嗷号大号、戦場震撼す
悪仏。
捻州の要地で、捻中盆地に位置する中核的な城市である。春の早朝、所々に隆起する小さな岩山を従えるが如く、黄土がこびりついた城壁が屹立している。
「掬巴且は、よく戦っとるわ。」
嗷号の小山のような巨軀が、まだ弱い曙光に照らし出される。鋭利な鉄棘を生やした巨大な白銀の兜が、旭日を跳ね返す。
「げに。そうでなければ捕差の奴、秦州王が撤退した時点で、とっくに馬賊へ降っておるでしょう。」
対照的に、側近の句章建は痩せちびている。
彼らの目線の先、城外の荒原で二つの軍勢が激突していた。
かたや、「掬」「捻」「因」といった旗幟が見受けられる、掬巴且軍。対するは「莞包」「土」「地」という幟が靡く、莞包旅礼甦と坡州派遣隊の連合軍。
掬巴且軍の中には、「捕」という旗があっても良かった。しかし黒地に黄文字のそれは、今は悪仏城の城壁上にズラリとはためいている。
句章建は山狗のように狡猾な目を光らせて、卑しい出っ歯を更に剥き出しにしている。
「ご覧ください。托賈彗の御令嬢が、随分恨みがましい目で城壁を見上げてまっせ。」
「ふん。捕差は出動が遅いわ。敵に城門前まで進軍されてしまっては、おいそれと開門できぬからな。」
今、悪仏城主である捕差の籠城軍が城門から出たら、莞包旅礼甦や土哭達は入れ違いに城内へ雪崩れ込むに違いない。
嗷号は、いつもの胴間声はどこへやら、常になく冷静に戦況を凝視して、穏やかに話す。
それにしても、掬巴且が恨むのも無理はない。悪仏城外で彼女は今、劣勢だった。武骨な騎馬民族で構成されている莞包旅礼甦軍と、塊協半が誇る万夫不当の二将、「孤闌王」土哭と近年主戦になりつつある地十の軍を相手に回しており、こんな猛将達と戦うなら、五割増しの兵を擁していても苦戦が予想される。それが今、掬軍一万に対して敵は二万と、逆に少ない状況であり、このままではとても勝利は見込めない。
嗷号の目は、遠く掬巴且の姿を見出した。
いつもは束ねている長い黒髪を、今日はさらりと背中に垂らし、ほっそりとした群青の鎧が、朝日の下に鮮やかである。馬上、真っ白な毛足の長い毛氈を複雑に振りかざし、その都度、一万の軍兵が展開集結、進退自在の動きを見せ、掬巴且の黒髪が原野の虚空に躍動した。
激突の現場から400mほど離れた所に陣取る嗷号軍全員の耳を、干戈の交わる金属音、馬の嘶き、そして荒武者達の咆哮が、つん裂く。
「やはり莞包軍と坡州軍の連携がうまくありませんな。そこを突いていく、ということですか。」
「句章建よ。それは分かっていても、なかなかできぬよ。野戦でこれだけ兵力差があったらな、並の武将じゃあ対応できん。そこへいくと『托賈彗令嬢』、さすがの用兵よ。」
名将揃いの寄せ手が翻弄されている。莞包軍と地十軍が分断されて混乱し、かたや深く出過ぎた土哭軍は包囲攻撃を受け、慌てて退いていた。土哭は掬巴且を目の敵にしているから、冷静さを欠いているのかもしれない。
掬巴且の絹の如くきめ細かい白肌、彫刻のように精緻な小さな顔、とがった顎、小柄で痩せた身体 ― 。
嗷号はムスッとして、190cmの巨体に載った大きなあばた面を更に強面に見せているが、その脳裏ではもやもやと彼女の肢体を描いており、それは句章建も同様だったようである。
「美人ですな。三十五、六になる筈ですが、いまだに『令嬢』と言って遜色無いですよ。」
「この乾燥した捻州で常に戦場に身をさらしながら、何であれだけ綺麗なままでおれるのかのう。」
「あの華奢な身体で万余の大軍を意のままに操るんですからな、本当に人は見かけによりませぬ。さて、その令嬢様をいつ頃助けますか。。。」
不揃いな出っ歯を捻州の空気に乾かしながら、句章建は主君の顔を覗き込んだ。しかし、嗷号はそれを無視した。戦場の馬蹄、精兵達の剣撃、様々な轟音は、当然聞こえている筈である。
「掬巴且とは武闘会で立ち会ったことがあるが、困士甜程ではないにしても、かなり腕は立つ。速度、膂力、体力、いずれも困士甜のが上だ。だがな、あの女はわしの太刀筋を全て読んじまいやがった。」
「すべて。。。?」
「そう。全部、薄皮一枚の差で避けたのさ。そしてその一方で、わしはまったく隙を作らなかった。運良く、な。恐らくその為だと思うが、あやつ、一撃も打ち込んでこなんだ。」
「一度も攻撃してこなかったのですか?それでは勝負がつかないじゃないですか。」
「ついたさ。綺麗に後方宙返りを決めてこっちを向いてな、『参りました』だと。これ以上は疲れて手合せは無理だから負けでいい、と言っていた。ちなみに、あとで審判に聞いたら、ぴったり五分。宙返りで着地した瞬間、一秒の狂いもなく五分丁度だったらしい。」
「はあ。」
美獣軍が誇る勇将達の逸話に感心しながらも、句章建は殆ど聞き流している。悪仏の城兵が合流できなかった以上、それこそ掬巴且が持ちこたえるにも限界があるから、嗷号軍二千の参戦は早めなければならない。
(普通に考えればな。)
しかし、嗷号の思考はこの時、異常であった。
(美人で優秀な『托賈彗令嬢』に対してなら、喜んで加勢しよう。あともう一人、かつてわしを捕縛した困士甜も同様だ。わし自身は戦友だと思ってるし、奴の為なら、ひと肌もふた肌も脱ごうというもの。しかし)
「嗷号様」
「おい。」
嗷号は大きな口を開けて句章建に言葉をかぶせ、自らの思考の中断を許さない。
「お前、『且甜楓三娘』をどう思う。」
「え。どう ― と言いますと」
句章建は、小さな眼球を忙しなく動かし始めた。賢い男だ、過去の嗷号の態度や、言動を思い返し色々考えて、すぐに予測をつけたであろう。
その証拠に顔が蒼白である。
「まさか。嗷号さま」
「揆朋楓が ― 坡州の裏切り者が ― 、得た今の地位を、他の二娘は不満じゃないのか。困士甜と掬巴且の二人が、どれだけ美家に貢献したことか。あの恩知らずの馬鹿女は、逆立ちしても二人に敵わぬ。」
「た、確かに、ええと、坡州の女大将は、一気に序列を上げましたな。しかし」
句章建は辺りをキョロキョロと見回す。眼前では万超の大軍同士が激突しているから、嗷号の言葉は側に付く句章建にしか聞こえない筈だが、それにしたって軍中にあるまじきあまりな暴言である。
「美獣なのか?穂佑聯なのか?どっちが奴を引き上げたのだ。二人とも、弱味でも握られておるんじゃないか。」
ここに至り、句章建の顔は紙の如く白くなって、その痩せちびた身体は今にも倒れそうに見えた。
しかし、彼は踏みとどまった。
素早く沓を鳴らす無数の足音とともに、激戦地点の殺気が、緊張感が、一気に増したからである。
それは、押され気味だった掬巴且軍が、後退していた強弓兵を右翼中軍まで急進させた足音だった。そしてその位置から、遠方射撃をやおら敢行した。
ザザザーッ
暁の空は数え切れぬ矢に覆われて、黒く染まり、さながら夜の如し、硬い弦によって皆、数百mを飛び越え、敵連合軍の中後方を空襲した。
歴戦の強兵たちが、滑稽な程の哀しげな悲鳴をあげた。一瞬にして千余の敵兵が死傷し、掬軍が戦闘の流れを手繰り寄せた。
「おお。さすが『托賈彗令嬢』!まさに起死回生。」
句章建は叫んで、勢い良く振り返ったが、嗷号が残酷なほど無表情だったので、拍子抜けしてかえって沈痛な面持ちとなる。
旭日は昇り切り、遠く、掬巴且が黒髪をふぁさ、と旋回させて、こちらに顔を向けたのも、嗷号には良く見えた。
そして、こう叫んだのも聞こえた。
「今です!突撃!坡州軍へ突撃っ」
女将軍の艶やかな要請。
しかしこれを聞いた次の瞬間、すでに穣界で伝説化した嗷号の胴間声が悪仏の大地に響き渡った。
両軍合わせて三万超、一人残さず、彼の大音声に脳を揺らす。
「嗷号隊、掬軍に突っ込めええ!」
戦場に衝撃が走った。
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眞暦1821年3月。
葬州の莞包旅礼甦と、塊協半が派遣した土哭・地十両将との連合軍は、捻州の悪仏城を攻略した。
城外での野戦で、城方の援軍、掬巴且率いる一万を撃破した後、城主・捕差の開城を受け入れ、悪仏を接収したものである。
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捻州




