幻燈師の眼
「まさかご尊顔を拝せますとは。」
平伏する増屋黄山の禿頭が、黒灰石の床にまぶしい。
苑貞六は目を細めながら、小卓に置いた鳶色の長包みを持ち上げて下に敷いていた一枚の絹布を取り出すと、隣の座席にフワリとかけた。暖かい空気が小さく舞い上がる。と、同時に主人の奇赦が、増屋黄山に手招いた。
「ソンガンも何もあるかいな、黄山殿。剣懦交易で世話になって、御主の姉上と俺は肝胆相照らす仲だ。この真冬にもう、そんな冷たい床におらんで。さあ、こちらの炕にいらっしゃい。」
奇赦は、ぷっくり太った赤ん坊のような手をひらひらさせたあと、苑貞六が絹布をかけた座席を指差した。少し頬を赤く染め、あご下の肉を揺らしながらニコニコ笑っている。
(しかし、この肌ツヤのよさは。。。)
苑貞六はまじまじと我が主、奇赦を眺める。若くて、しかも毎日美味い山海の珍味を金にあかせて食べているのだ。肌ツヤが良いのは当然であろう。同い年の自分が痩せて、老けているのと正反対である。
ここは、捻州掖市の龍鱗邸。
(そう。若くして渤因貿易の巨利を得て啻万麓一の豪商となり、美獣公の目に止まって、今や因州の第三大臣、龍鱗におさまってしまった。まだ齢は二十四ぞ。それが。。。)
「そんな。姉・両譚とのカンタンはどうでもよろしゅうございます。奇赦様は今や『穣北龍鱗』ですぞ。それを炕にご同席するなど、いけませんて。」
「いいーから。来い来い。」
奇赦がチラッとこちらを見ると同時に、苑貞六は立ち上がって、跪く増屋黄山にささっと近寄ると、その右腕をとる。
「あっ。貞六様。いけません、貴方まで。あ、イテテ。立場っつうもんがあります。」
「まあ、本当に寒いですから。この部屋で、客人に風邪をひかせては主人が笑われます。『穣北龍鱗』が畏れ多いなら、『掖市の幻燈師』の方で、呼んだらどうでしょう。」
そう言いながらも、増屋黄山の手をぐいぐいと引く。
「そうだ、そう。どうせアダ名で呼ぶなら『掖市の幻燈師』にしてくれ。肩肘張った看板じゃあ、売れるもんも売れんわい。」
奇赦は、対面の炕の効いた絹布敷きの座席に据え付けられた黄山を見て、あご下の肉をふるわせた。
(。。それが、奇赦様は最早ただの因州龍鱗ではない。捻・秦、更に闔州まで。実質的には、穣河以北の内政をすべて監視下に置く『穣北龍鱗』に成り上がってしまったのだ。)
にこにこと福々しく笑う奇赦は、本当に心の底から楽しんでいるように見え、その目に余計な光は感じ取れない。
だが、彼の実績は純粋な人物ではとても成し得ぬものであり、闇で強欲な活動を無数に行わねばこのような立場には就けない。側近である苑貞六は、幾つかの現場を自身の目でちゃんと見ていた。
「さて、インチキなこの幻燈師からすると、貴殿の本宅が心配でならん。その後、和春梅の港は息をしてるのかい?」
内容とは裏腹に、奇赦は明るく聞く。
苑貞六は、主人が瀕死の恩人への援助を急に引き上げたり、商売敵の首領をその家族から崩壊させたり、州王府内で意に沿わぬ官僚を失脚に追い込んだりするのを目撃したし、一緒に実働もしてきた。しかしその如何なる場面でも、奇赦の笑顔は、まったく屈託がなかった。その目は本当に笑っていて、好青年の爽やかな笑顔に間違いないのである。
「南にいる貴殿の旧友は、当然恨み心頭に達した訳だ。だから随分ひどくやられた、と聞いてるぞ。」
奇赦は破顔しながら、その耳障りのよい良く通る声で、増屋黄山に問う。苑貞六は鳶色の長包みをチラッと見、その中に入っている陸島海の地図を広げようか迷ったが、止めた。奇赦はこの後、結構予定が入っていた。
「おっしゃる通り、黒蛇の水軍の攻撃は苛烈に過ぎ、わが和春梅の港湾設備は大損害を受けましたが、もう五割方復旧しています。その一方で、因渤両家の援助のおかげで我が軍勢も倍加してましたので、彼奴等の打撃も相当なものでした。戦死は我が軍三〇〇に対し、出矛軍五〇〇は下らず、海に沈んだ不明者をあわせると一千は超えたでしょう。本当にありがとうございました。」
「しかし戦さは、九月だったろう。水秀め、そろそろまた差し向けてくるだろう。何だっけ、督条又吾だったか、水軍の総督は。」
「左様。あれが、また強くてですね。とにかく、蔵水秀にも面子がありますし、そもそも蛇と言われる程のしつこい男、早々にまたあの幡霞船『鉄鮫』に督条又吾を載せて、艦隊を派遣するでしょう。。。」
増屋黄山はつい、ため息を漏らした。和春梅での海戦を思い出したのだろう。苑貞六も、帰還した大渤軍からかなりの激戦だったと聞いており、和春梅の者にとっては嫌な記憶の筈である。なおこの戦においては、因州美家は物資を、大渤帝国は軍事力を、それぞれ援助している。
黄山の表情を見て取って、奇赦が言葉を継ぐ。
「渤因も援助は惜しまんが、『燕』も白州のことを気にかけているだろう?」
黄山が弾かれるように顔を上げた。
「ご明察です。そう、あの女海商は大したもんです。商売は黒蛇よりうまくいっている由。強力な水軍も編成しております。ただ」
また、すぐ黄山の顔が曇る。
「彼女の金蔓である霖生綿鎮が、懦州の内乱にさらされ、危機にあるようです。」
「ふむう。懦州王靄押越は無策だからな。これからどんどん乱れるぞ、あそこは。」
ここで黄山はすがるような目つきをして、声を大きくした。
「ただまあ、『朱燕』だけでなく、われらには奇赦様がおられます。有事の際はまた、何卒またお助け下さいませ。姉、両譚もくれぐれも宜しく、と申しておりました。」
「そりゃ、言われんでもその積りだ。」
「ありがとうございます。当然、剣懦両州への海運は更なる努力をさせて頂きます。」
「何でも言うてくれ。まあ、ケチなワシがこう言うのもな、実はこの掖市の成功があってこそだがな。」
増屋黄山が、その禿頭を光らせる。
「左様。私が参ります度にこの掖市の大城塞は、繁華になります。まさに目を疑うばかり、恐れながら既に啻万麓を超えたのでは。」
「黄山殿。さすがにお口が過ぎようぞ。」
苑貞六は思わず口を出したが、
「貞六、構わぬ。」
と、奇赦の笑顔はいよいよ弾ける。
「『獣下龍眼』が怖いのだろ?」
「い。いえ。そうではございませぬが。」
黄山が狡そうな笑みを浮かべる。
「苑貞六様が、嚇凛婆を恐れるのは仕方ありませぬ。私などは遠くからお見かけしただけですが、その威圧感が何というかこう、伝わって来て体が硬直しましたよ。」
「あのな。啻万麓に全てを集中させてはならん。」
奇赦が少し真顔になった。それでも左の口角は少し上がって、にこやかなままだが。
黒灰色の床に、奇赦のゆっくりした言葉が流れる。
「美家の本領は因州、そして妹君がおられる秦州である。そして穣界の経済においては、穣門がその中心である。しかし、穣門は戦火に巻き込まれやすい。また既に美獣公の版図は闔州や捻州に広がっている。」
さすれば、と息を継ぎ、
「主戦場から遠く、現在の領国で有意義な立地。それがどこかを考えた結果が、この掖市だったわけだ。」
と、得意げに言う。
苑貞六も同感ではある。
先ほど嚇凛への恐怖を否定したが、あれはもし主君が『獣下龍眼』に睨まれたら、という心配から出た言葉に過ぎない。
「秦、庇、坡、闔州といった穣河中流域はいまや戦乱の巷、我が美獣公と『褐剣髯』塊協半が日夜せめぎ合っておりますが、掖市はこの主戦場からかなり遠く、まず戦火は飛んで来ませぬ。北方の葬州や原方と戦争が勃発すれば危のうございますが、現在その方面には目立った勢力は無く、葬州東部の美家領も統治は安定しており、心配無用。商家が安心して営業できる平和と治安が、掖市にはあります。」
ここで、俺にしゃべらせろ、とばかり奇赦が肥満した体を前のめりにして来る。
「そして。穣河以北に拡大した美家版図のほぼ中間に位置しており、領内からの連携が至便。かつ因・捻両州をつなぐ地峡、因捻回廊はこれ、穣河に並行して走る陸運の要路だ。古来より、原方と穣北各地の結節地である。」
「掖市は、もともと因捻回廊の中でも大邑でございましたな。」
「そうそう。まあ、実は、城域を更に拡張する予定だがな。今城内にある市場を増築郭内に移す計画だ。」
「ほ。」
増屋黄山の顔が紅潮した。
「それはそれは。白州から薬材その他、また剣懦からの物資も、新市場に持ち込みましょう。従前に倍して。」
「黄山殿」
苑貞六は渋面で、黄山と主君を代わる代わる睨みながら、
「このこと、他言無用ですぞ。」
と念を押すと、
「貞六。良い良い。黄山殿も適度に口が堅い。」
奇赦が増屋黄山に左目をつぶって見せた。
「はは。適度に、でござるな。左様、私の口には錠が下りてござれば。」
「その鍵は何カ所にお預けで?」
皮肉を言う苑貞六の表情も、少し緩んだ。
「いや、貞六様。これは意地の悪い。さてさて、『掖市の幻燈師』様、この後は予定がおありでしょう。これ以上の長居はご迷惑、ハゲ坊主はこの辺で消えましょうぞ。」
「ふふ。気を遣う。この後どうせ、寥林に寄るのだろう。妃轢微来晏によろしく言っておいてくれ。」
そしてまた、左目をつぶってみせた。
二八四年程前、時の因州王美柳は、はるか漠方の都市国家、虞倶霊の王子が投獄された際、喇葉を使ってその牢獄に決起の書簡を投げ込ませた。
このように因州は、大渤だけでなく、諸方との交流が伝統的に盛んなのである。
(奇赦様は、諸方の力を大きく取り込んで掖市を繁栄させようとしている。この考えは、因州至上主義の嚇凛婆とはまさに正反対。しかし、なればこそ奇赦様は良く婆さんを説得したものだ。)
「貞六。黄山殿を丁重にお送りせよ。黄山殿、いずれまた和春梅に遊びに行くよ。増屋両譚殿にも良く伝えておいてくれ。」
苑貞六は頷きながら、この多忙の中、主人が白州に行くのは無理だろうと、咄嗟に思った。
しかし、奇赦と目が合って、その瞳は鏡のごとく、まったく噓偽りの色が浮かんでない為、この人はもしかしたら本当に海を渡るかもしれない、と考え直すとともに、空恐ろしくなった。
いまだ頭の中がまとまらぬまま、苑貞六は黒灰色の床を滑るように歩き、増屋黄山を引き具して部屋を出た。恐らく奇赦は二人の背中を見つめながら、他意のない笑みを浮かべて、心の底で様々な商機に、思いを巡らせているのであろう。
眞暦1811年12月。
すでにこの頃、掖市の大城邑は未曾有の活況を呈していた。そして、それは因州王美獣の加速度的な増勢に直結するのである。
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捻州
白州
陸島海




