閥街、叛逆前夜の約
閥野翫は、いまだに尻の座りが悪い。
(降伏してからまだ八ヶ月。致し方ない。)
同じ「閥」家でありながら、彼には針の筵だった。
眞暦1822年3月の闔州閥街。
閥野翫にとって、彼が産まれたこの歴史ある州都は、そして閥家累代の堅城は、数ヶ月前まで敵陣営の牙城だったのである。
州王府を歩いていても、目をそらす者、逆に睨みつける者、文官も武官も皆、彼に好意を寄せる者などいない。
閥野翫は、太い長方形の眉を左右互い違いにずらしつつ、狐のように吊り上がった目とカサついた大きな口は不自然に無表情を保ち、朽葉色の長袍に包まれた大柄な体を猫背気味にして、石廊に孤独な靴音を刻む。
(兄もそうだ。)
先程、鬥践ばあさんに呼ばれて議場に顔を出したら、兄の閥養も居た。
閥養 ― 名家閥家の当主で、闔州の王である。議場の奥、華麗な王座に傲然と座っている。
用件は、因州王美獣から使者が来たということだったが、すべて鬥践が話し、閥養は喋らなかった。閥野翫を見向きもしなかった。だが、話が終わって閥野翫が退室する時、小声で鬥践に話しかけているのだけは聞こえた。
(ばあや。何故、あいつを呼んだのだ?)
閥野翫は、かつて兄・閥養を裏切った。そしてのこのこ出戻って来た。普通なら復帰など無理だが、美獣と鬥践が周旋してくれた、と聞いている。
今から十六年前、眞暦1806年。
当時、閥養は闔州と虫州の2州の王を兼ねており、閥野翫はその才を買われ、兄から虫州総督に任命されて、同地の統治を一任されていた。この年の九月、兄は闔州西部の盈橙に拠る閃言彫を攻め、閥野翫も従軍を命じられた。兄弟は大軍でもって盈橙の城を包囲し、大いに攻め立てた。
だが、ここで閥野翫は裏切った。
実は、兄から従軍要請が来る前に、閃言彫や、その背後にいる坡州豪族の壘渋と既に通じていたのである。
当然、閥養軍は大混乱をきたした。
(あの時に兄者を討ち取っておればなあ。)
閥野翫は今でもそう思う。
閥養は何とか死地を脱し、弟と閃言彫の執拗な追撃を振り切って、閥街に逃げ帰ることが出来た。その後、閥野翫は虫州に独立し、やがて台頭してきた「褐剣髯」塊協半の陣営に身を寄せ、逆に美獣陣営に入った兄・閥養と延々と抗争を繰り広げてきた。閥野翫は「反抗虫王」と呼ばれ、乱世の穣界にあっても指折りの梟雄と目された。だが昨年の塊協半急死を受けて、さっさと美獣に降り、兄の元に舞い戻って来たのである。
自らが裏切った末に始まった、骨肉相食む十六年戦争。
(本来なら俺は、この宮殿の中でとっくに殺されている筈だ。)
自らの半生を振り返りながら、府庁内を歩く。石廊で州交相代の蘭千展とすれ違うが、やはり鋭い眼差しを向けてくる。
(不思議なものだ。十六年前、まだこの家にいた頃の記憶を、皆忘れていないのだな。)
荒々しく、逞しい、名家閥家の次男。家臣も、謀士・鬥践も、何より兄・閥養が、期待し、一目置き、そして恐れていた。軍令違反と軍功、いずれも数知れず、しかし後者が前者を倍し、問題発言や不敬も日常茶飯事ながら、軍議での創造的な発言や独創的な戦略は藩内で重きを成し、まだ二十代の若い御曹司の一挙手一投足を、皆がうかがっていたものである。
現在、44歳。
あの頃のように無茶はしないし、虫州の覇者としてあまりにも多くの経験をしてきて、その太い眉にも葦のように硬い髪にも、白いものが多く混じり、猫背の丸みも増している。
あの頃と少し違う「反抗虫王」をどうしたらいいのか。仕方なく受け入れた闔州王家も戸惑っている。先ほどの蘭千展も睨みはしたものの、猫背で陰翳の強まった元梟雄の暗い眼差しを返されて、明らかに動揺しながら遠ざかって行った。
この先、自分はどうなるのか。
脳の表層では、予測できている。美獣の天下になって、閥養はその下で諸侯に列し、自分はその閥家の中で生き長らえる。九割方、そうなると思う。そう結論付けている。
だが、それでも何となく、もやもやした。
思案のまま石廊を歩いていると、十m先に薄灰の長袍を纏った青年がいるのが見えた。右の石壁にもたれかかり、保護色になっているからか、つい見逃してしまうところだった。
青年は腕を組み、こちらに顔を向けているが、黙っている。
太い眉、細い目、いずれも吊りあがり、面長な顔は上品で、鼻筋も通っているが、大きな紅い唇が斜めにひん曲がっていて、閥野翫の気持ちを乱す。猫背ではないが大柄な体躯も自分によく似ていた。
この青年、姓は閥、名は檜。
闔州王閥養の嫡男であり、閥野翫からすると甥にあたる。
直前まで歩を進めてから、無表情に目礼する。闔州王家の公子たる閥檜青年は、返礼もせず、噛みつくように話しかけてきた。野太いが、しかし凜として、有無を言わさぬ口調。
「叔父貴。何の話だった。」
「何が、だ。」
閥野翫の声はしゃがれた。もともと枯れ気味の地声であるが、今は痰も絡んで、特に聞き取りにくい声になった。
閥檜は三白眼で睨んでいる。
「とぼけるな。『銀眼』ばあさんに呼ばれたろ。そしてそこに父上も居たんだろ。」
耳ざとい公子だ。しかし、その「銀眼麗媼」鬥践から、他言禁止と釘を刺されている。
「まあ。いずれ軍議でも話があると思うが。」
「美獣からだろ。」
逃げられない、と感じた。
「うむ。まあ、そうだ。」
閥野翫は、かなり違和感を感じた。
この十六年で変わったのは自分では無く、この甥の閥檜の方であろう。閥野翫が独立した当時、閥檜は十一歳。線が細く、黄色い声できんきんと叫び、良く吠える小型犬といった態、いかにも気の小さいお坊ちゃんだった。
それが今、二十七歳に成長した閥檜に睨み据えられ、叔父である閥野翫の声は震えていた。
「そう、美獣からの、使者だ。虫捻州境を固めるよう指示だ。」
機密事項だから、当然小声になる。
「ふん。必黄站を逃がすな、ということか。」
「左様。」
「ふん、情婦絡みの痴話喧嘩に、なぜ我が閥家が駆り出されねばならんのだ。」
閥野翫はそれには何とも言えず、首をひねる。
その直後、閥檜は額をぶつけてきた。
閥野翫は目から火花が出たのを感じ、驚愕と激痛で、ぐっ、と思わず呻いたが、閥檜は構わず刃物のような言葉を浴びせてくる。
「このまま、美獣の手下に甘んじる積もりなのか?『反抗虫王』はまだ死んでいまい?」
その通り。かつてこの閥家で腫物のように扱われ、その後『反抗虫王』と恐れられた俺に頭をぶつけてくる者などいなかった。美獣の下の兄の、そのまた下にくすぶる俺ではない。
網膜から火花が去って、目を開ける。
甥の凄まじい顔が、すぐ眼前にあった。気圧されつつも素早くその背後を確認する。廊下には他に誰もいない。さっきの高官もとっくに消えている。
「安心なされよ。他に耳目は無い。」
これが、大事を企図した青年の顔か。
「叔父貴の謀叛は二十八歳だったな。私はその一つ下だ。しかも、私の雄図にはより大義がある。そして、もっと、ずっと壮大だ。」
背中に戦慄が走った。この私が、先回りされている、なぜ心を読まれる?そんなに意識が透けているか。長方形の太い眉が苦しげに寄っているのが、自分でも分かった。
「安心なされよ。誰だってあれだけの頭突きを受ければ、平静を失う。」
ああ、兄には従えなかったが、この甥ならば良いだろう、とこの時何となく思った。見事に主導権を握られた。その雄図とやらにひとまず乗ってみるか。
「よし。叔父貴の意志を見たかったのだ。瘤を作った甲斐があったわ。」
閥野翫はまだ朦朧としながら、閑散とした石廊で甥を眺めている。その瞳には閥檜の堂々とした姿形が映っているが、実際はもっとその奥にある野望を見ていたのかもしれない。
一言、二言、二人はボソボソと話し、すぐ別れた。
あとには、闔州王府の石廊だけが冷たく残された。
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闔州西部




