惨落の果てに微笑す
「痛い、痛い。太上さま、痛うございます。」
砂赦袿の声は苦痛には違いないが、先帝にはその玉の転がるような若々しい声が堪らないらしく、嗜虐的な笑みを浮かべている。長く続く石廊の冷たい光沢の中、不気味に見えた。
「ふ。痛いか。」
先帝女硯は、すっ、と手を離すと赤くなった砂赦袿の手首にふうふう、と息をかけて、さすった。
「太上様。もう、ここは金堂じゃないですか。私は房室に戻ります。」
そう言うと、また嗜虐的な目をして手首をつかみ、嫌がる砂赦袿を引っ張って前に進んでいく。確か齢五十五、僭越ながら御龍顔にも皺が幾重に刻まれているが、彼女の白磁の如き手を引く力は年齢を感じさせぬ強さであった。
無表情な衛士が州王金堂の重い扉を開ける。
そこには妖州王府の百官が、ずらりと並んでいた。
眞暦1805年11月の妖州媼疑城。
女硯は百官の迎える中、若い妾の手を引いて表情一つ変えずに歩いていく。そして最奥の準玉座に、さっと座り、隣に並ぶ一回り小さい瀟洒な椅子に投げ込むように、砂赦袿を座らせた。砂赦袿は百官に向き合うことになる。堂中の視線が痛い。
だが顔を赧くしてる暇もなく、妖州王媼蠱がつつ、と前に進み出た。
前帝・女硯を拝跪すると、ばっ、と破顔した。
「我が妖天が、天下を獲ってしまいました!」
張りのある声が州王金堂に響く。
砂赦袿が言うのもおかしいが、若い。確かこの妖州王、齢二十六。妖州王媼家の初代は「霧言暇士」と言われた稀代の謀士にして、大姚帝国建国の功臣、媼疑その人であるが、この州王は既にその再来と囁かれる。
媼疑のような呆けた振る舞いはなかったが、大らかで、人を食ったような所が相似していると言われていた。
若き妖州王媼蠱、廟中の耳目を一身に集め、前の皇帝陛下に言葉を続ける。
「いや、騙されました!しかし、さっさと玉睨に就いちまうとは。ま、あれは見せ掛けですけどね。奴は所詮、あぶれ者。見せ掛けの天下でございます。」
しかし、その遊び人を天下に放ったのは、他ならぬこの媼蠱ではないか。その風来坊らの奸計の深さ、欲心の強さ、何より奴らの力を、妖州王が見誤って、とんでもない輩に翼を与えてしまったんじゃないか。そう思って厳しく媼蠱を見つめたが、砂赦袿のような小娘が睨んだところで州王はなんとも思っていまい。
だが一方で、数カ月前の自分の身分を思えば、州王に睨みを利かすなど、こんな大それた気持ちを持つなぞ、それこそとんでもないことだ。砂赦袿はもう少し慎もう、と気を持ち直した。
反応のない女硯に構わず、媼蠱は続ける。
「軍事も内政も脆弱。龍牙の動員力も今上帝より減っていますし、直轄領からの歳入も大きく減少しましょう。あれは、詐欺師のように、帝城を乗っ取っただけでございます。」
詐欺師、という言葉に百官は笑った。妖天を知ってる者は多く、みな嘲笑した。だがその笑いに、砂赦袿は嫉妬の匂いを感じた。
妖州随一の魅力を持つ女、妖苺の兄であり、その妹は州王の後宮で寵愛を受けている。妖天自身も容姿に恵まれ、そして一たび謀略を巡らしたら、天下を騙し獲ってしまった。州王府で、地道に立身出世をはかってきた連中からすれば、一気に天下人になった遊び人なぞ、認めたくない存在だろう。
チラと、右を見た。女硯も、笑っていた。
だが、もっと深くて陰鬱な笑みであった。
砂赦袿にぞーっと、鳥肌が立つ。百官たちのような、下卑た浅い笑いではない。ともすれば無表情に見えるが、よく注意すると笑っているのだった。目も口も、笑っている。そして、そこに悲しみや恨みが宿っている、と直感した。さすがの媼蠱も感じ取って、少し口の端をひくつかせている。
砂赦袿も腹の底のほうがヒクついたように感じながら、女硯の方をなるべく見ないようにし、ひたすら恐怖の時間が過ぎ去るのを待っていた。
妖州王府大金堂ではしばらくの間、その冷たい石床の上に浅い笑い声が這うように流れていた。
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妖州




