笑っていない。瞬きせず、視線を恙郭に向けてぴたりと合わせている。
(そうか。蛇だ。)
この老人、熊毛皮に身を包んでいるが、その中身は蛇だ。
恙郭は、この蔵水秀という陸島の老人に今、自分の人生が絡め取られたのを自覚した。
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捻州




