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 眞暦(しんれき)1820年12月。


 朝日の中、朦罠(もうみん)が自邸を出ると北風が猛烈に吹きつけ、その寒気はこのところ長袍(ちょうほう)の下に常着している甲冑すら突き抜けてくる。


墨銘楼(ぼくめいろう)が。泣いているようだ。)

 朦罠は、自邸近くに聳える高楼を見上げる。確かにこの楼閣は暴風にしなり、きしんで、哀しげに音をあげていた。


 墨銘楼。

 穣界最強の風雲児、「褐剣髯(かっけんぜん)塊協半(かいきょうはん)の牙城である。高さ三十mの高楼は、その純白の外壁に何箇所も「褐剣髯之覇」と墨書され、この名が付いた。眞暦1808年、塊協半が()(こう)両州で快進撃を開始した頃に建設し、高楼の周囲に十六kmに及ぶ城壁も急造して、この城市自体も「墨銘楼」と称されるようになった。

 以来、十二年。塊協半は、美獣(びじゅう)の大勢力を向こうに回し、この墨銘楼を拠点に渡り合ってきた。


 高楼の麓に坡州の行政府たる州王府が設置されており、朦罠はその大門に差し掛かる。直立不動の衛兵は、彼を見て上に引っ張られたかのように、更に背筋を伸ばし、最敬礼を見せた。

「これは『斜晃(しゃこう)将軍』殿っ。どうぞ、お通り下さいませ。」

「御苦労。」


 「墨夏夜炎(ぼっかやえん)」の事件で堕叉(だしゃ)蜻省首(せいしょうしゅ)が粛清されて以降、朦罠は坡州龍眼(りゅうがん)と同龍牙(りゅうが)を兼任することとなり、塊協半のもとでは最上位者となっていたから、この衛兵の態度も致し方ない。

 だが、朦罠が一歩踏み出した瞬間、衛兵が今度は反射的に飛びしさって道を開けた。これは朦罠の位階というよりも、彼の風貌に畏怖の念を抱いてるが故の反応であった。

 朦罠の顔相は、(よわい)五十三にして凄味を増していた。

 刀疵が左上から右下にかけて稲妻の如く走り、歳を経て引き()れ、獣のような両の(まなこ)はいよいよ爛々と煌めき、刻まれた皺は深く、長く伸ばした銀髪は冬の日に光って辺りを威圧している。


「ふふ。そんなに怖がるな。」

 朦罠は衛兵に対して笑い皺を浮かべて見せると、カツカツと府内の石畳に軍靴を響かせて府庁舎へ向かった。

 突風が吹いて浅黄の長袍がまくれ、下の鋼鉄の甲冑がのぞいた。寒いが、さすがに歴戦の武人、みっともない素振りもせず、小さな体軀ながら背筋も正しく勢いよく歩いていく。


 やがて高楼の入り口に着き、再びその墨書を見上げて後、朦罠は足を踏み入れる。


 上へ、上へ。

 大塔を登っていく。


(褐剣髯之覇、か。堊蹌(あそう)の策が当たれば。。。)


 石段を軽やかに駆け上がりながら、妓女あがりの謀士の顔を思い浮かべる。まず、莞包旅礼甦(かんぽうりょれいそ)(ねん)州侵攻が成功した。

 北へ、南へ。

 当藩きっての策士である堊蹌は、殆ど墨銘楼におらず、黄土の上を南北に駆けずり回っている。


 窓外はいつしか絶景、吹き込む強風に耐えて覗けば、朝の忙しさに包まれる墨銘楼の街はおろか、冬枯れの坡州大平原が一望のもとに広がって、遠く地の果ては霞んでいた。

 なお、堊蹌の軍略は、もっともっと先を見ている。坡州平原のもっと向こう。朦罠は、精強な塊協半軍が平原を埋め尽くして平原を行軍する様を想像した。


(上洛じゃ。)


 作戦は来年の六月、いや上手くいけば四月には完了する算段だ。朦罠にとって人生最大の壮図であり、自然と発する武者震いを禁じえない。目まぐるしく頭脳を回転させ、高楼の階段を行く。


 そして急に、人の気配がした。


 坡州王・塊協半は今日、あと二層上の望楼に居ると聞いている。

 しかし、何か濃厚な意識が朦罠の身体を取り巻いていた。高楼全体がきしむ程の強風で、内部は騒然としているが、その気配は明確に感じ取れた。


 朦罠が塊協半に仕えてから、こんなことはなかった。坡州南部の坑谷(こうこく)で塊協半に救われてその傘下に入ってから、約十一年半経つ。塊協半もさすが一世の英傑、身に纏う独特な空気感から、彼の前に立つ者は皆集中力を働かせて接触することになる。魅かれ、怖れ、その人物に興味を持ち、威風に緊張する。


(しかし― )


 今日は違う。

 二層上の階から気配を発しているのだ。それは強く、そして殺気というべきもので、また退っ引きならない悲壮感も混在していた。

 どうした?褐剣髯。

 そう(いぶか)りながらも、朦罠は歩みを止めぬ。長袍の下で甲冑は鳴り、石段に軍靴が甲高い足音を刻む。


 程なく視界が開けた。

 石段を登り切ったそこは墨銘楼の八合目あたり、展望の利く広い部屋で、塊協半が好んで用いる場所だった。壁が抜けており、居並ぶ柱列を透かして向こうから、冷たい風とさんさんとした朝日が勢いよく侵入していた。


「お。おう、おう、斜晃将軍。来たか。寄れ、もそっとこっちへ。」

 展望の間の最奥から、よく通る太い声が朦罠を呼んだ。声の主は豪奢な椅子に深く腰掛けている一人の小男、そいつがジャラリと音をさせて立ち上がる。


 小男は肩も腕も豊富に筋肉がついているが、一方で背は朦罠より更に低い。為に、旭光の中に浮かぶ姿形は、縦横比がほぼ等しい、丸型であった。剛毛の太眉と大きな一重目は距離が近く、見るものを射すくめる眼光がある。

 だが、この男の特徴はなんと言っても、顔の両側面に生える(ひげ)である。

 褐色のその髯は剣の如く直線的で、硬く、身動きする都度、ジャラジャラと音を立てるのである。


 ― 褐剣髯 ―


 髯の特徴がそのまま渾名(あだな)となった。この男こそ、坡州王・塊協半その人である。


「はっ。」

 言われるまま、朦罠は塊協半のもとに進む。戦績無数の武人であっても、「褐剣髯」塊協半の前では、いまだに緊張感が高まる。相手は十七歳年少の成り上がり者、朦罠が時の州王培梅(ばいばい)のもとで龍牙府筆頭将軍を勤めていた頃、このギョロ目の小男は、その、培梅軍の一傭兵でしかなかった。


(あれから十数年。こいつは今や、坡州王であり、それどころか斐界(ひかい)全土に号令しようとしている。)

 決して小男ではない。朦罠にとって、現在の主君であり、その存在の大きさは日増しに巨大になる一方だ。


 だが。

 今日は少し違和感がある。

 階下で感じた常にない気配は、塊協半の眼前に立つと、息が詰まるほど濃厚にたち込めていた。


「堊蹌のおかげで休む間がないわい。」

「まったく。」

 朦罠は話を合わせ、顔の大傷を波打たせて笑う。笑いながら、心中、慄然とした。


(何だ。顔色が悪いぞ。)

「まあ、斜晃将軍。(そう)州の具合はしかしっ。贅沢な悲鳴とも言えるわなっ」

 塊協半の声は裏返り、笑おうとしたのを我慢して、最後の言葉をのみこんだ。


 咳か。咳を我慢したのだ。

 朝日に照らされた塊協半の顔は蒼白になっていた。


 ご気分が勝れませぬか。

 そう言おうとして、朦罠は直感的に言うのを止した。


「堊蹌の策では南も暴れ出しまする。」

「忙しくなるな。」

「最終作戦での兵糧は如何程の準備になりましょう。」

「二ヶ月分。二月から四月で最終作戦を完遂する。六月まで長引いたら、()(るい)の現地で補充する。」

 類州戦線を想定している。「最終作戦」とは都州帝城への侵攻作戦のこと。やはり、我が主君は堊蹌の策を全面的に採用した!


 ふいに、塊協半が微笑んだ。

 斜晃将軍も腕が鳴るじゃろ?良かったな。

 そんな笑顔だった。


 朦罠も笑顔を返した。本当に今回の上洛作戦には胸が躍っていた。だが、彼の笑いは引き攣っている。それは顔の傷のせいではない。

「莞包は強力です。一、二ヶ月放っておいても擅黄(せんおう)を守れるでしょう。」

「奴はただの馬賊ではない。野戦だけでなく、籠城戦も出来ると見た。」

「同感です。なので南方が動くまで、我等は暫く力を蓄えましょう。」

 塊協半はまた笑った。

「ふっ。鋼製の甲冑を年中着込んでいる者が、何が『力を蓄える』だ。斜晃将軍が率先して、身体を休めねば、下が休めぬっ。ぐふっ。」


 今度の咳は、我慢できなかった。


 猛烈に咳込み、ごろごろと肺の奥から音が響き、目をきつく閉じている。

 大丈夫ですか、と朦罠は手を差し伸べながら、塊協半が続ける深い咳を聞く。

(これは、六月だとちょっとどうだろうか。四月完遂を目指した方が良いかもしれない。)


 誰よりもそう思っているのは、他ならぬこの塊協半であろう。その証拠に、殺気と悲壮感のない交ぜになった彼の独特な空気は、咳をする度に濃度を増していった。


 柱廊の向こうに太陽は明るく、中空を目指して昇っていく。しかし冬の北風は身を切るような冷気のまま、緩むことはなかった。







****************************



坡州


挿絵(By みてみん)


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