救禁に武界の動乱を思う
眞暦1813年。
五月でも頭上の太陽が力強くきらめく、大姚三十一州最南の州、轍州。ここ救禁はその東部に位置する、大海に面した港市である。
目の前には南海が開け、沖には幾つも大船が停泊し、港との間を何十艘もの艀が頻々と往復している。今日は良く晴れて、鏡のように輝く救禁の港は、いつにも増して流通が活発化しているようだった。
「この港は海が深く、吃水があっても荷揚げの距離が短くて助かりますな。」
一茎忠息は、広大な南洋の照り返しにギョロ目を細めながら、港を褒めた。ここ瓦逗宇導邸は高台にあるから、救禁の港が眼下に見渡せるのである。
「ふふ。焼き討ちしなくても緇泉よりも良港ぞ。」
邸の主、瓦逗宇導はあばた面を掻きながら、自慢気だった。
なお、二人は瓦逗宇導邸の客間で椅子に座り、相対している。
「ああ。ええと、あれは1679年でしたな。」
「正解。さすが泪海、南海のことはお詳しい。」
「そんな。しかし大海商殿に言われると自信になりますな。」
一茎忠息は赤銅色のその顔と対照的な白い歯を見せてはにかむと、傍らの風呂敷を卓の上に載せる。
「お。それはもしや。」
と、瓦逗宇導は椅子をキシませて、卓の上に身を乗り出した。
「武界黒糖でござる。」
「おおう。いつもは泪恋商人経由だからな。」
言いながらもどかしそうに包みを開ける。指は太いが存外、器用である。豪快に見せて緻密な男だな、と一茎忠息は微笑を浮かべて見ていた。
「ははっ。甘さも一段と。うん。」
茶褐色の小片を放り込み、口の中で愛おしそうに転がしている。
「しかしもう、心配要らないのう。」
黒糖が美味かったからか、瓦逗宇導は珍しく慈愛の表情を一茎忠息に向けた。
「これは。」
黄翼山大噴火のことである。
「お心遣い恐縮にござる。黄翼山から今年で丁度二十年。漸く、ですな。」
眞暦1793年。陸島最南端の武界国にある火山、黄翼山が噴火し、武界国はほぼ壊滅した。それどころか、噴煙が上空を覆い、この世界が、斐界全体の気温が低下し、すべての生産活動に、人間たちの営みに、悪影響を及ぼした。凶作、飢饉、そして人口減。この時斐界の歯車が狂い、今日の穣界における大乱を誘発したと言ってもよいだろう。
「一茎殿は何歳だったか。」
「八歳でござった。」
一茎忠息は即答した。
彼はまさにその、黄翼山のお膝元、武界国の人間である。
しかも彼が生まれ育った一茎城は、武界国西岸に有り、黄翼山の山系の西北麓であった。
一茎氏の城は、領国は、多量の火石と溶岩、灰の下に埋もれ、一度滅亡する。
だが、生きている人間はいた。
噴火の予兆はあった。もともと活火山だから、領主の一茎氏も領民たちも準備はあった。実際、一茎忠息も他所に避難していて助かったのである。
しかし、そのあとはまさに地獄であった。田畑が埋まり、生産手段が壊滅した一茎領は、まさに零からの開墾を強いられたのである。一茎城に戻った忠息少年の目にも、一面灰一色で塗り尽くされた世界は、この世のものと思えぬ風景に映った。
それから二十年。必死の復興で、国内の他の諸侯と同様、一茎氏も力を取り戻し、名産の黒糖も復活し、何とか輸出する数量を生産できるようになったのである。
瓦逗宇導は、一茎忠息にも黒糖を薦め、忠息は二片ほど口に入れた。
淡い甘さが口中に広がる。疲れなど一瞬に吹き飛ぶ気がする。一茎忠息にとって、いや武界の人間にとって、この黒糖復活はとても感慨深いものであった。一茎忠息は一瞬、もの思いに沈んだ。
「ふうん、だが」
瓦逗宇導は、忠息の意識を引き戻した。
「国はまだまだ鎮まらんのじゃろう。お主の家も大事な時期であろ。」
忠息は日に焼けた健康的な顔を、きっ、と引き締める。
「ん。左様、黄翼山以来、殺陣の分家はまとまらず、安隅や講空院などの土豪もまつろわず… 。」
「いや、それは前からじゃろ。申したように、まさに今、貴殿の殺陣一茎家が大変な時期なのだろう、と申しておる。」
瓦逗宇導は脂肪のついたまぶたも重たげに、あからさまにこちらを探る目付きを向ける。
一茎忠息ももう、警戒をあらわにした。大きな二重目でギョロリと、南海の大海商を睨んだ。
それを見て瓦逗宇導は、その肥満した巨体を少し引き、
「ふはは。陸島でも武界国の武官は、殺伐としている。しかし、そんな目をしてたら、損をするぞ。」
と笑ってから、とんとん、と卓上の黒糖を小突いた。
「金がいくらあっても足りんのだろ。その為に領主の弟自らが危険を冒し、環泪海を越えてきたんじゃないのか。」
互いに探る目ではあるが、ともかく一茎忠息は殺気を引っ込めた。
「失礼。武界国内の乱れは、いつ治まるやら知れず、金銀は何時でも足りもうさん。別に今だけではない。ささ、目付きの悪さは謝ります。泪恋商人抜きで、値決めを致しましょう。」
「ふふ。まあ、そうだ。武界の国主筋から直接買えるんだものな。分かった。その辺を加味して話をするか。」
コリコリと、瓦逗宇導は際限なく黒糖を喰う。あの時の泪恋の何某は何圓で売ってくれた、海運代と利潤をとって何圓の筈じゃないか、とかこの海商が言葉を吐くごとに褐色の塊はどんどん減る。余分に持ってきてよかった、と一茎忠息は二袋目を開けて奨めつつ、いや泪恋の品は蝶佳から仕入れるものもあり、質は武界産の方か段違いに良い、と一歩も退かずに話を繋げる。
口は勝手に動くが、忠息の心は同時に別のことを考えている。
(泪恋の商人め、余計なことまで話してやがるな。)
環泪海の波濤の向こうにいながら、瓦逗宇導は武界国の現況を良く知っている。殺陣宗家、殺陣一茎家、殺陣作来家、講空院家、安隅家、殺陣美隼家 … 。小さな土豪がひしめく様子にひどく詳しい。
「よし。いいでしょう、負けました。さすが南海の大海商。小さな陸島のそのまた小さな土豪の、しかも分家の次男坊には、とても商談で敵いませんや。」
真っ白な歯を見せて一茎忠息は笑う。
「ふん、何を。この値でもたっぷり利は出るじゃろう。本当に武官にしとくに惜しいわ。」
そう言って瓦逗宇導はたるんだあばた面を掻きながら、探る目で乗り出して来た。
「いいか。国許乱れ、貴殿の武門が成り立たぬことあれば、いつでも救禁に来なされ。すぐに販路を一つ任せるから。」
そんな、とニヤけて、手早く身支度をする。瓦逗宇導の重いまぶたの下の眼光が鬱陶しくなってきた。それ以上多くは語らず、一茎忠息は邸を辞した。
振り返れば、その邸の壮大なこと。
瓦逗宇導こそ、商人にしておくにはもったいない。この救禁という港市の実質的な長であり、優秀な為政者である。そしてその視界は広く、波濤を越えて陸島の一隅にまで及んでいるようだった。
街に向けて坂を下りる一茎忠息は、腕を組んで虚空を睨む。
(あばたの親父め。どうも、今度の作来と講空院のことを知ってるな。)
泪恋の商人から意図的に、深く詳細を聞いているのだろう。一茎忠息の兄、傅忠は、同じ殺陣家の一門として作来忠草の側につき、ともに講空院辰清を葬ろうとしている。
(本当は今、喉から手が出るほど金が欲しい。)
南国の五月は既に汗ばむ。街に下りた一茎忠息は、往来の中に身を投じる。物売り、馬車、忙しく走る者、ゆったり歩く者、綺羅を飾る者、乞食。民族も、豊人、熱方人、蝶佳人、泪恋人、そして陸島人と多彩。港町の往来は様々な人間が溢れていた。
「暑。」
忠息の故郷、武界国も陸島では最南端だから、南国、と称されるが、はるかに緯度が低い轍州の暑気は、まったく別物である。
道はいつしか、両側に椰子の並ぶ幅四十mの宇麟南路に入っていた。「宇麟」、言わずと知れた救禁瓦逗家の祖、百三十四年前に敵対する緇泉の岡累繊が各所に所有する商船を火攻で焼いた瓦逗宇麟その人から、名を採っている。
小貝が路面に敷き詰められた宇麟南路は純白で、陽光を照り返す。一茎忠息は眩しくて、思わず目の前に手をかざす。行き交う人たちのはるか向こうへ、道は南海の水平線に続いていた。
視界の半分は、真っ青な亜熱帯の空。
光溢れる街の中に、一茎忠息は、いた。
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轍州
環泪海
武界国周辺 (陸島)




