零老未だ昇竜せず、帝城に雌伏せる頃
「あっ。零揮甕、どこほっつき歩いていたの?こんな時間まで。」
二十二時。
夜も更けた都州帝城の一邸に、少女の甲高い声が響いた。
ここは懦州王家が都に有する別邸「懦州都邸」で、帝城での所在は内城の八条三罫に位置している。
「姫、坡州都邸に行っておりました。穣界の現況についてお聞きしていたのですよ。」
零揮甕は背に負った革箱を下ろすと、乱れた白髪混じりの頭髪を手櫛で整えながら、なだめるように言葉を吐き出した。時は二月、彼の息は白い。
その様を見て、少女 ― 懦州公女・靄最 ― は、ぷーっ、とほおを膨らませ、
「へんっ。」
と、そっぽを向く。
頬は赤く、この底冷えする都会にあって、怒りのためか彼女はかえって火照っているようでる。
(まったく何なんだ。)
零揮甕は齢四十八であり、目の前の少女の四倍以上生きていることになる。ましてや相手は女、しかも深窓の姫となれば、彼女の考えていることは皆目見当がつかぬ。都でともに暮らし、一ヶ月が経つが、日に日に謎は深まるばかりだ。
「朝、今夜は他州都邸に赴くので遅くなる、と申し上げたはず。ですから姫には、ご就寝されていて良かったのですよ。」
「馬鹿にしないで。私、もう十一歳よ。全然眠くないもん。」
こちらに向き直ってそう言う彼女の目は、しょぼついていた。しかし、子供扱いすると何かと怒るから、先ほどの零揮甕の言い方は確かにまずかったかもしれない。
靄最が口を赤く開いて、言う。
「だいたい、私には零揮甕のカントクセキニンがあるんだからっ。」
これを聞いて、零揮甕はあやうく吹き出しそうになった。
懦州王の靄押越が、都州帝城での暮らしを我が娘に経験させる為、お守りと警護を零揮甕に託したのである。だから監督責任があるのは、零揮甕の方だ。
州王家の姫に睨み上げられながら、笑うのを我慢するのは大変だ。炕がそこここに設置されていてもそこは都州盆地の二月、邸内はやはり寒いのだが、必死な零揮甕は少し額に汗をにじませる。
しかし、零揮甕は見事に無表情を、保っている。
白髪混じりの少し長めな頭髪は、波打ちながら後ろにかき上げられ、垂れた二重目は穏やかな印象だが、青みがかった瞳と笑い皺が刻まれた浅黒い顔相は、ともすれば色気も感じさせた。
じっくりと年月を重ねてきたこの男にとって、小娘の前に無表情を貫くことくらい、たやすい。
彼は懦州西部の愉という城市を本拠にする小豪族である。若くして家を継ぎ、首領として必死に領土を運営してきた。懦州は穣界に比べて平和だが、それでも夜盗の類いはおり、愉も度々襲撃を受けた。州王・靄押越は政道を放棄し、龍眼・懌洛の専横に任せていたが、懌洛の器量も大きくない。州内は零揮甕のごとき無数の小豪族で細分化し、それぞれの小天地を堅守することに専念していた。彼らは近隣諸侯の動向に目を配り、州王や龍眼の顔色をうかがい、この微妙な懦州の均衡の中で、己の封地をひたすら守っていた。
張り付いたような笑顔と、無表情とを、自在に操る。
一小豪族の長として、零揮甕が培ってきた能力と言っていい。懦州の豪族どもはどんぐりの背比べではあったが、その中で立ち回りのうまい彼は、州内では上位の勢力になっていた。
州王から、わがままな馬鹿娘として州内でも有名な靄最を押し付けられた時も、「なぜ俺が?」「州王府内の官僚を派遣すればいいだろう」と思ったが、それも一切顔に出さなかった。温和で、中央に対して従順な模範的地方豪族、としか州王の目には映らなかっただろう。
色気をかもし出す男は、無表情から一転、柔和な笑顔を作る。
「失礼いたしました。ご心配をおかけし申し訳ございません。以後注意いたします。遅くなる際は、途中一度、使いを寄越しましょう。」
「そうよ。どこの州都邸でナニをしているか、を逐次ね。」
おや?
顔には出さぬが、零揮甕は心の中で首を傾げた。
零揮甕は今夜、坡州王府に所属する男女二人の高官に会った。男は副都邸長、女は無官だが坡州王・塊協半から直々に派遣された特務外交官である。二人と話す中で、麻のごとく乱れる穣界の有様を克明に知った。
なお。男の方は坡州都邸で面談したが、女は違う。
女外交官とは、外城の裏街にある旅宿で会ったのである。
「そうだ。復斉装あたりを付けるわよ。外出時に連れて行きなさい。そして宵の口、場所と用向きを伝えさせんのよっ。」
この娘、馬鹿かと思ったが、勘だけは鋭いようだ。少女の潔癖さが、俺に情事の匂いを嗅ぎつけて嫌悪感を抱いたか。
それでも穏やかさを崩さず、零揮甕は床に置いた革箱を開け、中から小さな赤い絹の巾着を取り出した。そして優しく娘の手を取り、手のひらにそれを置いた。
「分かりました、姫。復斉装を、お願いいたします。さ、私はもう眠うございます、姫も就寝ください。そして、ほら、明日はこの首飾りでも下げて、お過ごしなさるとよい。」
靄最は口を尖らせているものの、巾着から赤い小貝を連ねた首飾りを取り上げると、
「ん。まだ眠くないけど、零揮甕も疲れてるだろうし、私も寝所に入るわ。」
と満更でもない。そして零揮甕にうながされるまま、自室に入っていった。扉が閉まってほどなく、ドサッと音がしたから、寝台に飛び乗ってすぐ眠りに落ちたのであろう。
(堊蹌… )
少女の自室を後にしながら、坡州女の名を、声に出さず、つぶやいた。
確か、二十四だと言っていたな。今寝所に押し込んだお嬢様は十一歳、どちらも自分の年齢からは大きくかけ離れているが、同じ性別とは思えないほど、二人は違っている。監視が付こうが何だろうが、二十四歳の坡州女とは今後も秘事を続けていく積りだし、そうまで思わせる女の艶があった。
(しかし。)
ふっ、と零揮甕は思考を転換させた。
その堊蹌から聞く所では、懦州に伝わってくる噂以上に、穣界の擾乱ぶりは激しいようである。血で血を洗い、隠謀渦巻き、ひとかどの実力者でも一瞬先は闇である。培梅、壘渋、穂泉煎、尼竺…。州王も、有力豪族も、つまずけばあっという間に滅んでしまう。
「それに比べ、楽界の何と穏やかなことか。」
零揮甕はふと小声を漏らす。
いずれ穣界の野火が、楽界にも飛び火するのでは、と思う。
そしてそう言いながら、
「ふふ。」
と一人、誰もいない都邸の暗い廊下で、笑い声も漏らした。
胸が踊っていた。
乱世が、いずれ懦州にも訪れる?そしたらそこで、私は何か色々出来るのではないか。
この時、勘の良い靄最が零揮甕の顔を見ていたら、その穏やかな表情に似つかわしくない、眼に潜む異様な光に気づいたことだろう。
眞暦1813年2月。
冬の夜に、帝城はいよいよ凍てついてる。
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都州
都州帝城




