楽門、夏の一日
雷躁白は若干、朦朧としながら、櫂で漕ぎ、荷物で満載になった小舟で南大運河を南下していた。そろそろ正午、陽は中空に達している。
今から百五年前の眞暦1693年、世に言う「楽門夏戦」が行なわれたのも、こんな暑い七月だったと聞く。
巨大な明茶色の巨大水門が視界を塞いでいる。
温暖な懦州の夏空を背負っていて、光沢のない磚で外壁を仕上げてある筈なのに、若い雷躁白には眩しく感じられて仕方がない。
眞暦も1798年となったが、霆特軍の頃も、楽門はこんな佇まいだったのだろうか。
雷躁白は楽門に来るのが好きだった。
賑やかで楽しいのもあるが、やはり大きくて明るいその風景が、好みなのだろう。
翠色の水をかき分け、櫂を繰る両手が少し疲れてきた。好きは好きだが、楽門での仕事はきつい。
「なんだ、ばてたか躁白。まだ若けえだろ。お前、何歳だ?」
「へえ、十七歳になりやす。」
若いが、楽門夏戦のことは、村のじいさんから聞かされて知っている。
百年ほど前、珥州の雄で、現在の珥州王家の祖:聖渦が、後に「渦黒兵」と呼ばれる黒色の死兵により夜襲を仕掛け、楽門特軍:霆君槃が討たれたと。そしてあの高さ五m、幅十mの鋼製の巨大門扉が、内側からの操作で引き揚げられ、漢翰・三籠連合二十八万が雪崩れ込んだ、と。
ただ懦州生まれの雷躁白としては、郷土の英雄、霆特軍の肩を持ちたい。
(楽東都督と三籠公の大軍を十度も撃退したんだ。すげえ人だよ。だいたいがあの帝城餓狼の秘蔵っ子だった訳だし、強くて当然だべ。奇襲するなんて、聖渦はずるい。)
百五年経った今、楽門は平和である。
巨大門扉を全開してぽっかり空いた黒い空洞に、無数の船が吸い込まれ、また吐き出されている。都州帝城から南大運河を南下する船と、海の如き大河である楽河から都を目指して北流せんと入る船。豊かな南国の物資と洛中の夥しい先進的な文物を満載した船が自由に行き交っていた。
「躁白!たった五kmじゃねえか。しかもその内二kmは陸の衆に曳航してもらっただろう、櫂を緩める意味が分からん。」
兄貴分の恍幾がうるさい。
だが、周りの舟中が皆同じような会話をし、運河沿いの大路でも楽門市民やら露天商やら、そこらで荷を引き揚げる輩が喧しくて説教も良く聞こえない。また楽門近辺の運河には、楽河からの流入水で不規則な流れがあって、櫂に余計な力が要る。緩めているのではない。どちらにしても説教を聞いてる場合じゃなかった。
「すんまへーん!」
汗を飛ばしながら、とりあえず元気良く謝っておく。それを聞いて、隣の船の若い女が笑った。
「楽門市民」と言ったが、楽門は斐界有数の商業都市でもあった。
楽河北岸沿い東西に伸びる形で楽門は築かれているが、北側に運河を中心線として、半円形に城市を形成していた。半円の中には明茶甍を葺いた家々が無数に軒を連ねる。
また、これらの都市機能が繁栄しているのは交通拠点としての立地性だけでなく、軍事的な堅固さも要因の一つである。
「楽門夏戦」のような話が残ること自体、そのことを物語っている。
明茶で焼かれた磚を固めて構築した城門は、堅牢壮大。水門をひとたび閉じれば、厚さ五十m、幅二十kmに及ぶ長城に守られたこの地に、楽河からの水軍は一船たりとも運河に入れない。あと、城門には運河を挟んで楽門西城、同東城が配され、これらも個々に堅城として難攻不落を誇っている。穣界程じゃないにしても、楽界にも盗賊はいるのだが、ここ楽門には手出し出来ず、結果として皆安心して商売できている。
すっ、と日が遮られ、涼しくなった。
楽門の影に入ったのだ。水門の中に入ればもっと涼しいのだが、ここへ来て船が渋滞していた。運河の幅は北大運河と同じ五十mだが、この水門の幅は十mなので、水門直前で押すな押すな、と船頭達は舷をぶつけて騒ぎ出す。大船が通る時は一方通行になるので、水門上の門監が手旗で整理するが、今日はいないから自由に進入することとなる。
「ほら、今そこ空いた。ああ、入られちゃったか。お。左前、それ。あー、まったくグズだな。自分でちゃんと周りを見て素早く操船しろ。」
渋滞にいらいらする恍幾に、
「すんまへーん!」
と、返しておく。
やがて順番が巡り、水門直下の水路に入ることが出来た。城壁の厚さ五十m分、薄暗い水路を漕ぐ。夏のここは別天地である。少し、櫂を握る力が復活してきた。
再び夏の日に照らされた。
城門を脱して景色が一変、眼前に一面の沼地が広がった。
楽門をくぐって、楽河北岸までは約一km。そこは楽河の氾濫原なのだが、普段も乾くことはなく、沼沢地帯となっていた。人の背丈ほど深さがあり、また毒性もあって、歩くのはほぼ不可能。だが運河は石造の航路が頑強に深く作られ、船底を破くことも無い。
東の方、雷躁白からすると左の方を、目を細くして眺めた。
城門の果ては地平線の向こうへ霞み、見通せないが、
(あの彼方に「渦黒兵」が踏破した、特に毒の強い、「門下沼」があるんだな。)
と、楽河と楽門長城の間に延々と続く沼地を、みつめる。
そこここに口を開ける小さな水面がみな、照り付ける七月の太陽を跳ね返し、毒の沼とも思えぬほど美しく光輝き、逞しい野鳥たちが飛来して泥土をつつき回している。
「躁白!何度言ったら分かるんだ。操船中はただ前のみを見よ。白鳥に意趣を感じるほど、てめえ、上等じゃないだろう。」
恍幾が怒鳴っているうちに、舟はいよいよ楽河へ乗り入れた。
「すんまへーん!」
楽河は大河だ。
その河水は豊かに濁り、ゆったりと流れる。雷躁白たちの舟は途端に、水面の翠色と、夏空の抜けるような蒼の二色だけに包まれた。
****************************
懦州




