大城塞の妓楼にて、御曹司契約す
眞暦1812年7月。台風が近い。
漢翰府城は大雨に包まれていた。
百四十八年前、時の皇弟、女恭が築かせた難攻不落の「楽東都督府」泳州漢翰。その名物である巨大城壁も、闇夜の中、横殴りの豪雨に打たれて地響きの如き音を立てている。
「よし。ハケたな。しかしまあ、脂粉の薫りの良いことったら。高い店は妓女の残り香一つにも金を払う価値がある。」
妓楼の一室。赤黒い椅子に座った瀉法腺はまっすぐ筋の通った鼻をくんくんいわせて、女の匂いを嗅いでいた。
泳州の州都である漢翰は当初、軍事拠点として造られた。だが、設計した郿刹紐が個人邸宅の設計士だったためか、市民に使い勝手の良い街区が城内至る所に整備されており、以後ここでは、商工業も発達した。いまや政治、軍事、経済、産業、様々な機能を有する楽界を代表する大都会となっている。
そして歓楽街もまた、質量とも楽界有数であった。
多額の財貨が流通し、巨大な人口を有する城市であるから、不思議はない。風雨の中でも、傾城ひしめく夜の酒家通りには明かりが灯り、諸兄の放蕩は台風程度では止まぬと見える。
「すーっ。」
瀉法腺は、肺いっぱいに妓女の残した薫香を吸い込むと、傍に座る男へ向き直った。妓女たちが部屋を立った今、男二人だけで話したいことがあるのである。
「諳幟君、さあ公子の力を見せてくれ。君が嫡なんだろう。」
「まあな。」
諳幟と呼ばれた男はニカッ、と笑って、ほおにくっきり皺を刻んだ。
部屋はぐるり、と鎧戸が閉められ、烈風に乗った雨音が激しく、小さく区切られた硝子窓の外は真っ暗である。なお、これは天気のせいでもあるが、漢翰随一の高楼であるから、晴れていても他の灯火は殆ど見えないはずである。
そんな部屋に酔った男が、二人のみ。
二人ともみずみずしい青年で、紅の桃のと派手に艶やかな遊郭の客間にあっても、見劣りしない男ぶりだった。
「間違いない。證州王も老いてるからな。しかし長兄も罪なもんさ。あの人がしっかりしてりゃあ、親父の老け込みもああまでじゃ、無かったろうにね。ま、ま、とにかく順番でいやあ、次男の俺が嫡子になるわな。」
諳幟は奥二重の大きな眼を見開いて少し胸を反らせると、卓上の盃をくいっと呷る。立襟黒絹の袍が身動きの度、行灯の前に光沢を見せた。
そんな諳幟を見る友人の瀉法腺は、頼り甲斐ある奴、とちょっと舌なめずりをする。
彼はと言えば、赤と黄の綾織りの袍を纏い、大きな銀の指輪を光らせ、綺羅めかしい出で立ち、こちらは一目で一大富豪の若旦那と知れる。
「しかし證州の嫡公子が、留学先でこんなに遊んでいていいのかい。」
「妓を落とせねば城は陥せず、妓を修めぬ者は国を治めること能わず。」
瀉法腺は呵々と笑うと、艶のある鬢に指を通し、また軽薄に聞く。
「なるほど、これは金言格言。しかしそうすると、君も先ほどの妓どもに気に入ったのがいたのかい。」
「ま、いたがね。それは、あの妓だよ。」
「待った。当てよう。」
そして銀の指輪をはめた右の中指をトン、と額に当てると、しばらく考えていたが、すぐに思い当たって、
「あれだ。翡翠の簪をさした、月琴の。」
そう言って中指を諳幟の方に向けた。
「泰斗弧。」
「そう。そう。そんな名前だったな。図星だろ。君は、ああいう小造りな妓が好きだよね。」
しかし諳幟は照れるでもなく、そうだね、と肯定し、また豪快にニカッ、と笑う。随分酒が入ってる筈だが、顔は青白いくらいである。
瀉法腺の舌打ちで、行灯の火が揺らめく。
「ちぇっ。つまらんな。堂々としたもんだ。からかい甲斐がない。」
「そこへ行くとなんだ。豪商の御曹司、瀉法腺君。貴殿ほどの美男から先ほどのような話が出るとは、随分と弱腰なんじゃないかい。」
諳幟はもぞもぞと坐り直すと、濃茶の瞳をぴたり、と友人に向け、そのままの声量で言葉を続けた。
「まあ、相手がかの球派醒じゃあ仕方ないか。俺もやりがいがあるってもんよ。」
「しっ。」
さしもの瀉法腺も慌て、口に人差し指を当てて諳幟を制した。
「声が高い。その名はみだりに口に出しなさんな。彼女は泰斗弧とは格が、影響力が段違いだ。他の狙ってる男も並大抵の奴じゃないしな。」
「そうよ、敵は大軍にして強大だ。漢翰のご歴々、高官、武将、大富豪たちだろ。」
「だからよ。声を落としたまえ。こんな若造が狙ってることがバレたら厄介、当家の商売に悪影響あるは必定。。。む?」
と、途端に階下から複数の足音。
そして小鳥の群れがさえずるような嬌声。
中座した妓女たちが、階段を上り、戻ってきたのである。
諳幟はここで、ふっ、と顔付きを変える。奥二重の眼はさらに大きく見開かれ、豪快に笑っていた口は少し口角を上げ、微笑をかたち造った。
そして早口で言う。
(いいか、妓女一人誑かしても泳村勸のじいさんに言やどうにかなる。だがな、借銭だけは頼むぞ。)
諳幟の鋭い目線に内心たじろぎながらも、瀉法腺は友人の肩にぽん、と手を置き、すぐに立ち上がる。
「お二人さん、お待たせしました。瀉法腺さま、そんな、お出迎えは結構ですよ。座っててくださいな。」
先頭で上がってきた大柄な妓女が、瀉法腺を制した。そしてその後ろに花のような妓。
それが、球派醒であった。
諳幟は大柄な妓女を無視するように立ち上がり、背後に隠れるように階段を上がってきた球派醒に話しかける。
「やーはは。球派醒、見事なお色直し。ずいぶんめかしこんできたなあ。俺に惚れたんだろ?」
漢翰で一二を争う美貌は、同時に仮面の如し、球派醒はその冷たい無表情でも知られた。
しかし、證州公子の脳に響くような直線的な言葉が彼女の虚を突いたか、珍しく玉のような眼をいっぱいに開き、びっくりして瞳が濡れたものである。
続けて三人の妓女が階下から姿を現して居並んだ。
その中で一人、背の低い月琴を持った妓が、諳幟と球派醒のやりとりを鋭い目付きで見つめている。
これなん、かの小造りの妓、泰斗弧である。
(ふふ、この公子殿の役者振り、あの程度の博打銭なら、いくらでも肩代わりするわい。)
瀉法腺は、球派醒と泰斗弧を見比べつつ、必死に舌なめずりを我慢した。
彼の耳に、刻々と強くなっていく暴風雨の音は、届いていない。
漢翰の一妓楼に目もあやな妓女たちが揃って、いよいよ長い夜の宴が再開するのである。
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泳州




