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豪雨穣門の凶報


 眞暦(しんれき)1821年4月。

 穣門(じょうもん)は春の大雨にさらされている。


(これで少しは飲み水が増やせるが。糧食は改めて計算した方が良さそうだ。)

 貯執(ちょしつ)は、せりだした腹のせいでハチきれそうな官服をさすりながら、憂鬱な目で城外の雨空を見上げて、大廊下に立ち尽くしている。


「貯執、まだまだ昼までは二時間あるぞ。今からそんなじゃ、昼前に倒れちまうだろう。」

 背中から声をかけられて振り向くと、同期入庁の冒気錫(ぼうきしゃく)だった。こいつは骨と皮だけ、ひょろひょろと背だけが高い男である。

「なにっ。確かに俺は食べ物のことは考えていたがな。」

「兵糧のことだろ。しかしそれは、一昨日にも合計値をまとめていたじゃないか。結局さ、お前は食うことしか考えてないのだよ。」

「いや、ちがう。再計算が必要な事態になりつつ。。。あう」

 冒気錫がふいに貯執の下腹をつかんだ。豊富な皮下脂肪のせいで、数cmは伸びる。

「そりゃ、お前の言う通りだ。天候が変わり、なにより戦況が動いている。普通なら兵糧の残量を随時把握するべきだろう。しかし。」

 そう言ってぱっ、と手を離すと、貯執の腹肉はゆっくりと元の位置に戻っていく。貯執は己れの腹肉を見て、目を丸くする。

「ここの部分だけ何かの生き物のようだな。我ながら、気持ち悪い。ま、それはともかく冒気錫よ。『しかし』― なんだ。」


 はるか数十m向こう、大廊下のどん詰まりに古びた大きい観音扉がある。冒気錫は窪んだ眼窩(がんか)の奥から、少し翳りのある瞳で扉を見つめる。


「ウチの姫様も鶺少(せきしょう)のオヤジも血相変えて、議場に入っていったぞ。」

 

 貯執も議場の大扉を凝視していたが、すぐに気が詰まって、窓外に眼をそらした。

 石壁をくり抜いただけの窓から庭園が見える。大きな池の水面に、無数の雨粒が勢い良く飛び込み、一面に飛沫が舞いあがっていた。

 庭園の向こうに目を移せば、高さ二十mの大水門がそびえている。淡黄色のその躯体を豪雨に濡らし、ひどく憂鬱そうだった。

 門に籠る啓法得(けいほうとく)軍の士気がかなり低下している、と聞こえている。しかしこちらの包囲軍も、ここ一ヶ月の戦勝気分が嘘のように鳴りを潜めていた。脱走兵が出て、貯執ら補給隊にも衝撃が走っているところである。


賛楓(さんぷう)の街も雨だろうか。芸報(げいほう)はちゃんと飯を食っているだろうか。)


 穣門側からこちらの盧爪(ろそう)城を見下ろせば、きっと同じように陰鬱に見えていることだろう。


 滝のような轟音を鳴らす雨の底に、籠城側も攻城側も沈んでいた。



――――――――――――――――――――



 穣門。


 穣河(じょうが)と、都州帝城へ南下する北大運河の結節点で、巨大な水門である。淡黄色の磚で覆われ、高さ二十m、幅は東西に二十kmに及び、その両端とも地平線の彼方に沈んでいる。大開きの大穣扉(だいじょうひ)と小開きの小穣扉が並び、普段は小穣扉だけが開いて、大量の物資と船、人が行き交う。斐界(ひかい)随一の流通拠点である。

 そして、そうした経済的な機能とは別に、軍事的な顔も持っていた。流通量の多い産業交通は、軍事力の移動経路とも一致し、特に穣界西部や北部から都のある附類(ふるい)平原に入る際、ここが関門となることから、斐界最重要の軍事拠点とも言えた。だから、数多の実力者がこの水門をめぐって争奪戦を繰り返したのも当然であった。近くは百三十年ほど前に、時の皇帝・女歓(じょかん)によって穣門特軍総督に任命された鄢雀と、大(ぼつ)初代皇帝の妃轢亞朱癩(キレキ―アシュライ)及び(いん)州王美戚(びせき)による連合軍が激戦を繰り広げており、この国の戦史上、もはや伝説化している。

 この為、穣門は堅牢な城塞でもあった。まず、東西に延びる門自体が前述の通り壮大な規模を誇り、穣河北岸からここを無傷で突破するのはほぼ不可能に近い。かなり遠回りして門の南側に回り込むしかない訳だが、南側の防衛も堅い。北大運河を挟んで東西にそれぞれ穣門東城、穣門西城が構えられ、どちらも分厚い城壁がめぐり、こちらも斐界有数の堅城なのである。

 さらに穣門東西城から南へ、半径3kmの同心半円上に、5つの砦が配置されていた。西から盧角、盧牙、盧掌、盧爪、盧翼の5城、まとめて「扉南五盧(ひなんごろ)城」と称している。五つそれぞれに千人も入れれば、寄せ手は東西城に近づくことさえ出来なかった。


 このように穣門は難攻不落の大城郭であった。実際、百三十年前も、妃轢亞朱癩と美戚は二十万の連合軍を用意しながら、力押しせずに兵糧攻めをしており、そしてそれも失敗して、結果的には妃轢亞朱癩は戦死し、特軍総督の鄢雀は穣門は守り切ったのである。


「あと少しなのにな。冒気錫。」

 そんな穣門をあと少しで落とせる、貯執はそう言っている。

「本当にな。間違い無く、落とせるだろう。」

「あと二、三人。来るからな。」

 堅牢な穣門の城塞群は、その守将を少しづつ籠絡することで、鶺少・瞠靺(どうまつ)連合軍の手に落ちつつあった。啓法得が維持しているのは、もはや穣門本体と西城、盧牙城のみ、瞠鶺連合はひたひたと重囲を進め、籠城軍の命運はすでに風前の灯火であった。

「美獣も穂佑聯(すいゆうれん)も、手は出せぬ。」

 部将級があと二、三人籠絡する目処が立っている。慌てて駆けつけた因州王・美獣と秦州王・穂佑聯の援軍はまだ本門のはるか遠くにあり、この大雨で立ち往生していた。奴らより一手早く瞠鶺連合の穣門包囲は完成する見込みである。


「で ― 」

 貯執は、はれぼったい瞼にしわを寄せながら、痩せっぽちの冒気錫を見上げる。

「我が瞠靺姫も、鶺少のおっさんも怒り心頭だった、と言ったな。」

「そう、それはそうだ。だって」

塊協半(かいきょうはん)がこっちに来なかったからか。」

 貯執の言葉が終わった後、激しさを増した雨音が、盧爪城の大廊下に響き渡った。

()州を出たら間違い無く、こちらに来ると思ったが。昱臭(いくしゅう)()城に入りやがった。」

「いやもう出て、廂厩(しょうきゅう)で閲兵をした筈では?」

「ふん、輜重管部(しちょうかんぶ)のくせに良く知っとる。」

 そう言って冒気錫は、また貯執の下腹を右手でつまんだ。

「いてて。龍牙府の諜報網も瞠靺姫の賜物よ。しかし、このまま進軍して都を落としてくれればいいよ。我らの本領が― 類州と()州が ― 心配だが、悪くはしないだろう。さすがに。」

「そこが美獣と違う所だ。『褐剣髯(かっけんぜん)』の方が、義理堅い。人間の情がちゃんと通じるからな。だが」

 ここで冒気錫はぐっ、と右手に力を込めた。

「問題はあの兄妹から、この穣門をどれだけ守り続けられるかだ。」


 そうだよな ― 。

 貯執の顔が苦痛に歪んだのは、冒気錫の爪が腹の肉に食い込んだから、だけではない。


 この肥った類州龍牙府の官僚は、自らの主、瞠靺の穣界進出という壮挙を必死で応援してきた。輜重管部という事務方の部署にあって最大限に職務を全うし、類州出立前は兵糧準備、敵地に入ってからも従軍して輸送を取り仕切った。兵士とともに起居し、寝ずに業務にあたり、連勝街道に影ながら貢献してきた。


「それこそ、身も細る思いでやってきたのになあ。」

 貯執は贅肉を同僚に鷲掴みにされたまま、深いため息をついた。



 と、その時。


 ばん、とはるか廊下の先の大扉が開いた。

「お。出てきた‥ 」

 冒気錫は同僚の下腹を掴んだまま、呟く。


 瞠靺・鶺少軍の首脳が合議堂から出てきたのである。

 皆慌て、小走りであった。雪崩を打って次から次へと吐き出され、大廊下を続々とこちらにやって来る。


 赤銅色に日焼けして(みどり)色の戦袍(せんぽう)と鎧を着込んだ小男が先頭に立ち、明らかに苛立っていた。


 鶺少である。

 二十年程前、啄飯道(たくはんどう)の傭兵として「金戟の小鬼」と恐れられていた時と変わらず、体は百五十cm程度で小さいが、今や齢五十二歳、懦州龍牙代の要職に就いて万超の師団を率いる将軍に成り上がっている。その面相は小柄な体に不釣り合いで、五角形の輪郭の中に無数の皺を刻み込み、特に眉間を縦に裂く二本のそれは深く黒く、三白眼と相まって、まったく血に飢えた猛将そのものであった。

 数えきれないほどの戦場で響かせてきた彼の甲高い声が今、大廊下にこだました。


「全軍、南に撤退!」


 予期していたとはいえ、これを聞いた貯執はつい泣きそうになった。

 だがそれとは比べものにならない程に痛恨なのは、鶺少将軍の後ろにいる若い女性だろう。


「畜生、堊蹌(あそう)め!!」

 真っ青な顔で唇を噛み、子供のように地団駄を踏んでいる。鏡面の甲冑に、金銀宝玉を埋め込んだ赤い外套を羽織り、飛ぶ度にガチャガチャとうるさい。苦渋で満たされたその顔は、しかし不思議と華やかなままで、長い睫毛、ぱっちりと見開いた二重目、厚い朱の唇、悔しさに身を揉んでいても「賛楓の陽花」と称される彼女の本質は隠せていない。


 姓は瞠、名は靺。


 類州北部の豪族、瞠牝(どうひん)の娘で、幼くして母を亡くしてからは賛楓城を拠点に家を保ち、州王だった僚家や有力諸侯の財家をこの数年で駆逐し、ついに州王の座を簒奪した類州の雄である。まだ二十五歳、姫様然としたその顔貌と、彼女の実績はあまりに不釣り合いであった。

 腹立たしげに大廊下を闊歩する瞠靺姫が、慌てて頭を垂れた貯執と冒気錫の所まで来た。

「まったくもう。あとちょっとで穣門を落とせるのに。惜しい惜しすぎるわよ。あ、お前たち、聞こえただろうけどね。撤退よ、撤退。」

 そう言って冒気錫に腹肉を掴まれたままの貯執の丸い肩を、すれ違いざまにポーン、と叩いた。

「美獣たちに背中を襲われないように撤退しないといけないからね。殿は難儀よね。お前の補給にかかっているわよ。よろしくね!それにしても悔しいわあ。」


 本当に悔しがっているのだろうが、地声のハリがそれこそ不釣り合いである。だからだろうか、次に瞠靺がつぶやいた言葉も、貯執はこの時点で深刻にはとらえられなかった。


辱落峡(じょくらくきょう)か。褐剣髯が居れば、そんなことにはならないでしょうに。」


 はっきり聞き取れなかったが、そう聞こえたような気がする。


 将軍や高官がぞろぞろ眼前を通り過ぎ、二人はようやく頭を上げた。大廊下にはまだ彼らの怒りや落胆、興奮の熱気が残っている。


 冒気錫が貯まっていたものを吐き出すように、耳元で小さく叫んだ。

「おい。ぼーっとしてるな、絶対無事に類州に帰るぞ!」


 そうだ、俺も芸報が、子供が小さいんだ。

 もう、戦場から帰れるんだ。

 

 貯執の眼の前から、愛する姫様が企てた壮挙の夢はさっ、と消し飛ぶ。その瞬間、まだ腹の肉を掴んでいる冒気錫の骨ばった手を振り払い、走った。

 

 贅肉をぶるぶる揺らしながら、豪雨の音が支配する大廊下を、一目散に駆ける。

 蘆爪城の輜重管理部詰所へ。

 

 いや、その先にある愛する賛楓の我が家へ。






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庇州

挿絵(By みてみん)



類州

挿絵(By みてみん)



穣門周辺 (模式図)

挿絵(By みてみん)





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