秘室接触
「御参府ぅ!きく… う、ぐ。」
「黙ってっ。名を言わないで。」
外套の雪を払おうとした女は、背伸びして衛士の口を手で覆った。
彼女の切れ長の目が、鋭い。
「州王殿の所在は。」
いきなり口を封じられた衛士は、女が手を離したあとでも、まだ目をパチクリさせながら、
「王秘室におられると思います。」
と顔を赤くしている。
「分かったわ。いきなり口をふさいで、ごめんなさい。お許し下さいね。」
きめの細かい白い頰をふっ、と緩めて笑うと、衛士はいよいよ顔を赤らめる。
彼女の姓は掬、名は巴且。
捻州龍牙代の地位にある。
眞暦1809年2月、州都・拵粛の龍牙府にて州軍の雪中調練を監督したあと、群青の鎧に黒の外套をまとい、州王府の正面玄関に駆けつけたところである。
齢いまだ二十六。
州王府の要職にしてはひどく若い。そして、絹のようにきめ細かく白い肌、精緻な小彫刻の如き顔、小柄でほっそりした体、いずれも軍部の次官にしては華奢に過ぎる。
だが戦場における颯爽とした群青の鎧姿はすでに有名であり、彼女の所領名を冠した「托賈彗令嬢」という異名は原方にまで鳴り響いている。
口を抑えられた衛士の頭に血がのぼるのも無理はない。掬巴且は捻州の男たちの憧れであった。
(しかし)
後ろに束ねた真っ直ぐな黒髪を、ふわさ、と揺らして雪を落とすと、愁眉を曇らせる。
(いくら私に聞かれたからといって、衛士風情が州王の居場所を漏らすのはどうか。)
掬巴且には、色々な意味で気に入らない。
カツカツ、と革靴を鳴らしながら、砂岩の廊下を行く。
何の装飾もない空疎な空間である。捻州は山岳や砂漠に囲まれた北国で物成りが悪く、他州に比べると生産力が低い。だがその一方で穣河以北における交通の要地でもあったから、商業はそこそこ盛んではあった。
(すべて州王の無能に帰するのよ。)
今、捻州は国難にぶちあたり、諸臣は必死の対応が必要だが、こんな殺風景な州王府庁で仕事をしていたら、戦意が喪失してしまうだろう。
薄汚れた茶灰色の廊下の向こう、「州王秘室」が見えてきた。同時に掬巴且は、荒々しく鳴らしていた靴音を抑える。
掬巴且は、捻州王必黄站の情婦と思われていた。
先ほどの衛士は、その意識もあって必黄站の居場所を教えたのだ。顔を赤らめたのは、二人の秘事を夢想していたからかもしれない。
情婦ではない。
が、手篭めにされ、関係を持ったことがあるのも、事実である。
(州王秘室か。王邸じゃないだけましだけど。私が来るのを読んで、秘室に篭ったのね。調練の日程は前から決まっていたし。)
とすれば、先ほど衛士の口をふさいだのも、意味のないことであった。州王秘室は王府における州王の執務室だが、金堂のような議場とは異なって数人入ったら一杯になる小さな部屋であり、密室と言っていい。
州王秘室の扉前、二人の衛士が黙礼する。掬巴且がそれに応じると同時に、彼女の顔一杯に広がっていた憂いの表情がさっ、と消え、かわりに鉄仮面の如き無表情に様変わりした。
「掬巴且、入ります」
部屋に入ると同時に、がたっ、と音がする。
執務机の必黄站が立ち上がったのだ。
「おお。相変わらず。。。 」
と、にやけながら、執務机をまわりこんで駆け寄る必黄站の言葉にかぶせるように、
「塊協半も断ってきたとはまことで?どうするんですか。异粽も閥野翫も拒否されましたよね。」
一気に言う。
膝や脛などあちこちを机や調度にぶつけて近寄ってきたが、掬巴且のキリをもみこむような言に少したじろいで、一度立ち止まった。
捻州王・必黄站。
齢五十九。
皺のよった顔はくすみ、目の下のクマが青黒く、にやけた口元からのぞく並びの悪い歯は所々黄色い。がに股で立ち尽くす姿は、高貴な絹の袍に包まれてなければ、とても州王と思えぬ風体だ。
捻州においては、必黄站の家より掬巴且の家の方が古く、格式も高い。たまたま3代前に必家が州王に就いたものの、掬家は托賈彗を領して独立的な地位がある。
とはいえ、州王の個人的な嗜好は家柄など関係ない。
彼のしょぼついた目は、よく見れば血走っていて、掬巴且への好色をむき出しにしている。
「大丈夫じゃ。异粽に再度救援依頼しとる。あやつにとって大渤の西進は困る筈。茉皎はじめ原方南部がまた、妃轢家に呑み込まれるのはいやじゃろ。」
「それより」
再び歩み寄ってきた必黄站を、睨み据える。顔に州王の息がかかる。
「渤因総じて二十万、秦州の妹が加われば二十五万にもなります。塊協半が取り込めればともかく、茉皎の异粽が来援する訳がないですわ。」
「ふふ。さすが『托賈彗令嬢』。怒ると余計美しいのう。」
掬巴且は眉間にしわを寄せ、無表情を崩していたが、それは州王のむっとした体臭に顔をしかめたためである。
必黄站はシミだらけの右手を伸ばしてくる。避けたかったが掬巴且は耐えた。左耳の後ろの髪に指を差し入れられる。身体中に鳥肌が立ったが、身じろぎ一つしなかった。
「美獣に哀願の使者を送られたそうですね。せいぜいそこにしか望みはありますまいっ。」
州王の右手をつかんで、自分の頭から外すと、足音荒く退室した。
背後から、粘りつく視線を感じながら。
そして、廊下の外の二人の衛士の探るような目にも、州王と同じような好色な関心を認めながら。
殺風景な砂岩の廊下に、我慢できず震えた。それは、冬の寒さだけではないだろう。
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捻州




