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間礫原独白


 広大な風景に男が一人、立つ。


 場所は、(こう)閔峡(びんきょう)盆地の間礫原(かんれきげん)

 穣河(じょうが)の支流、間番川(かんばんせん)の氾濫原である。見渡す限り無数の礫石が広がる、石野原だ。まばらに生える秋の枯れ草が、風にそよいでいる。

 はるか向こうに、冬毛に抜け替わりつつある貂の親子が、こちらを警戒しながら歩いている。秋晴れの空には、雁が五羽、斜めの隊列を作って風に負けまいと飛んでいる。


 男はといえば。

 背が低く、全体に丸い。恰幅良く、豊富に肉がつき、一目で見て、球形なのだ。太く硬い毛質の眉毛の下で、一重ながら大きな目をギョロリと動かし、睥睨する。

 しかし何より、顔の両側面に生える(ひげ)が異様だった。

 褐色のその髯は剣の如く直線的で、硬く、風が吹くたびにジャラジャラ音を立てているのである。光沢があり、秋の陽を跳ね返して煌めいている。


「この髯も一気に有名になったんですぜ。」


 誰かに話しかけるようにその男  ― 塊協半(かいきょうはん) ―  は、つぶやいた。得意気に、もともと幅広の鼻を更に膨らませている。その髯のせいで仲間内で呼ばれていた「褐剣髯(かっけんぜん)」というアダ名は、眞暦(しんれき)1808年11月現在、穣界中に知れ渡っていた。


 驚愕と恐怖と羨望の名として。


 貂と雁のほか、生き物の影がない河原に、塊協半はただ一人立つ。ひんやりした秋の風に吹かれ、小さく独り言を言いながら。


「 ― 後閔(こうびん)帝よ。 ― 」


 という言葉が、辛うじて聞こえた。



 世に言う間礫原の戦いが行われたのは、眞暦1530年5月。


 今から二百八十年ほど前になる。


 ここで行われた会戦で、後閔皇帝・塔藩籍(とうはんせき)虞倶霊(ググレイ)王・林寓(リング―)Ⅲ世に滅ぼされた。思えば壘洗(るいせん)将軍の末裔・壘渋(るいじゅう)を滅ぼしたのが一年ちょっと前だ。


(因縁めいてるな。)


 塊協半の頭には、「野望第一」と言われた塔藩籍の伝記が入っている。


(そもそも、女爛(じょらん)がぐずぐずしていたのが悪い。後閔と後誡(こうかい)という味方があり、父と弟を衛霊(えいれい)山脈の一角に閉じ込めながらな。

 1529年に漠方(ばくほう)の砂塵が乱れ舞い、(いん)州王美柳(びりゅう)の手引きに乗った林寓Ⅲ世が決起する。

 明けて三月に後閔帝は突如、闔州公子・閥飛(ばっぴ)閔口(びんこう)を襲われ、四月、毘覇(ビハ)我是璢(ガゼル)を犯した虞倶霊王林寓Ⅲ世にも、攻め込まれる。五月、ここ間礫原に忽然と現れた虞倶霊軍にまず壘洗将軍が当たり、善戦虚しく討たれた直後、後閔帝が駆けつけたがこれ機を逸すなり。帝の禁軍は新手とはならず、虞倶霊にとってはただ各個撃破するのみだった。

(あと二時間、いや一時間早く到着すれば、壘洗と挟撃できたであろうに。)


 幾度も頭の中で思い描いてきた、眞暦1530年の戦史。


(後閔帝は、礫石の上で斬り刻まれ、間礫原の露と消えられた。)


 その後、無人の野を行くが如く、虞倶霊は中原を行軍し、九月、附類(ふるい)平原になだれ込む。そして山を降りた太祖父子、女樊(じょはん)女鬼(じょき)と合流して、女爛の剣国勢を海峡の向こうへ追いやった。

 そう思うと後閔の滅亡は、大(とう)帝国の成立に直結している。



 そんな風にこの古戦場で塊協半が思い巡らすのは、今日が初めてではない。

 

 今回が三度目である。


 だが前と今では立場が雲泥の差だ。

 最初来たのは十五歳の時。「とりあえず闔州に行ってみたい」と思って、間番川の堤防造営の人工徴収に応募した。真冬の現場作業で過酷な労働だったが、間礫原での工事もあり、ここで初めて古戦場の故事に触れた。

 次は1805年の5月、二十一歳の時。三年前である。この頃は不定期で坡州王軍の傭兵に応じていた時期だが、仕事のない時期に、明確に目的を持って間礫原を再訪した。郷土である坡州の英雄、後閔帝最期の地を改めて視察したかったのだ。戦いのあった五月に来たのも意図してのことである。塊協半は後閔帝の伝記を読み漁り、すでに十分な知識を持っていた。そして「俺もいつか名を成したい」という根底にある思いが、彼を間礫原へと向かわせたのだろう。


 そして現在。

 かつて後閔の本貫地だった閔峡盆地をわずか三ヶ月で制圧した塊協半は、坡州中・東部と合わせ、州王と同格の版図を持つ一方の雄にのし上がった。いまや斐界(ひかい)中の話題をさらう風雲児だ。

 今回ここに来たのは、雇われ人夫としてではなく、旅行でもない。この間礫原が自分の領土になったのである。



「後閔帝。」


 一重の大きな目で、ギョロリと茫漠とした石野原を見渡す。だいぶ日も傾き、貂も雁も、もういない。

 塊協半は再び、地下に眠る英雄に向けてつぶやいた。


「俺の仕事は、まだまだこんなもんじゃねえ。冥界より、よっくご覧下されよ。」


 夕方の秋風が吹きさらす間礫原は肌寒さを増していたが、塊協半の息は反比例するように熱くなっていった。



――――――――――――――――――――――――――――



 眞暦1852年、(そう)州において当代歴史叙述に執念を燃やした葷史罫(くんしけい)の『獣髯記(じゅうぜんき)』が発表され、巷間で大いに流行した。この軍記物には当場面も描かれており、ここに一部抜粋する。


................................................................



 褐剣髯、秋風に自慢の髯をジャンラジャンラと鳴らし、間礫原を一人闊歩す。禽獣猛禽の類い皆、その音を恐れ、逃げ散り、礫石の狭間に姿を隠す。


 褐剣髯立ち止まり、大音声で宣言す。


「間礫原の亡者よ。聞き給え。閔峡はこの褐剣髯が版図になりけり。貴殿等の無念、我れが果たす覇業を見て霧消するに違いなし、さすれば成仏なされよ。」


 ふと、思い至ることありて、手をポン、と打ち、


「壘洗将軍。一言言上すべき事あり、地下におらば聞け。将軍の末裔、壘渋嫗を我れ、滅殺せり。なれどこれ、わが覇道に転がる一個の石、蹴飛ばし進むは兵家の宿命とて致し方無きこと、何卒赦し給え。」


 と宣言、後閔の勇将が霊魂に向けて、威風堂々たる態度に見ゆる。流石は、坡東、坡中に加えて、閔峡盆地を瞬く間に征服しつる一方の雄なり。


 褐剣髯、居ずまいを正し、新たに言う。


「後閔帝もおらば聞かれよ。我が褐色の髯、今既に巷間を騒がすも、まだ不足。穣界が、いやさ斐界すべてが褐剣髯を知り、知るだけなく、我が威に服すまで、我進まん。帝の野望を我が果たさん。」


 秋の日傾く間礫原に、なお褐剣髯は残り、かつて敗残せる亡者たちと交信す。






************************





闔州西部


挿絵(By みてみん)



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