銀眼
「坊っちゃま。」
夜。
州王府の執務房は燭燈が少なく、そこここに闇が落ち、陰鬱な石床の上を静かな老婆の声が滑っていく。
監公淵は、さすが現役の武将である。直立不動で闔州王閥養の脇に侍し、「正方野将」と称されるその広い肩幅は見る者を圧する。
しかし。
「家祖である閥敏公は何と呼ばれておいででしたか。」
戦場では万夫不当の猛将である監公淵をもってしても、この老婆が怖くて仕方が無い。
監公淵の立つ位置から、閥養に正対してチンマリと椅子に座る老婆の顔が、燭燈に照らされて浮かびあがって見えた。
老婆の姓は鬥、名は践。
閥家の家宰の顔はどんな顔なのか。
否、顔というより、その右眼である。どうしても監公淵の視界に入ってくるのは、その白銀の瞳であった。
見るまいとしても、吸い込まれるように見入ってしまう。黒目がなく、ただ銀色に光る鬥践の右眼。その目を見れば、怯えが全身を支配する。
別名「銀眼麗媼」。
闔州州都であるこの閥街において、いや、全穣界において、その銀眼はあまりに名高い。齢六十九。若い頃はかなりの美女だったと言われ、今もすっきり通った鼻と紅い唇から、かくやと思わせる。だからこそだろう、銀色の瞳が余計に目立つ。
しかし。多くの者が彼女を畏怖するが、それはこの風貌だけではない。冷徹なる頭脳をこそ、より恐れるのである。
「それは、こ… 」
「『闔州堅牢王』。ですわね。」
形無しなのは闔州王閥養である。
彼もすでに四十歳で、覇気が有り、王として脂も乗り切っている。だが鬥践にとっては、そんな州王だって、いつまでも「坊っちゃま」に違いない。銀眼の老家宰は穏やかに、しかし力強く州王の言葉を遮って話を続けた。
「あの爛鬼相克の時代、我が閥家の牙城であるこの閥街は、一度も落ちなかった。泰虎も、塔藩籍も、大誡帝国も、そして女爛までも滅んでいったのに。何故か。閥敏公が貝のようにこの城壁から出なかったですわ。。。ね。」
鬥践が白く輝く右眼で、少しうつむいている閥養の顔を下から覗き込む。声こそ出さなかったが、闔州王閥養は肩を躍らせ、ひどく驚いたようだ。
(それは。。。そうだろう。)
監公淵は閥養に同情した。
「闔州堅牢王」として誡末姚初を乗り切り、州王の座をせしめた自家の始祖のことを知らぬはずがない。「またその話か」と、思わず下を向いた所を、生き物とは思えない無機質な右眼で睨め上げてきたのだ。
「ぬ。そうだ。だから『堅牢王』なのだな、当然知っておるよ。婆や。」
三百年昔のことながら昨日のことのように語られる。それも事あるごとに。それほど重要なことなのだが、厭きもする。
監公淵は、始祖の閥敏が好きではなかった。乱世の最中、八年間ひたすら自城に潜んで、周囲の動乱を座視し、誰の苦境も助けず、我が身を守る。武人である監公淵にとっては、ただの狡い保身家にしか思えない。
(それに比べて息子の閥飛公の果断はどうだ。あの果敢な出師こそ閥家の誇るべき見事な事蹟ではないか。また好敵手である塔藩籍もそうだ。滅びたものの、創造性といい、その大なる野望に漢気をこそ感じる。)
では。
眼前の現州王、閥養はどうであろう。狡猾か、勇猛か、はたまた野望家か。監公淵は、背丈と同じくらい幅のある肩をさらにイカらせる。これまでの闔州王閥養の実績に頭を巡らせる。
(弟の閥野翫殿は、果断にして野心に満ちているが。閥養様は。。。)
「それが分かっていれば迷いはない筈ですよ、坊っちゃま。野翫氏が当家にまだ残っていたとしても、無理。」
監公淵の思考に横から串刺すがごとく、ゆっくりと鬥践が断定した。
「婆や。今、この穣界の地図は美獣と塊協半の二人に染め分けられつつある。閥敏公以来の伝統を誇る我が闔州王閥家も、存在感を示さねばならない。」
「第三極を目指す、というのでしょ。」
「そうだ。」
監公淵は思考を持ち直す。
閥養は、虫州総督である実弟の閥野翫に独立され、また妖天に騙されて上洛に手を貸した。決して暗愚ではないが、諸事対応に甘さがあった。
鬥践としてはそんな閥養を見限っているのだろう。
ジジッ、という燭燈の音とともに、州王と老婆の影が微かに揺らぐ。執務房の闇だまりはいよいよ深く黒い。
そして、伏し目がちな鬥践の銀眼が、ぐりっ、と大きく動き、閥養の顔をとらえた。
「美獣も塊協半も英雄。我が家が出て行って、勝てる相手ではない。」
思わず監公淵は、閥養の顔を盗み見た。
その表情は、冷静そのものだった。
だが、監公淵は気付いた。州王の拳が、青筋が浮く程強く握られていた。閥養は何も言わない。いや、何も言えないのだろう。鬥践の直言で大きな衝撃を受け、動けないでいるのだろう。
(我慢強くてらっしゃる。だが、狡猾でなく、果断でなく、野心もない。平時の州王ならば、名君と言われたかもしれない。)
では失礼します、と言い、鬥践は傍の杖を取って立ち上がった。
監公淵は敬礼を送る。それに対して、鬥践はゾッとするような笑顔を向け、室内の照明が乏しいにも限らず、右の銀眼がギラリと光った。気のせいかひどく眩しく、思わず顔を背ける。再び視線を戻した時、彼女はもう、少し曲がった背中を揺らしながら、房を出て行くところだった。
「鬼媼め。。。 」
閥養が呟き、監公淵は思わずその方を見た。止める間はなかった。恐らく銀眼麗媼に聞こえたが、彼女は振り返らず退室していった。
眞暦1810年5月。
因州王美獣と坡州王塊協半によって、穣界の勢力地図が刻々と整理されている頃の話である。
****************************
闔州西部




