大然学誕生の小機
眞暦1800年2月。都州帝城。
この夜は特に冷えた。
雪が舞い降り、内城九条二罫にある大きな邸宅に着いた贈悦は、背中を丸めて牛車を降りて、小走りに東正門に駆け込んで行く。慌てて、その後ろを従者が同じ格好で着いていく。
「ううう。」
凍えた声が、口から漏れる。
立派な邸で正面玄関まで100mはあり、昼なら目を慰めるだろう、奇岩や亭閣など庭園の見所も、今は省みるべくもない。庭園も主殿も、主の人となりを彷彿とさせるたおやかなもので、洛中でも話題であったが、こんな寒い夜では残念ながら楽しめはしない。
「あ。贈悦様?ここまで車でお越しになれば良ろしかったのに。ああ、当方が正門でお待ちしておるべきでした。」
玄関に出迎えた書生が慌てて、布巾で贈悦の服に付着した粉雪を払った。
「いやいや。大切な庭園を牛車で汚す訳にはいかんよ。それより、どうじゃ。先生の大作はいかがな?」
「ふふっ、贈悦様。それはもう・・。ささ、奥へ、主人が待っております。」
書生は俄かに相好を崩し、取り敢えず雪を払い終わった贈悦と従者を、邸の奥へと誘った。
そこは、何度か来たことのある、ここの女主人の居室だった。
室の中に綴じ本がずらりと並び、それを見るや、贈悦は思わず感嘆の声を上げた。
「おお!これは、ついに書き上がりましたなっ。」
贈悦は、書籍群のただ中にちんまりと座っている女性へ、言葉をかけた。
女性は立ち上がり、にっこりと笑った。
「まあまあ、こちらへ。炕にお座りなさいましな。外は寒かったでしょう。洛中はホントに冷えて、困るわね。」
小柄で少し肉置きのある、そして笑顔の柔らかい、全体に丸い印象の女性。
この人こそ邸の主で、姓は数、名は銃。祭相府の科学部総監、齢は四七と聞く。
一方の贈悦も皇帝近侍の高官だからなかなかの立場だが、数銃の役職は府内で祭相である俊往亀に準じるものだし、何より科学者としての名声は、洛中穣楽、あまねく鳴り響いており、贈悦など足元にも及ばぬ。
しかし屈託ない人で、皆この大学者の優しい空気に、ついつい甘えてしまう。
現に、贈悦は無遠慮に炕に座って、はー、と愉悦の表情を浮かべ、その隣にちょこんと数総監が腰かけた。とてもそこに位階の差が有るようには見えなかった。
「あったかい。冬は炕に限りますな。いや、生き返りました。しかし、ま、数銃様は轍州のご出身ですからな。私なんぞよりもなお、寒さは苦手でございましょう。」
「そうなのよ。もう、降ってるんでしょう?雪。」
「ええ、もう降ってきています。身体がこわ張ってしまって。あ、帝城の愚痴はこれぐらいにしましょう。で、著作は如何ですか。完成ですか。」
贈悦は咳き込むように、室内を見回す。
「先程の御察し通り。完成ですわ。」
数銃の微笑みが、さらに深まった。
「ああ。ついに、やりましたね。いやもう、帝よりも私が楽しみで。」
「どうぞ、お手にとってご覧ください。」
「では、お言葉に甘えて。」
まだ体の芯は冷えたままだったが、贈悦は炕から立ち上がって、傍の一巻をめくり始めた。
「ほうほ。題は『当惑星大観』ですか。おお、ここには当星の恒星系における位置が一日単位で図示されていますな。こちらの巻は斐界の大陸と、海の地図ですな。銀罵蘭国や迎度国までが、これほど詳細に。いや、どの項も精緻です。この『当惑星大観』がありましたら、すべての事象がたちまちに分かってしまいます。これは鉱物の分類と性質。こちらは質量と速度。すごい、これは凄い。」
贈悦は興奮のままに、巻を開け、随時にむむ、と読み耽り、はっとなってまた別の本を手に取るなど、我を失っている。
それを数銃は、にこにこしながら、時折、自家の書生や贈悦の従者などと目配せしながら、眺めていた。
「しかし」
やがて贈悦は、正気に戻った。
「これだけの大部を、本当に良く編まれた。」
ここで数銃の顔から、すい、と笑顔が消えた。
「女硯帝の口利きで、祭相府全体で手伝ってくれたからです。もちろん、俊往亀祭相も、もともと号令をかけてくれていましたが。とても私一人の力ではこの文量の編纂は無理ですわ。」
「確かに帝もお声をかけられましたが、何よりあの府での数銃様の人徳でございましょう。」
祭相の俊往亀は今回何もしていないでしょう?と言う言葉を、贈悦はぐっと呑み込み、続けた。
「この二年程、祭相府にはよく行かせて頂きましたが、どの部署も眞暦一八〇〇紀祭の準備と実行に大わらわでしたし、漂空部なんぞは啄飯道のせいで特に余裕が無かった筈ですが、それでも数総監の事業は第一義に考えていました。みな、府として大変大事にしているんだな、と感じました。」
「ありがたいことです。」
「あの府庁の中で科学部は大変異質です。はっきり申しまして、本来なら冷遇されるところでしょう。なのに、ということです。数銃様には様々なご苦労があったとお察しします。」
「ほほ。」
ここで再び、数銃に笑顔が戻った。
「そんなことはないわ。皆いい人です。部署は分かれても入庁の同期もいるし、互いを認め合ってるから、贈悦様のご心配には及ばなくてよ。ただ。」
笑ってはいるし、声色も柔らかいままだが、珍しく目に険があった。
「斐界には多くの宗教があって、皆何かしらに縋ってるわけですけれど、その選択肢に、この科学があるといいですわね。」
「そうすると、祭相府に居られる意味も出てきます。」
「ふふ。ありがとうございます。」
「さて。」
刻を測って、贈悦は少し慌てながら、数銃を見た。
「もうこんな時間です。長居してすみません。数銃様、急ぎ完成を帝に伝えますが、写しはどれ程出来てますか。同時並行で途中までは作っておられるとは、思うんですが。」
「あ。もう出来てますわよ。ねえ、全部出来たわよね。」
数銃に聞かれた書生が力強くうなづいている。
「ええ?全部御座いますのか。そうですか、編纂しながらきちんと書写まで進めておられたのですね。では、原本の方を明日取りに来させ…」
「もう原本の方は車に積んであります。いまご覧になっていたのが、写しですわ。」
「そうですか、かたじけない。では明朝、人数を呼びます。しかしさすがですね、お仕事の全てが科学的でらっしゃる。」
贈悦の頭を掻く仕草を見て、数銃はころころと笑った。
「総監、あとは御披露目の時期ですね。」
「4月の春皇祭がよろしいでしょう。二ヶ月準備期間をとれますし、ちょうど良いのでは。」
「もう、何から何まで、恐縮です。帝にお伝えいたします。さあて、雪は止んだかな。」
贈悦は帰り仕度を始めた。
『当惑星大観』を粘っこく見つめながら。一巻から一気に読破したい気持ちを、必死に押さえつけながら。
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都州
都州帝城




