盪関の奇襲、髭流痩卿の最期
(死地だ。)
盪関の門扉に続く、長細い地峡の地図を頭の中に描く。そして斐色矜自身を、盪関から二km超離れた峡谷の底に配置する。地峡の底には自分の他に五万の美獣本軍が充満している。
いや、「いた」という過去形にした方が、正しかった。
(もう、まともに戦っているのは1万いるか、いないか。)
眞暦1822年4月。
三十二歳になった斐色矜は、身に纏う蒼色の甲冑がひどく細く、中の身体は昔と変わらず藁のように痩せていると覚しい。長い口髭を靡かせ、疲れを知らずに戦場を駆けている。左右同時に斬りかかられたが、ガッ、と地面を踏ん張ると真後ろに跳ね返って、敵兵は二人とも空振りして体が流れた。着地した斐色矜は、今度は前に跳ね、転びそうになっている敵兵に踊りかかり、右手の蒔舟刀を二人の喉目掛けて精確に突き立てていく。
「斐色矜軍っ。誰やある!」
刀を抜きざま、彼は叫ぶ。
この痩身の武者は今や一軍を担う部将となり、大功は数知れず、因州美獣軍の「髭流痩卿」と言えば近隣の諸侯が震え上がるほどの名声を得ていた。
だが、彼の呼びかけに誰も応えなかった。
斐色矜が手塩にかけた五千人の精兵は、山上からの斉射で体を貫かれたか、その後の雪崩のような突撃に呑み込まれたか、それとも今、大混乱を来す中で同士討ちに斃れたか。
一陣の春風。
地峡を貫く強風に、斐色矜は長い口髭を二筋真横に流しつつ、後背から振り下ろされた剣撃を鹿の如くしなやかに避け、勢い込んで地に伏した敵兵の後頭部に切っ先を突き刺す。
風が止む。蒼い逆三角形の兜を真っ直ぐ正面に直すと、口髭がサラリと真下に垂れ、削げた頬は暗く、顔には眉をひそめた彼の哀しげな表情が、残った。
「殺因!殺因!」
山上から聞こえる。
上にまだいるのか、また射撃があるかもしれん。
殺因 ― 因州軍を殺せ! ― 同盟軍から、そんな罵倒を聞くことになろうとは。
因州王は無事か。公子は。困士甜は。秦州王 ― 穂佑聯 ― は?
(いやいや。穂佑聯様は尼乎磊への備えで南に残っているじゃないか。この行軍には加わっていない。此度は、さすがの私も冷静さを失っているようだな。)
また、頭の中に地図を描く。今、自分が地峡のどの辺りにいるのか。斐色矜は己の位置をつかもうと周りを見まわす。
だが彼の視界を遮るように、百九十cmはあろうか、大兵が青龍刀をギラつかせて斬りかかってくる。太刀筋が速くて斐色矜の反応が遅れ、右肩の鎧を削られた。剣は鎧を貫通しなかったものの、破損した鉄材が生身に食い込んで、激痛が走った。失神しかけるが、しかし踏みとどまり、攻撃直後に出来た敵の隙を逃さず、蒔舟刀を大兵の脇腹に開く胴巻の継目に突き入れた。
「ぎあああ」
敵の断末魔が響くが、まったく無視して刀を抜く。いや抜こうとしたが、胴巻の隙が狭いからか、脇腹の筋肉が硬いからか、愛刀はビクとも動かぬ。
「くうっ」
ほんの数秒だったはずだが、彼には無限の時間に思えた。
矢が、ガン、と兜に当たった。
(斐色矜。お前の身体はバネのようだね。)
この瞬間、穂佑聯の賞賛を思い出した。
――――――――――――――――――――
主君の妹君であり、秦州王でもある穂佑聯。彼女の笑顔は牡丹の如くで、一人ただ立っているだけで周囲は華やかになったものである。
武闘会でのことだった。忘れもしない、秦州奏中で開催だ。斐色矜はこの時の試合で、ひたすら避けまくった。ぐにゃりと身を反らし、跳び、跳躍は時に人の背ほどの高さに達し、多くは紙一重ですべて見切って、相手の太刀はかすりもせぬ。そして疲労で敵が足を鈍らせた瞬間、とっておきの一撃を繰り出した。
老若いずれの武官も、汚し、とて斐色矜を罵ったが、観戦していた穂佑聯は立ち上がって手を打ち、先のように賞賛した為、皆俯いたものである。
(斐色矜、お前は無理をしないし、よく相手が見えている。そして攻め所が分かる。多くの兵を預かる資格が有るのですよ。)
そう言われた。牡丹のような笑顔で。
右肩に痛みが走る。
しかし、左拳でその潰れた部位を叩き、削がれたような頬に陰翳が増すと、斐色矜は再び高速で動き出した。
不意に正面から繰り出された裁金刀を、わずか左に身体をずらして避け、手甲で手元をはたいて刀を奪うと、武装がない股をかっさばく。痛恨の叫びをあげる敵兵の血しぶきを浴びつつ、斐色矜は地峡の戦場を素早く見回す。
「因」も「美」も、もはや幟は見えず、敵がかかげる薄灰の戦旗だけが大量に、春の空に突き立っていた。
ほぼ周りは敵兵のみである。
左前から隊長格と思しき立派な甲冑の武将が長剣で襲ってきたが、右背後からも殺気を感じた。長剣は横薙ぎに頭を狙っていて、
(後ろは足か)
咄嗟に察して、長い口髭を二筋流しながら、低く跳んだ。
はたして斐色矜の身体は、足と首を横に薙ごうとした2つの太刀筋の狭間に浮き、敵の挟撃は失敗した。地を転がりながら隊長格の足を痛烈に蹴飛ばして倒してから、背後にいた敵兵を立ち上がりざまに両断し、地面に手をついて態勢を整えようとしている隊長格の首を吹っ飛ばした。
首のない隊長格の戦死体から、鮮血がほとばしる。目に入った。それを拭きながら、薄目でまた地峡を見渡す。
(端まで来たか。)
ふっ、と意識を失いかけたが、歯を食いしばって、朦朧とした脳を奮い立たせた。頭の中の地図上では、盪関から最も遠い、地峡の入口に近い辺りにいた。戦場の端である。我が軍の主な武将は前方に集中して行軍していたから、盪関の近辺で奇襲を受けたはずで、まさに袋の鼠であろう。
目を拭き、乱戦の向こうに、若武者を見つけた。
騎乗し、薄灰の幟を背に立て、駆けている。一瞬敵兵かと思ったが、その端正な面相を斐色矜が見間違える筈もなかった。左頬骨に引き攣れた刀傷を作り、血飛沫を上げている。
(おいたわしい。)
因州王美獣の長男、公子・美豕。
憔悴した様子だが、一方で、生きていたのか、という喜びもあった。
確か今年で二十歳になる筈だ。因州軍にとって地獄と化したこの地峡を、必死に駆け抜けて来たのだろう、かなりの深傷を負っている。斐色矜は追いかけて付き添おうと思ったが、止めた。右肩の激痛が改めて襲ってきて、見れば肩の甲冑の粉砕された部分から鮮血が溢れており、もう右腕はまったく利かなくなっていた。骨が砕けたか、神経が切れたか。
馬を、東に走らせている。
斐色矜はまだ返り血が入ったままの目で、遁走する主家の嫡男を見送った。
「再び美の家を、何卒」
さすがに涙がこみ上げ、声が詰まった。だがこれで目に入った血も流せるか、と思い切り泣いた。朦朧として、その藁のように細い身体は、倒れかけた。脳裏に穂佑聯の笑顔がまた、浮かんだ。
だが、思い切って振り向いた。
今や、灰色の戦旗で地峡は埋め尽くされていた。
「よく相手が見えている」と誉められた漢は、自分のことも客観的に見ていた。
「勝ったぞー!」
敵の大軍は、そこかしこで既に喜びの声をあげている。
二筋の口髭を靡かせ、右手をダランと垂らし、左手にナマクラ刀をかかげ、斐色矜は無言で走っていく。
蒼色の痩身は、灰色の群れに包まれ、すぐに見えなくなった。
――――――――――――――――――――
眞暦1852年、葬州において当代歴史叙述に執念を燃やした葷史罫の『獣髯記』が発表され、巷間で大いに流行した。この軍記物には当場面も描かれており、ここに一部抜粋する。
................................................................
― 突如の敗亡に呆然としたるはこれに留まらず、髭流痩卿もまたその一人なり。
髭流痩卿、すなわち斐色矜。常に冷静沈着、若年より因州美家の柱石たるが、四囲全山、敵兵となるが如きの絶体絶命にありて、此程の名将なれど当惑隠し切れず。
闔州軍の斉射は凌ぐも、崖を降る突撃を受けては満身創痍、混乱極に達す。長髭二筋紅く染め、配下も討たれ、早々に孤立せり。
「嗚呼、流石に穣界皇も落命せん。閲血平の如き離脱は叶うまじ。されば我、幸いにして戦場の縁辺に在れば、此身一つ落ちのび、因州を我が斐家にて引き継ぐも善き哉。」
混乱の末か、強慾もたげ、足引きずりながら東方へ落ちんとすれど、雲霞の如き闔州兵、追撃厳しく、逃亡の背中を斬り下げられ、無惨に敗死す。
主家の危急に臨んで、不埒な野望抱き、末節を汚したるは、名将だけに惜しきことなり。
これが証拠に、因州軍の武将で斐色矜の屍骸のみ、穣界皇から遠く離れて、遺棄さるる。
*****************************************
闔州東部




