水都幽柱
「はい、どうも。」
稲彭は、一枚の紙札を見せて船からおりる。船頭がごま塩頭の下でにっこり笑い、岸から離れて、再び運河を滑るように漕いで行った。
建物の間を縫うようにのびる水路が、差し込む夕日に染まり、そこに小舟が浮かぶ様は、一幅の風景画のようだった。
稲彭の持つ紙札には『深戒水過券』と書いてあった。深戒の街に張り巡らされた運河を、船で乗り放題の券だ。深戒の物見遊山での定番品である。
眞暦1800年9月。泳州深戒に、稲彭は降り立った。
乱れた秦州での州府勤めは繁忙を極め、疲弊した彼女は長期の休みを取って、一人旅に出た。穣界の治安は酷いが、府庁職員として手を回し、道中は無事だった。懦州に入ってからはそんな事前準備も不要、普通の旅人としての用心を怠らなければ危険は無い。
そして、楽界有数の繁華街を持つ、深戒に着いた。
(この街で、そんな凄惨な事件があったなんてねえ。)
淀んだ水の臭気さえ気にしなければ、風光明媚な美しき水の都である。
街を縫う無数の水路。石造りの護岸。大小の石橋には何れも、彫刻が施されている。運河に沿って街燈が並び、夜でも歩行者や舟がゆったりと行き来きしている。現に夕暮れ時の今、街燈に火が灯り始め、多くの市民と舟が街に繰り出していた。
本当なら五月あたりが観光には最適なのだが、この季節の楽界はまだ暑い。街ゆく人も皆汗拭きながら歩いている。
だが、奇譚好きの稲彭は敢えて九月に来た。
「あ。あそこだ。」
稲彭が地図を睨みながら、走る。
三十個の赤丸が書き込まれた、深戒の地図だ。その一部の赤丸には、レ点が上書きされている。
水路脇、柳の下に立つ一本の柱に駆け寄った。
息を弾ませながら、そこに彫り込まれた文字に見入る。
『深戒屍月 第十四番 浅倉久鉄暗殺地 一六三二年九月十四日』
稲彭は夢中で地図にレ点を追記し、雑記帳を取り出すと標銘を書き写した。
しかし、ふと気づき、辺りを見回す。
この辺りはオドロオドロしい。気づけばさっきあんなに賑やかだった街が、ぽっかりこの柳の界隈だけ誰もいない。稲彭一人だった。
今日、すでにいくつかの標柱を見つけ、地図に印を付けているが、こんな雰囲気は初めてである。
暗い。
もう日は落ちていた。
水路の対岸には下卑た遊女宿や酒店が灯りを点けて、客引きの声を上げている。
「今日はここまで。残りはまた明日っ。」
急に心細くなり、稲彭は再び走った。
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泳州




