貧民窟、炎暑に沈殿す
「おい!それ、返してやれ。」
背中に、誰かが怒声を浴びせてきた。
土哭は、泣きべそをかく西墨区長の息子の襟を左手で掴みあげ、恐喝している所だった。右手には、そいつから巻き上げた、キラキラ光る造形物が握られている。
「ああ?」
振り向くと、若い男が立っていた。
身体が、自分より一回り大きい。
貧しく黄色に汚れた麻の服を着ている。夏の陽が厳しい為か、袖無く、脚も膝下から露わだが、その薄い服を筋肉が盛り上げている。肩、上腕、腿、いずれも太く筋張り、汗にぬれている。
目が合った途端、土哭の脇から汗が噴き出した。大きな二重の眼は食いつきそうに、こちらを睨んでいる。
気圧された。
坡州中部の町、塡保。
非常に貧しい町である。城壁はなく、濠を掘っているがもう何年も水は干上がっている。当然、いつも盗賊に襲われるが、取る物がないので、腹いせに殺される住民がいた。だがそれでも人々は、肩を寄せ合って住んでいる。
汚い家々が取り囲む狭い路地、中空に渡された紐にぶら下がる洗濯物、澱んだ暑熱がくぐもっている。
土哭が立っているのはそんな所だった。
近くの暗がりから、誰かが吼えた。
「おい、にいちゃん。随分と格好いいじゃねえか。」
土哭の兄、土考だった。
ぬっ、と路地にその姿を現す。
黄服の男に劣らぬ隆々とした筋肉に覆われ、背は土考の方がだいぶ高い。兄の歳は土哭の四つ上の十八だが、恐らく黄服の男もそれくらいだろう。
土哭は、ほっとした。
「顔が似てるな。こいつお前の弟か。返すように言ー 」
「他所者め。」
土考が遮り、黄服の男と睨み合う。
「哭。それ貸せ。」
土考の求めに応じて、腕輪を渡す。引っ捕まえている西墨区長の息子は、更に泣いた。兄:土考に巻き上げられたものは永遠に戻ってこないことを、この界隈の子供達は皆知っている。現に、まわりでこの事態を見物している小童たちは、あーあ、という同情と嘲笑の混じった表情をいっせいに浮かべた。
「へへ。いい腕輪だ。しかし、俺には小せえな、売るか。」
ここで、土哭は違和感を感じた。
(これは、いつもの兄者ではない。)
いつもなら、つべこべ言わずに、すぐその丸太のような太い腕で相手を殴っている所だ。それをしないのは、さすがの兄もこの黄服の若者に手を出しかねているのではないか。
黄服は大きな眼で、ただ土考をじっと見ている。かたや俺の細い一重眼は、さぞかし不安げに兄者を見ているだろう、しかし表情を抑えられない。
土考は、泣きじゃくる西墨区長の息子の額を、コンコンと裏拳で叩く。
「にいちゃんよ。このガキの住んでる家見たことあるか?部屋はいくつもあるし、母親も何人もいるしよお、こんな腕環、どうせ俺ら貧民から巻き上げた金で買ってるのに違えねえんだぜ」
言い終わらぬうちに、黄服の男は、ばっと手を出し、土考の手から腕環をむしり取った。
(兄者は負ける。)
この刹那、土哭はそう思った。
一瞬だった。
土考は、キョトンと針のように細い目を一杯に開き、すぐには事態を飲み込めずにいた。
兄・土考はこの辺りじゃ、顔だった。
身体が大きく、膂力も頭抜けて強く、加えて瞬発力も優れていたから、喧嘩で負けた試しがなく、最近は剣も使い始めて、塡保のゴロツキどもも、年下の彼に一目置いていた。
まあ、土哭だって喧嘩で負けたのは、兄の土考くらいしか記憶はないのだが。
兄は、一七八cmある上背を頼みに、顔を赤銅に染めて若者を上から睨めつけた。
刀を抜いた。
「てめえ!」
白刃きらめかせ、土考は斬りかかるが、黄服の若者はすい、と紙一枚の間合いで避けて、帯刀を抜刀、一転激しく打ち込んだ。体勢崩した土考はガラ
あきの背中を襲われるが、くるりと刀を後ろに回して一撃を受け止めた。土考飛び退いて、瞬時に間合いをとると、あとは打ち合うこと数合、撃剣で文字通り火花が散る。灼熱の路地裏に汗が散る。
この頃になると貧民街の路地に野次馬が増えてきたが、小童たちはその激しさに怯え、大人たちは場に合わない見事な戦いぶりに畏れ、とにかく皆遠巻きにしている。
黄服の男はしかし、土考が疲れるのを待っていた。
太刀筋乱れたるを逃さず、少しよろけた一瞬、頭突きを喰らわせたのだ。
硬いもの同士のぶつかったにぶく、大きな衝突音。
土考は倒れた。
自慢の、喧嘩で負け知らずの兄は、黄服の男の足元で、白目をむいていた。黄服の男は、斬ろうと思えば斬れた。なのに、頭突きで済ませた。
土哭は西墨区長の息子を地面に叩きつけ、抜刀する。
「これ、お前の兄貴だろ?」
あれだけの頭突きをしながら、黄服の男はいたって平静だ。刀を柔らかく持って、殺気も無い。
だが、隙も無い。
「止せ。斬りかかったら殺すぞ。お前も、お前の兄もな。」
その冷えた声色に、土哭の足は凍りつき、一歩も踏み出せない。
土哭は、何とか言葉を絞り出す。
「名を教えろ。」
不思議と声は震えていない。せめて自尊心だけは守る、という必死の表れだろう。
「いずれお前に勝つ。俺は土哭、兄は土考だ。」
「うん。俺は、姓は樹、名は冷奠。」
樹冷奠は爽やかに答えた。
ん?
その爽やかさに、土哭は混乱した。
これは?
「お前らは貧しい割に、鍛えていい体をしている。ちゃんと身を立ててこんな貧民窟から出て、心も鍛えれば良い武将になる。」
樹冷奠は土考を助け起こし、土哭の手に預けた。そして腕輪を、泣きじゃくる西墨区長の息子に返し、笑ってその頭を撫でている。
「お坊ちゃん。こういうとこに来るなら、ちゃんと準備しなきゃダメだ。仲間と来るなり、武器を携帯するなり、な。」
正面からその笑顔を見るとひどく幼くて、どうやら自分と大差ない年齢なのが分かった。
眞暦1799年8月。
塡保の貧民窟は、湯の中に沈んでいるが如く、暑気を澱ませていた。
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坡州




