尼乎磊帰庇
隣に立つ癖糸が背伸びして、手をかざす。
「こりゃ、何人おるべ。何百おるべ。」
痕斜缶は、はしゃぐ友人がうっとうしく、
「阿呆」
と吐き捨てたが、心が騒いでいるのは自分の方かもしれぬ。
びゅっ、と身を切るような野風が吹き、痕斜缶の破れた野良着をはためかせたが、気分が高揚している為か、彼は意にも介さない。
眞暦1822年2月。
冬枯れの庇州平野を、穣界の大動脈である北大運河が横切っている。ここ厘馬渡は運河の小さな渡し場で、痕斜缶らのような少年だと、来てもあまりやる事がない場所だ。五十m向こうの対岸と行き来する渡し舟を、見つめる事くらいしかない。
だが二人は今、興奮して立っている。
痕斜缶も背伸びした。
運河に沿ってずらり並ぶ大群衆を眺めるためだ。
「阿呆、こりゃ万を超えるぜ。一年前に唐表の攻城で進軍する地十の師団を見たことがあるけどな。あれで確か、一万だと言っていた。それに比べると、この群衆は数倍いるぞ。」
壮観であった。
二人が立つ厘馬渡の渡しを真ん中にして、運河西岸に沿って南北それぞれに万を超える民衆が立っているのだ。
「北も南も、向こうが見えないじゃないか。」
北大運河沿いの小村に生まれ育った痕斜缶は、こんな大勢の人間を見たのは生まれて初めてだ。
「本当だべな。お前に連れてきてもらって良かっただ。こんなの、一生でも何度見れることか。」
そしてそれは同村の癖糸も同じだった。
皆、対岸を、東方の茫漠とした冬の荒野を見つめ、やいやいとひどい騒ぎである。
その声は華やいでいる。見れば、笑っている者と泣いている者のいずれかであった。
今年十一歳になる痕斜缶の気持ちは、後者に近かったが、さすがに涙は流さず、しゃくりあげてすらいない。
「尼公がいなくなって、俺たちの庇州はずっと他州に踏みにじられてきた。ずっと、俺は待ってたのさ。」
爽やかに言い放つと、左隣に立つ固太りの中年のおやじが咎めてきた。年中、耕地で明け暮らしているのだろう、土と肥の匂いがおやじの体から立ち昇っている。
「おう、坊主。知った風に言うじゃねえか。尼竺様が定州のボケオヤジに殺された時、おめえはまだ乳飲み子じゃろ。」
人をからかう時の目が死んだ父に似ているな、痕斜缶は何となくそう感じて、薄く笑いながら答えた。
「そりゃあ、おっさん。本当に尼乎磊公を待ってたのは確かにあんたの方だろう。だが、俺らには尼家の記憶が無いんだぜ。懐かしい、って思える分、あんたが羨ましい。」
言ってるうちに痕斜缶の言葉は熱を帯びてくる。癖糸が口を挟もうとしたが、それを許さない。
「生まれた時からずっと、庇州は他国の支配下だったんだ。おっさんの世代にゃあ、この気持ちは分かんねえだろうよ。俺たちは、これで初めて自分の国に、俺たちの庇州に住めるんだ。なあ、癖糸。」
癖糸は言いたいことを全部言われて、口を開いたままただガクガクと頷く。
からかい半分だった固太りの中年おやじも頷いてみせたが、こちらは眉根を寄せて、「うん、うん」と繰り返し、一転して深い同情の念に満ちているようである。
「そうか。それは可哀想だったな。坊主の言う通り、これでようやくまた、庇州は自分の足で立てるぞ。」
日は出ていても荒野の寒気はとてつもなく、痕斜缶の粗末な木沓を通して伝わる底冷えは彼の両足を痺れさせている。
(でも。しっかり立ってお迎えしよう。)
「包子。包子は要らんか?」
弁当売りが背後を行き過ぎた。
これだけの人出だ。よく見ると、包子以外にも、粽や茶、濁酒、煙草等、いろいろの物売りが歩いていて、この大群衆をあて込んで、商売に来たのだろう。
北大運河の対岸、東方の曠野には、いまだ何も現れないが、急に右隣の女が、話に入ってきた。ガラガラ声で、皺だらけの鶏ガラのように細い中年女である。
「甘いわねえ、あんたら。尼乎磊公がさ、美獣の奴に易々と勝てると思ってんのかい?」
周りに立つ十人程が、一斉にこのおばさんを振り向く。固太りのおやじが口を尖らす。
「おばちゃんよ。尼家の跡取りが生きていただけで嬉しいのに、さらにその尼乎磊公は辱落峡であの塊協半をやっつけたんだぜ。」
「違う、違う。辱落峡の時点で、塊協半はこの世にいなかったのよ。坡州軍には首領がいなかったのさ。しかも、尼軍は奇襲勝ちじゃないか。」
「勝ちは勝ちじゃろっ。」
そのまた右隣の老爺が、唾を飛ばしながら、会話に割って入る。それに対して鶏ガラ女は腕を組んでハッタと睨み据えて、言い返す。
「爺さんまでも、考えが甘いね。奇襲をかけたのは寡兵だから。寡兵なのは国力がないから。尼家は十二年前に庇州を追われて、尼乎磊公は斐界を彷徨ってらしたんだ。国力どうこう言う前に身一つみたいなものなのよ。」
「ンだべ。だから今から庇州を取り戻し、国を強くしてけばいいだ。」
「そうだ、そうだ!」
癖糸が鶏ガラ女に食ってかかり、固太りと唾飛ばしの老爺が同調する。
「だから甘いって言ってんだよ、本当に馬鹿な男らだね!」
鶏ガラ女が体に似ず大声をはり上げた為、今度は周囲二十人が振り向いた。だが、女は視線を浴びてかえって語気を強めた。
「美獣だよ、因州王美獣。さっきも言ったろ。奴は早くも塊協半の残党や、同盟国を屠り、取り込み、坡・闔・虫・證・遜州、あらかた吞みこんじまった。奴が今何て呼ばれてるか知ってるかい?『穣界皇』だよ。穣界を制覇したんだから当然さ。片や尼乎磊公はどうだい。これから庇州に足場を作れるかどうかだろ?『穣界皇』を巨象とすりゃあ、尼乎磊公は小さな蜜蜂みたいなもんさ。あ、ちょっとあんた。」
鶏ガラ女が、目の前を通り過ぎようとする濁酒売りの肩を、骨張った手でガッシリと掴み、
「四。。。五杯、頂戴。爺さん、あんたも飲めるわね。」
そう言って、ざらざらと銭を売り子に渡すと、五杯の濁酒を周りに振る舞った。
見るからに酒精分の高そうな濁酒であり、自分の歳でこれは強過ぎるだろうが、と考えつつ、痕斜缶はたっぷり濁酒が入った土器を持って覗き込む。他の四人も突然おごってもらった盃を手にしてきょとん、としていた。
「まったく、あたしの講釈聞いたくらいで、そんな辛気臭い顔になっちまってどうすんだい。」
鶏ガラ女は地団駄踏むように、足元の枯れ草を踏みしだき、四人を一人一人指差す。
「爺さんも、オヤジも、ガキたちも。あんたら、庇州の民草どもは束ンなって、尼乎磊公を盛り立てるんだろう?強大な穣界皇に立ち向かっていくんだろう?あたしに言われてしょげちまうくらいなら、そんな大それたこと、出来やしないよ。」
四人だけでなく、周囲の三十人ほどがこの鶏ガラ女に怒られている気分になって、下を向いてしまっている。
だがこの時痕斜缶は、鶏ガラ女が東方の原野をチラリと見て、少し目を見開いたのに気づいた。
「さあ、何してんのさ。その酒を、グッと呷りな。」
「う、うむ。」
老爺もおじさんも盃を干し、癖糸も目をつぶって呷った。痕斜缶はペロリと舐めるくらいにして置いた。
「ぷっふー。」
と、痕斜缶以外の三人が目を潤ませて吐息をつくと、それに合わせたように鶏ガラ女が東を指差した。
「見なっ。尼乎磊軍だよ!」
痕斜缶も、早くも酔っ払い始めた三人も、下を向いていた周囲の三十人も、いや、北大運河の西岸に居並んだ二万の庇州民も、皆一斉に東の曠野に注目する。
運河の向こう。
地平線近くに、大規模な群れが整然と展開していた。
(あれが。尼乎磊公の軍なのか。)
痕斜缶は、己の背にばっ、と汗が湧き出たのが分かった。この寒空の下、酒を舐めただけで発汗する筈がない。
うおー。うあー。
喜ぶ者、泣く者、みな感極まって、歓声か悲鳴かも判別できぬ騒音が、厘馬渡の渡しに溢れ、寒風吹きすさぶ庇州の大平原に響く。酒に酔った老爺は号泣し、固太りのオヤジは拳を空に突き上げ、鶏ガラ女は敬礼して何やら歌を歌い、癖糸はさっきの売り子を呼び止めて自腹で酒を買い「ニカライ!ニカライ!」と叫びながら再び飲み干している。
徐々に尼乎磊軍が近づいてくる。
その一糸乱れぬ行軍と、黒色で統一された武装が明らかになるにつれ、群衆の興奮も高まっていく。
「ニカライ!ニカライ!」
喚声のただ中で、痕斜缶は一杯目の酒を舐める。
(二万は、いるな。)
尼乎磊に身を捧げよう、少年はそう決意した。
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尼乎磊は運河を渡り、州民の熱烈な歓迎を受けて、祖先の地へ復帰した。眞暦1870年頃に巷間で流通し始めた『尼閥黄塵賦』という著者未詳の軍記によれば、「透刃軍祖、五萬を超える祖国領民に迎えられて、運河を渡る。領民の敬慕、一方ならず。」と当時の熱気を語っている。
眞暦1822年2月。
真冬の北大運河、庇州厘馬渡での出来事である。
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庇州




