唾棄された珊瑚礁の情事
八月。
熱帯雨林の暑気が、幼い汽夷土滔撫を苛む。
「あっという間に草ぼうぼうじゃねえか!」
半裸の女が叫ぶ。
蝶佳島の東岸、このあたり一帯は舫臺とかいう名の湿地帯である。
入江は海面からにょきにょきと生える鬱蒼とした樹林に覆われ、海水は深い暗緑、魚が虫が獣が、良く見れば其処彼処に蠢いていた。頭上に繁茂する葉やら蔓やらでこれらは薄暗い林間に沈んでいる。
「土滔撫っ。なんだい、お前こないだの草むしり、根から抜かなかったろう。」
入江の汀に立って怒る女。少年 ― 汽夷土滔撫 ― は、女のその怒気にただ恐れるしかない。
「母さん。こないだ全部、ちゃんと抜いたんだ。本当だよ。」
汀から陸側に少し平らかな場所があるが、成る程そこに草がみっしりと生えている。
少年も、その母とおぼしき女も、ボロボロであちこち破れた上衣をまとい、蒸し風呂のように暑い熱帯雨林の中、汗だくである。
目の前を飛ぶ大きな揚羽蝶、そしてそれをつんざくように、母親は人差し指を目の前に突き出した。
「うるせえよ。言い訳してる暇があるなら、さっさと舟を牽いてこいっ。」
「は、はいっ。」
指の先に、生い茂る草むらの向こう、濁った潮溜まりに浮かぶ古びた木舟が見え隠れしている。
土滔撫は、小さな体をすばしっこく飛ばして草むらを踏みしだいて越えると、布沓のままざんぶと緑色の海面へ足を踏み入れ、舳先にくくられた荒縄をぐいぐい牽いた。
「早く、早く。」
小魚や小蟹が脛を突ついて、くすぐったくてならないが、母が急かすから仕方なく、少年は急ぐ。
母は、目の前に舟が牽かれてくると、にわかに満面の笑みを浮かべ、
「ぃよーしっ」
と舟に躍り乗った。その拍子にまだ若い母の胸乳がボロ布の上衣からこぼれ出したが、別に彼女は気にすることもない。水しぶきをあげ、小さな舟は左右に揺れて、舳先の下にいた土滔撫はずぶ濡れになる。
「うひゃ。」
「なにやってんだ。早く乗れっ。あの人が帰ってしまう。」
瞬間、水のしたたる土滔撫の顔面が引きつったが、母はそれに気づく訳もなく、息子の手を掴んで乱暴に引き上げる。
「さっさと乗れ。そしてすぐに漕ぎ出せえっ。」
土滔撫は船底に転がったが、横たわっている細い艪を掴むと、さっと立ち上がり、艪を入江の水面に突き入れた。
舟がゆっくり動き出す。
分厚い密林が天蓋のように頭上を覆う暗緑の入江が、川のように続く。その上を母子の小さな木舟が、少年の必死の操船で進んでいく。ぱしゃっ、ぱしゃっ、と大小の魚が飛び跳ねる。船底には釣竿も転がっているが、いまは釣ってる余裕なんてない。
「早く、早くっ。」
母は、着てなくても同じなのでは、というくらいの申し訳程度の上衣を揺らし、土滔撫を急かすが、その声に先ほどのイラつきは無くなっていた。いやそれどころか、徐々に楽しげになっていく。
一方で少年は、その訳を知っているから渋面を作っていた。母の笑顔の要因がなければ、土滔撫だって、自然と笑顔になる筈なのだが。
入江の向こうに光源が見え、次第にそれが大きくなっていく。入江の出口であり、そこに着くと頭上の密林が途絶え、ぱっ、と視界が開けた。
大海だ。
熱帯の盛夏、太陽に照らされた大洋の海面は無数の波頭を煌めかせ、蒼天に白い鳥が飛び交い、眼前には一線、彼方の水平線が真一文字に引かれている。鬱蒼とした密林を抜けて、雄大な海が現れたのである。
容赦なく照りつける灼熱の陽光で、汽夷土滔撫の汗腺からどっと汗が吹き出るが、彼はこのひたすらに明るい海が好きだった。
「さっさと漕ぎなー!」
母に急かされ、これから向かう場所。そこの光景も彼は愛している。だが… 。
沖に二km漕ぐと。
小さな珊瑚礁が見えてきた。
「いたっ。まだいた。間に合ったぁ。」
いつか遠浅になって、鮮やかで混じりけのない翠の海水を通し、珊瑚や貝のかけらの一つ一つが、目にまぶしい。顔を上げれば、真っ白な砂の上に、濃い緑の森がちょこんと載った島が海に横たわっている。土滔撫の愛する、名もなき美しい珊瑚礁である。
白砂に一艘、赤い舟が先着している。
母はそれを指差して、飛び跳ね、手を振った。
「巾慶ー!巾慶ー!すぐ行くわよー。おいっ、もっと早く漕げっ。」
舟が揺れる。
(網元め。帰ってればいいのに。)
少年の口に、苦い汁が湧く。浜に立つ、すらっとした青年を見た少年の眉間に、皺がいよいよ深い。
「早くせいってば!」
母は、土滔撫の頭を蹴り、ほぼ同時に純白の海浜へ舟が乗り上げた。
土滔撫は口を尖らせ、蹴られた頭をさすりながら、
「痛いよ。」
と、母を睨むが、母は気づかない。
「巾慶ぃー。」
と叫んで舟を飛び降りると、浜辺の男にむしゃぶりついた。
そして、二人の男女は炎天下の白浜で抱きしめ合い、口を激しく吸いあった。
「若烏蓮。まだ旦那は帰らんのか。」
「あいつのことは言わないで、巾慶。せっかく今、この島にいるんだからっ。」
そう言って母 ― 汽夷若烏蓮 ― は、半裸の体を若い網元の巾慶にぶつけるようにして、また抱きついた。汗を散らし、脚を男の腰に巻きつけ、ほとんど露わになった胸乳を押しつけ、再び唇を求めた。
少年は呆然と突っ立ち、母の痴態を、網元との密通を、呆然と眺めている。見たい訳じゃない、それどころか嫌で嫌で仕方ないのに、あまりに激しい母の、獣のごとき求愛に驚き、体が硬直して動けないでいるのである。
熱烈な愛の交歓の途中で、ふと巾慶の方がそんな土滔撫に気づいた。
「おい。息子が見てるぞ。」
そして若烏蓮の体を押し戻し、体を離す。
母は、汽夷若烏蓮は、烈火のごとく怒った。
「何見てんだい、土滔撫っ!ガキが色気付きやがってっ。」
焼けつくような日差しの下、母は真っ赤な口を開けて、叫んだ。
「さっさとどっかへ行きなっ。鰹でも釣っておけ!」
そう言って足元の白砂を、蹴った。
少年は我に帰り、一目散に自分の舟へ走った。逃げるように。
舟に飛び乗る。艪を掴みあげて、力を込める。どんどんと舟は島から遠ざかる。珊瑚礁の美しい遠浅の海にまた、漕ぎ出していく。
(暑くて仕方ないだろう。きっと森に入ったな。)
振り返らず、その小さな頭の中で母と若い網元の行動を、自分という邪魔者がいなくなったあとの光景を、思う。
艪を操りながら、少年はさっきから口の中に湧いていた苦い唾液を、海水に吐いた。網元から見えたらとがめられるが、森に入ってれば見えない筈だ。
舷から下を覗けば、海は変わらず透き通っている。目を前に戻せば、陽にきらめき空を映す海面は、はるか向こうまでひたすらに青い。
雄大な海の前に、孤島で行なわれている痴態なぞ、小さなことだ。だがしかし、土滔撫少年にはそう思っても気持ちをまとめることはできない。言いようのない嫌悪感を、遮二無二、艪をかき回すことで掻き消そうとするのみであった。
眞暦1814年8月、蝶佳島舫臺の沖。
名もなき珊瑚礁での小さな出来事である。
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蝶佳




