深雪に熱く焦慮せること
日が暮れて気温がぐっと下がり、雪がいよいよ強い。
「ぬう、日没までに着けなんだか。寥林まで、あとどれくらいじゃ。」
巴雷埃甲屯はごま塩の髭を雪で真っ白にしながら鞭を使い、馬を苛める。並走する息子の醒袖屯は、毛皮の頭巾に積もった雪を、首を振って落とすと若々しい声音で応えた。
「ここは在歳郷ですから。この大雪では二時間ほどかと。」
「遅い!」
埃甲屯は真っ赤な口を開けて、怒声を発した。
「急げ、一時間で行くぞ。大雪なのは見れば分かる。お主も巴雷家の嫡であれば、明朝の軍議がどれ程重要か分かろうが。」
巴雷埃甲屯は、全身を覆う熊毛皮の外套を掻き寄せ、馬上、顔を上気させた。
黒灰の空から落下する無数の粉雪は、着々と地面を覆って積もりゆく。馬蹄は、きゅっきゅっ、と雪道を踏んで走るが、このまま加速度的に積雪していけば、馬の脚は雪に取られて動けなくなる可能性があった。
「大渤帝国の将軍が雪に往生するなど、情けないにも程がある。」
帝国龍牙府において別格将軍の地位に就く巴雷埃甲屯は、雪に濡れた鞍を悔しげに拳で叩く。帝国を愛するこの武将は、とにかく歯がゆく、その苛立ちからか、雪中の馬は速度を増した。
大渤帝国。
大姚帝国の兄弟国家で、因州の北、渤方と呼ばれる地域を版図とし、斐界でも東北隅の辺境であるが、半農半猟でその国民性は好武、姚からは「双瘤」の一つとして恐れられる存在である。
渤方は斐界の最北、緯度が高くて全体に亜寒帯だから、二月ともなれば背を超える積雪もざらである。為に、大渤の国民は皆、生まれた時から寒冷地での暮らしに慣れている筈だ。
「と、とは仰いますが父上。無理なものは無理です。」
息子の醒袖屯は開いた口に飛び込んでくる粉雪に辟易としていた。筆で引いたように細く、形の良い眉を、苦しげにひそめている。父は真っ白になった熊毛皮をはためかせ、怒声をあげかけたが、
「正面より馬が来ます。あれは、反助嘉。。義駑反助嘉でしょう」
と言われて口をつぐみ、息子の指差す方を鋭く凝視した。
道の行く先は暗幕の如き闇夜の帳、そこを激しい降雪が斜めに横切っているばかり。
だが、ややあって巴雷埃甲屯の老いた目を良くこらして見れば、闇の向こう、雪の向こうに、一騎が映った。
「注進!注進!」
必死に鞭を使い、この酷寒の中を走ってくる。
「埃甲屯様、醒袖屯様!義駑反助嘉でございます。寥林にて。はあ。一大事っ。」
二人に近づいた義駑反助嘉は、大汗を発していた。氷点下にあって、如何なることか、顔が汗でみどろである。彼が乗る馬も、ブルブルと真っ白な息を空中に放ち、たてがみを濡らした逞しい首からは湯気がもうもうとたち昇っている。
「うぬっ。反助嘉よ、いかがした。寥林の佞臣どもめ、何か動いたか。そうなんじゃろ?言えっ。報告せいっ。」
義駑反助嘉は、息急き切って馬をぶつけてくる主君を無感動な瞳で見返すと、荒れる息を堪えながら、報告した。
「龍眼・呪軍占辮、悪仏派兵を拒否の由っ。」
馬上、報を聞き、
「な?」
と、巴雷埃甲屯は一瞬動きを止め、虚空を見やるが、すぐに何か思い当ったようである。
少しだけ雪が緩んだか。
それでも、一面に積もった雪は夜の底に怪しく蓄光しつつ沈澱し、すべての物音を吸い込むが如く、静かに広がっている。
その中に、巴雷埃甲屯の野太い声だけが響き、それはどこか滑稽であつた。
「腰抜けめ、世代を超えてやっとることは同じじゃ。かつて北桐川の援軍に陸島まで赴いた我が巴雷家初代・駕衆屯様は、同じく呪軍家初代・掠掠の命令で、撤退させられたんだぞ。奴らが、北桐川との同盟を一方的に破棄したのだ。そして今度は、同盟国たる因州美家を見捨てるという。」
「悪仏への支援を拒否するだけで、美獣公との同盟を解消する訳ではありますまい。」
息子の冷めた発言に、巴雷埃甲屯は赫怒した。
「ぬぬ、お主、それでも巴雷家の嫡男か?それは、呪軍家の発想ぞ。醒袖屯よ、我が巴雷家では筋の通らんことは決して許さぬからな。だいたい、原葬東部領の放棄も奴は主張しとるが、これも馬鹿げている。始祖様が大変な努力の末、かの虐猟原の戦いで奪取なさった領土ではないか。それを簡単に捨てるなど、正気の沙汰ではないわい。」
巴雷埃甲屯は、人形のように馬に跨っている若い二人を、きっ、と睨んだ。毛皮にびっしりひっついた粉雪が、少しづつ落ちる。義駑反助嘉は早くも汗が冷え始めたか、小刻みに震えはじめた。そんなだから、いつまでも伝令止まりなのだ。戦場にはとても出せぬ。
雪の密度が徐々に薄くなっている。その為か、埃甲屯の口はいよいよ遠慮なく大きく開いて、ごま塩の髭をひきつらせ、その憤激のままに吐き棄てる。
「号炸蹉蹉が生きておれば、こんなことにはなるまいに。蹉蹉の変わりに、あっちの老人が死ねばよかったのじゃっ。」
穏やかではない。
呪軍占辮 ―。大渤帝国の第一大臣、龍眼という皇帝下で最高位の閣僚である。その重鎮中の重鎮に向かって、「死ねばいい」なぞ、もし誰かに聞かれたらどうするのか。いくら龍牙府筆頭将軍であろうとも、この発言について処分は免れまい。
なので醒袖屯がおどおどと周囲の闇を見回すのも無理ないのだが、そんな様を見て、かえって埃甲屯は歯ぎしりした。
「お前ら、明朝の軍議では徹底抗戦じゃ。些帝が丸め込まれる前に、諸臣を我が陣営に引き入れねばならぬ。あ。そうじゃ反助嘉っ。」
そう言って、老人は懐から封書を取り出し、凍えている義駑反助嘉の眼前に突き出した。
「はっ」
「いいか。妃轢微来晏公にこれを今夜中に届けておけ。」
「夜半に失礼では」
「やかましい!」
息子の配慮が、細かく、事の優先順位をわきまえぬもので、巴雷埃甲屯はひたすら苛立つ。
「どうしましょうか。」
「わしの名を叫びながら、公の門を叩け。いいな。あの方は恐らく我らの側に付く。しかし、夕路鯨綬はどうするかな。あやつはどっちに付くか分からんが。。。とにかく彼女はわしが自ら参ろう。ん?」
雪が小降りになった。巴雷埃甲屯は真っ暗な冬の夜空を見上げる。
寥林まで、一時間を切れるぞ。この雪なら。
息子にそう言おうと思ったが、老人は止めた。
「お前ら、いくぞ。」
それだけ言って、馬に鞭を打ちつけた。若い二人は一瞬顔を見合わせたあと、老人の馬を追って駆け出した。
ちらちらと未だ粉雪が舞う中、青い夜の積雪を踏んで、三つの騎馬が疾駆していく。蹄音もせず、平原はただただ、凍てつく静寂に包まれている。
眞暦1821年2月。
大渤は帝国始まって以来の大きな転換点を、迎えようとしていた。
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渤方中南部




