莞包軍捻州侵攻の報を、聞くに及び
噎職の城市は、広大な因州平原の中央に位置し、西には因捻回廊の入口が、南は咎寮や國朶鎮といった要衝、東の貿易港・犬甜、そして北には州都の啻万麓があり、まさに因州の要であった。
因州は千八百年近く美家によって知行されているが、当然この噎職は重要視され、優先的に開発されてきた。それが為、現在は高い城壁に守られた巨大商工都市として、因州に君臨していた。
眞暦1820年12月。
因州には雪がちらついている。
噎職は円形の城市で、街路は同心円状に走り、うっすらと雪化粧した巨大な白い渦の如きである。
円の中心付近には行政府が林立しており、その最も中心には城主の公邸があった。昼光で照らされる豪壮な大宇はしかし、冬の冷気で凍てついていた。
現在、邸の奥、城主の私室では、若い女官が眉根を寄せながら、何事かを城主に報告中である。
「お祖母様のご容態が良くありません。昨日までお話ははっきりしておられたのですが、今朝は呂律回らず不明瞭、意識も混濁され」
「む。今はどうされている。」
同じく眉間に皺を寄せた城主は、女官の言葉を断ち切り、同時に顔を背けた。腰の佩刀がカシャリ、と金属質な音を立てる。
「は。医師が投薬し、今は寝ておられています。」
「分かった。奥選恕よ、引き続き看病を頼む。」
そう言って、まだ話したそうな女官を下がらせた。
私室に一人となり、
「ふっ」
と、短いため息をつく。
姓は嚇、名は惟好。
齢三十五にして、噎職の城主である。丸顔に切れ長の目が吊り、幅広な鼻がヒクつき、もともとへの字の口がひどくイキって、更に口角が下がっている。足を忙しくぶらつかせて座る椅子は高価と見えるが、細い松材を使っている為か、嚇惟好の揺さぶりで苦しげに軋み、か細い腰刀の鞘が都度ぶつかるし、とにかく損壊は間近と思われる。寒いなら壁際の炕に座れば良いのだが、なかば放心状態になって単調なこの運動に夢中になり、それはそれで身体は温まっているようだった。
「ご令孫。契寿でございます。入室宜しゅうございますか。」
不意に脳内に直接女の声が響いたように感じ、嚇惟好は椅子から数cm飛び上った。
「う。。む。よい。」
尻から座面に着地して、いよいよ椅子の崩壊を早めながら、声の主に入室を許可した。
すると音もなく一人の女が目の前に跪いた。あまりに動きが素早かった為であろう、忽然とそこに現れたようにも見えた。この契寿と呼ばれた女、諜者に違いなく、そして身のこなしからかなりの手練とみえた。
「めっきり寒くなりました。葬州に飛んだのは十月でございましたから。」
「何の知らせだ。」
尻の鈍痛に耐える嚇惟好は、いつの間にかその吊り目の下に、墨汁のように黒ずんだ隈を広げている。
対して、契寿は同じ吊り目でありながら薄茶の瞳は玉の如く輝き、目袋の下は薄いそばかすを散らして、その肌からは活発さが伝わる。
契寿は膝を落としたまま、瞬間移動のように前に寄ってきた。
「申し上げます。莞包旅礼甦が擅黄を落としました。」
「な。。。」
嚇惟好の呻きは、北方の異変を告げる報せに対して発せられたものだが、諜者が急に間合を詰めたことにも、大概驚いていた。
「ば、馬賊め。砂漠を超えて来おったか。」
契寿の少し頬骨の張った小顔が、嚇惟好に近い。薄い、荔枝の香りが鼻腔をくすぐった。
「うふふ。薫越を落としてわずか二ヶ月ですものね。嚇惟好様だけでなく、穣北の誰もが慌てふためいていますわ。」
「わしは、慌てふためいてなどおらぬ」
「いいんですよ。それにしても、その馬賊一匹で、此度の電撃作戦を立てられるかしら?」
たゆたう荔枝の薫りはいよいよ強い。対する嚇惟好は落ち着かず、右足で貧乏ゆすりをしている。
「まあ。。。擅黄で葬州王异粽を討ったら、帰還するよな。普通ならば。」
自分なら、まず州王に刃向かうなど考えもつかぬ。そう思って中空をチラリと見上げた。脳裏に主君、美獣の厳格なる顔が浮かぶ。そう、そもそも莞包旅礼甦は美獣の傘の下にいたのだ。それを。。美獣陣営の中でも葬州の要だった州王の异粽を弑した上、即座に北捻砂漠を超えて、美獣の寵愛一方ならぬ「托賈彗令嬢」掬巴且の勢力範囲に殴り込んできたのである。
また、二年前の墨夏夜炎以来、美獣は敵の本拠地である坡州に侵攻、その他の失地も続々と取り返し、圧倒的有利と思われていた。
その中での叛逆。莞包旅礼甦の挙は、無謀か、果断か。
「当然、坡州が糸を引いたのだろ。」
坡州 ― いわずもがな、坡州王・塊協半のことを指している。
「そう。そしてこの度の強硬策は、堊蹌が立てた由。」
「堊蹌?確か。。」
因州王府の軍議で前に名前が出た気がする。
「そう、以前は塊協半の特命外交官だった者、当時は謀士:堕叉の情婦だったそうですが、皇室に暹命匠の遜州王即位を承認させるなど、かなりのやり手ですわ。」
「ふぅん。んー、そうだったな。」
嚇惟好は、細目の中で忙しく瞳を動かした。
「それが今や、交相と龍眼代を兼務する躍進ぶり。塊協半の謀士に成り上がりました。」
この時、嚇惟好のこめかみに青筋が走った。
(龍眼。。。)
この嚇惟好の独り言は、声こそ出なかったものの彼のへの字口が、言葉を形作っていた。
それを見てとったはずの契寿は、意地悪が過ぎた。
「やはり塊協半の勢力は脅威でございます。かの大策士、龍眼堕叉が墨夏夜炎で落命しても、また堊蹌という次の人材が出てくるのですから。。。。」
「黙れっ!」
嚇惟好は突如、勢いよく立ち上がった。
細木の椅子が、ガラーンと思いの外軽い音を立てて後ろにひっくり返る。
同時に細い刀身を、契寿の首にピタリ、と当てた。
「お前は諜者、余計な口は要らぬ。」
素早かった。
契寿ほどの者が跪いたまま身じろぎ一つ出来なかった。それ程に嚇惟好の抜きが早かったのである。一瞬、契寿は焦慮の表情を浮かべた。
だが、それも束の間であった。
その刃は震えていた。
契寿の吊り目が、更に釣り上がったかと思うと、次の瞬間には後方へ数m跳んだ。長く細い手足を蜘蛛の如く中空に舞わせながらの跳躍。
嚇惟好の刀剣は虚しく、震えながらそこに残された。
「口が過ぎました。この罪、万死に値しますわね。」
「契寿。次、この知らせを誰に伝える。」
「美豕公子です。では。」
そして女諜者は、来た時と同じように、忽然と姿を消した。
(どうせ、公子にも同じことを言うのだろ。)
また嚇惟好は声に出さずにつぶやいたが、契寿は去り際に嚇惟好の口の動きを読み取ったであろう。
嚇惟好は刀を震わせ続けた。徐々に、怒りだけでなく、寒さによる震えが増してきていた。
石床の上、完全に壊れた細木の椅子が、虚しく転がっている。
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因州
捻州




