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使者、哀しき盈橙の雨情


 闔奥(こうおう)山地は、初夏の雨にけぶっている。


 山々の只中にぽっかりあいた盆地にたたずむ盈橙(えいとう)の城市もまた、霧雨に沈み、空を覆う雨雲にも、傲然と隆起している山並みにも、いずれにも気を使って閉塞しているように見えた。


「嫌な役回りだ。」


 潤柳隠(じゅんりゅういん)は、厳戒態勢下での任務に忠実な門衛たちに誰何(すいか)され、脇に大汗をかきながら、「閥野翫(ばつやがん)の正使である」と必死に胸を張り、証書を見せ、それを何度か繰り返し、ようやく城主邸館にたどり着いた所であった。妙に出っ張った広い額が汗と雨で濡れ、前髪が数本くっついている。


 今の盈橙城主は、姓は(せん)、名は(きん)、闔奥の猛将と謳われた閃戴(せんたい)の長子である。度量と武勇で父に敵わないが、果断で経営の才に恵まれ、塊協半(かいきょうはん)陣営の一翼を担ってきた。虫州の「反抗虫王(はんこうちゅうおう)」閥野翫との連携を父から受け継いで、見事な一枚岩を形成していた。


 だが、

(わしは、閃家に伝手も顔見知りもいない。虫閥家にはもっと相応しい者がおるだろうに。)

 と、陰鬱な物思いにさいなまれる潤柳隠の様子は、とても同盟国間の正使に見えない。上を向いた鼻の穴が小刻みにヒクついていた。


 邸館の回廊、小房、中房を渡り、

「こちらで沐浴を願う。」

 そう言う閃家の吏臣の顔が、ひどく強張る。気のせいなのか。それとも我が来意を知っているのか。


 恐らく、後者であろう。


(それはそうだ。昨日までの味方が、敵への降伏を勧告しにきたのだから。)


 冷たい水を己の裸体に浴びせ、潤柳隠は目を瞑る。どうせ俺は捨て石なのだ、と閥野翫を恨む。

 閥野翫に仕えて五年。決して長くはない。虫州龍鱗府に出仕し、灌漑を主に担当する傍ら、州内の城市・農村を巡視していた。二年前に美獣(びじゅう)の侵略を受けて、閥野翫の領国が州西部に片寄ってからは、係争地の巡撫も行なった。だから外を歩くのは不得手ではないが、他国への正式な使節は初めてだし、これは本来なら交相(こうしょう)府の仕事の筈だ。だが、口ごたえを許さぬ口調で主君、閥野翫に厳命された。となれば、結局従うしかない。


 白布で身体を拭き、たずさえてきた白絹の(ほう)に袖を通して浴室から出ると、吏臣が待ち構えていた。不機嫌そうな彼に誘われるまま、初夏とは思えないひんやり冷えた石廊を長々と歩かされ、やがて城主の執務房に入った。

 室内は狭く、意外と近くに城主が座っていた。


 閃斤である。


 背が低く痩せ型で、顎も尖り、かさついた顔は色白と、一見、女性的に見えるが、父譲りの高くて幅も広い大きな鼻が強い意志を感じさせる。齢四十二、鼻下の髭は濃くたくわえられ、絨毯(じゅうたん)のように口上を覆っていた。


「こ、この度はご機嫌麗しく」

「使いご苦労、閥野翫殿はお元気か」


 二人の言葉がかぶさった。

 一転して、執務房に沈黙が訪れる。閃斤の左に武官二人、右に文官二人控えているが、皆一斉に眉をひそめる。潤柳隠の脇がまた発汗した。せっかく清めた身体が、臭く、ベトつき始める。


「ふん。良い。貴殿から話されよ。」

 閃斤の皮膚の薄いこめかみに、青筋が盛り上がった。癇癖(かんぺき)が強いのだろう、会話がつまずいたために、明らかに苛立っている。

(この雰囲気で降伏勧告をせねばならんのか。最悪だ。あ、そうだ、まずは問いかけに応えねば。)

 潤柳隠は、混乱する頭を必死に静めようと必死である。

「お、恐れ入りまする。主人、閥野翫はですな、その、体調を崩しておりまする。」

「む。大丈夫か?どれ程お悪いのか。」

 先代からの同盟国である。閃斤が身を乗り出して、心配するのも当然である。だが、これは潤柳隠の嘘であった。当の閥野翫はぴんぴんしている。

「それ程悪い訳ではないのですが。ただ昨今の穣界の事情を憂い、我ら両藩の行く末を慮って、気の病を発しているのでしょう。諸事元気が無く、疲れております。」

 こう言った方が次の降伏勧告は言い易い、と潤柳隠は思い、咄嗟に嘘をついたのである。

 だが、閃斤も侍臣も首を傾げている。症状が曖昧だし、何より「反抗虫王」と言われ、節操が無く狡猾無比なあの閥野翫が、他人を心配して「気の病」を発するなど、不自然であった。


「ふうむ。その気をもんで下さっている閥野翫殿が、今日は何の用事か?」

 半端な虚言では、執務房の空気は変えられなかった。ただでさえ狭い房内は湿度が高いのに、彼の応答によって湿りが増した。


(しょうがない。閥野翫様に言われた通りに伝えよう。)

 もともと間違い無く不興を買う申し出なのである、取り繕おうが何だろうが同じだ、と潤柳隠は腹を据えた。

 エヘン、と咳を一つつき、冷たい石床に平伏して、言上した。


「主人、閥野翫がこう申しております。『褐剣髯(かっけんぜん)』塊協半亡き今、穣界は美獣の手に統べられるは必定。(こう)州では(らん)城がついに陥ち、我が虫州では美獣が(ばん)城へ入城し、穂佑聯(すいゆうれん)掬巴且(きくはしょ)閥養(ばつよう)らの連合軍も引き具して、号する軍勢は二十万。ここにあって、閥野翫は美獣に降伏致した。」

「なにいっ」

 武官の一人が驚愕して、反射的に大声を発した。


 潤柳隠は床に頭をつけながら、閃斤の気配を探る。恐らく、肘掛の上の拳を固く握り、ブルブル震えているのではないか。見えないが、何となく分かった。城主の椅子は、潤柳隠の目の前にあるのである。

 また汗が噴き出し、この役目を投げ出したくなったが、再度腹に力を入れ、言上を続けた。

「閃斤殿も、早々に因州王美獣へ降られよ。今なら美獣も穏便に降伏を受け入れるだろう。恐らく本領は安堵。。」

「黙れっ!」

 結局、閃斤も激昂した。

 ガタン、と音がする。椅子から立ったのだ。フーム、フーム、という荒い吐息が、平伏する潤柳隠の後頭部に降りかかってくる。


 怒りが激しかった為か、閃斤は言葉を発せなかったが、いくつか呼吸した後、

「野翫よ、腑抜けたか!」

 と這いつくばる潤柳隠に怒声を落とす。


「なにが『反抗虫王』か!褐剣髯がいなければ美獣に坑せぬのか!情けなや、自国を焦土にした不倶戴天の敵にさっさと降るだけで理解不能だのに、昨日までの盟友に対して何と無礼千万な物言いをすることか。かの「闔州堅牢王」閥敏(ばつびん)公の末裔とは思えぬ節操の無さ、お前の主君は一大武家である閥家の名を汚しに、汚しておる。ああ、汚し、汚し。何たる無礼、何たる愚者っ。」

 語るにつれて、閃斤は興奮を増していく。床に伏す潤柳隠の眼前で、閃斤の堅い沓が幾度も床に打ちつけられ、都度疳高い打撃音が房内に響く。


 そして怪鳥のような声が、続けて耳をつんざいた。


「我が閃家が、退けるか馬鹿者っ。冥土で亡き父に申し開きが立たんわあ!」


 直後、目の前が明るくなった。剣を抜いたのか?と思った瞬間、すぐ目の前が暗くなる。首に衝撃が走った。


 首を、閃斤に斬られたのだ。


 潤柳隠は、首に一瞬激痛を感じ、すぐ死を迎えた。


 眞暦(しんれき)1821年6月。

 最早孤軍と化した閃斤が籠る盈橙の城市は、霧雨降り続ける山間の盆地の底で、来る美獣の大軍に怯えるが如く、ひっそり建っている。





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虫州

挿絵(By みてみん)




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