刳刹静夜
二月。
剣州の城市、刳刹は寒気に覆われ、夜になってそれは強まった。山がちな剣州には珍しく、この街は内陸の平野部に立地しているが、ぴん、と張り詰めた夜気は山岳地を思わせるほどの冷えである。
(この寒さだ。州法相殿もとっくにお帰りだろう。)
寒さの中を、棺俗朧は素早く移動しながら考えていた。
奇岩、奇木が黒々と浮かぶ、月夜の庭園。木から石へ、石から池へ、棺俗朧は飛ぶように走り、いや、その黒装束は闇に溶けて判然とせず、もしここの家人が庭を逍遥していたとて、彼の走る姿を見つけることは出来なかっただろう。
庭を駆け、広壮な邸宅に着くと、その白壁に取り付き、少しの手掛かりを頼りに壁面をよじ登る。細い体躯は蜘蛛の如く垂直に登り、三層建の二層部にすぐ到達して、取り付けられている木窓を、右手で体を支えながら、左手の工具で音も無く外した。そして棺俗朧は工具を懐に仕舞いながら、ひらり、と邸内に入った。
(まず、客間)
この邸の諸室配置は、棺俗朧の頭に全て入っている。本日、客人が無いことも確認済みであり、夜間の侵入には客間は好都合とふんだ。錆びた蝶番に油をさして、静かに木扉を開ける。夜の廊下に出たが、灯明も無く、暗く沈んでいる。
ととっ
棺俗朧の耳が微細な音をとらえた。
と同時に、廊下に置かれた花台の影に隠れる。
(召使、かな。)
一階に食堂があり、家人の生活の中心になっているが、対してこの二階は家主の寝室等が中心で、利用頻度が低い。
次の瞬間、丁字になっている廊下の突き当たりに一人の女官が現れ、右から左へゆるゆると横切っていった。廊下のこちら側には見向きもしなかった。
(利楚謁の寝台を整えるのだな。)
寝室に直接侵入しないで良かった。召使は無能そうに見えたが、それでも鉢合わせたら厄介である。
何の物音も無く暫し時間が過ぎ、再び召使は廊下の丁字に現れた。静かに仕事を済ませたようだが、やはり前だけを見ていてこちらに気付かず、左から右へ、ゆっくりと姿を消していく。その後、ととっ、という音がしたから、階下に降りたのだろう。
(入るなら今だ。)
花台の陰から静かに飛び出し、冷え切った廊下を進む。廊下の丁字を左に折れ、階下の話し声等に耳を立てつつ、三部屋目の重厚な木扉の前で跪く。念の為、扉に耳を付けて中に物音が無いのを確認すると、ゆっくり開けた。
そこが家主の寝所であった。
燭台に火が灯り、炕も焚かれて、先ほどの召使が、快適に寝られるよう家主の為に準備したのが分かる。天蓋のついた華美な寝台にも、綺麗に掛け布団が敷かれていた。
部屋はそれ程広く無いが、壁面の本棚はぎっしりと書籍で埋まり、家主の人となりが分かる。百科全書である『当惑星大観』から抽出された10数巻の他、史書、農書、刑法書、経済書などの実用書が大半を占める。
(さすが法相だ。勉強熱心な閣僚も中にはいるんだな。)
直後、棺俗朧は首を振り、
(いかん、一刺客が考えて良い内容では無い)
鋭い眼差しで室内を見回し、取っ手の錆び付いた古い箪笥に目をつけると、観音開きの扉を開けた。蝶番も錆び、思ったより大きな音がするが、一向気にせず油を差しながら、黴臭い箪笥の中を確認する。そして窓際に歩み寄り、同じく観音開きの窓を点検し、蝶番に問題は無さそうだったが、念の為ここにも油を差す。再び古箪笥に戻ると、その中に身を隠して、ゆっくりと音も無く扉を閉めた。
(相手が誰であれ、依頼通りに殺すだけだ。)
今回の標的は、姓は利、名は楚謁。
剣州の法相である。
齢三十二とまだ若い。
剣州は永代で州王就任が約束されている烈風家によって支配されているが、利家はそのもとで代々高官を排出してきた名家である。過去に龍眼(第一大臣)や龍鱗(第三大臣)に就任した者もおり、現当主の利楚謁が若くして第九大臣である法相に就くのも当然のことであった。
だが、名家は利家だけではない。
州王府の議場で、利家を含む名家同士が州王の御前で喧々諤々、不毛な舌戦を度々繰り広げているが、これは単に足の引っ張り合いでしかない。いかに他家を出し抜き、追い落とすか、剣州の大臣達の関心はこの一事にあると言っていい。眞暦1822年現在、剣州は隣の類州や穣界のように戦乱も無く、平和だった為か、内に籠った政争に明け暮れていたのである。
そして棺俗朧に、利家当主の殺害を依頼する者がいる。
(不毛なことだ。)
棺俗朧は、そうとだけ思うことにしている。権力争いが浅ましかろうが、利楚謁が殺すには惜しい人物だろうが、関係ない。依頼を遂げるだけだ。
(今回の仕事は、利家の警備の甘さに尽きるな。)
簡単に邸内に侵入出来、召使も廊下に隠れるこちらの気配に気付かず、標的の寝室はありがたいことに暖房が効いて、細身の棺俗朧が快適に潜めている。
箪笥の狭間から、燭台がおぼろに照らす利楚謁の寝室が見える。呼吸は小さく、吸っているのか、吐いているのか、分からない程に小さく整える。
一時間経ったか。
すい、と利楚謁が寝室に入ってきた。ひとりである。後手に扉を閉め、緑青の睡衣をかき合わせながら、書棚から厚い一冊を取る。その横顔は確かに、若い。
(よし。そのまま。)
順調である。だが事はまだ成ってない、喜ぶにはまだ早い。呼吸もそのまま、小さいまま、保つ。
利楚謁は、分厚い本によって程なく睡魔に襲われた。ふっ、と彼は燭台に息をかけ、灯りを消した。
棺俗朧は変わらず、観音開きの狭間から寝室を見つめ続けている。既に真っ暗な室内、だが調度も、寝台も、すべての大きさ、配置、距離感を網膜に焼き付けてある。
やがて、寝息が聞こえてきた。
だが、棺俗朧は呼吸を変えない。
吸っているのか、吐いているのか。
極々小さな呼吸のまま、箪笥の扉を滑らかに開け、寝室の床に降り、滑るように寝台へ近づき、標的の寝顔を覗き込む。
工具を右手で取り出した。
工具は錐。
左手で標的の口を抑え、右手の錐を喉に振り下ろす。
窓もまた、滑らかに開く。
真冬の夜気が寝室に流れ込み、月光が差し込む。
あくまで静かに、寝台の上で横たわる血塗れの遺骸は月に照らされていた。
そして刺客は、あくまで静かに窓を閉め、庭に降りていく。
一瞬、真っ暗な寝室に残された若き名家の大臣のことを思う。
しかし彼は静かに首を振り、音も無く庭園を走り出す。
彼はこの後、家人に悟られずに庭を抜け、刳刹の城市から脱出しなければならない。そこまでし遂げて漸く、依頼を果したことになるのである。
凍りつくような月の庭園を、刺客の黒装束は一条の影となって、滑るように走って行った。
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剣州




