北の大水門にて、母二人
穣門。
穣河と、都州帝城へ南下する北大運河の結節点、壮大な水門である。大きすぎて、疾銚が舟を浮かべてる辺りからは全容がよく見えない。
運河を南北に往来する舟はギシギシ舷を接し、その度誰かが怒る声がする。運河の東西岸壁には人々が歩き、走り回り、ゴチンと頭鉢合わせて火花を散らしては、またその都度誰かの怒声が響く。
眞暦1798年7月。昼前。
斐界随一の流通の要衝として、穣門は人と物資が濁流となって流れている。
疾銚は、豊かな肉置きの身体を震わせて、櫂を使う。以前の夏なら乳房の間に滝のように汗が流れていたが。そっと手を入れると、少し湿っている程度だ。
(年々物騒になりやがる。もともとここいらは雨が少ないが、今年は特に少ないし、そしてここ数年は夏も気温があがらない。)
空を見上げる。
曇り空に、乾燥した黄土がもうもうと舞い続けている。一重の割りに大きくて、笹形のぱっちりしたその目に、黄塵が入りそうだ。
(これじゃ、今年の秋もまずいねえ。)
ふいに近くで、何者か喚いた。
「あっ。待て、こらあ!」
見ればすぐ隣で、子供が操る小さな舟が舷を他船に擦らせ、船頭の脇に置いている硬餅をかっぱらう瞬間だった。
船頭にとっては大事な昼飯、血相変えて子供より素早い手つきでその首根っこを掴み、自船に引っ張り上げて押さえつけた。疾銚は、党慝と同い歳くらいに見えるが度胸のある子だ、と感心したが、目を丸くしたのはその次の一瞬だった。
子供と反対側に、滑るように寄せる一艘あり。乗るは茶褐色の衣をまとい、恐らく女、猿臂を伸ばして、船頭の足元にある麻袋を音も無くさらった。
目利きだ。
不自然に汚らしい麻袋、船頭にも舟にもまったく装飾がない。目立たぬように運ぶもの、となれば、禁制品か宝玉だ。
「太えガキだ。この俺の昼飯を獲るなんざ。」
船頭は子供の頭に拳骨くらわせて、もとの舟に放り投げた。
子供は頭のこぶをさすりながら小さな舟で漕ぎ去る。もう茶褐色の衣を着た女はいない。見事な連携、あれは親子だ。船頭が騒ぐ声が聞こえたが、小さな子供の舟はあっという間に見えなくなった。船が渋滞しているとはいえ、大運河が狭い訳でなく、幅は五〇mある。そんな船の群れに一度潜り込んでしまえば、見つけるのは余程困難だ。
疾銚に親子を咎める気持ちは毛頭無い。こんなことは日常茶飯事で驚くような事じゃなく、あの船頭が間抜けだった、というだけだ。常に危険と隣り合わせであり、油断はならない。治安は極度に悪く、ふと疾銚は護身用に履いている革鉄靴を見る。
(しかし、手際のいい親子だったな)
と、感心しつつ、我が子の党慝の顔を目に浮かべて、殴られた子供と思い合わせた時、胸が少し痛んだ。
が、感傷に浸る間もなく、また騒がしくなった。
「おうらあ!奏同啄飯じゃあ!」
頭上から声が落ちてきたのだ。
疾銚は舌打ちする。迷わず櫂を差し入れて、船を曲げた。
「退け退けっ。小舟ども。そこ退けい!」
南から来た大船、舷高は五m、こんな船が航行できることに、今更ながら大運河の規模に驚くが、感心している場合ではない。すんでに船を避けられたが、頭上、
「おお?良い女じゃねえか」
と声がした。
声がして、ほぼ同時にドン、と船に男が飛び降りた。舟が大きく揺れ、水飛沫を浴び、疾銚は倒れないように舷に掴った。男は舌舐めずりして、両手を大きく広げ、
「うほうほ」
と、下品に笑っている。百七五cmはあるか、疾銚より二〇cmでかい。小さな舟だ、当然逃げ場はない。
怖い。
が、
(穣門特軍の鄢雀公が私にゃ憑いてるんだ。)
と、勝手に思い込んでみた。
鄢雀は、穣門界隈で暮す者たちに尊敬される大姚帝国の名将で、百年程前の1693年10月、大渤の太祖:妃轢亞朱癩を討ち、穣門特軍総督として見事勝利した穣門の戦いは、今では伝説となっている。
(鄢特軍は、絶対劣勢の籠城戦で、ギリギリで好機を掴んだ。らしい。よし、私もっ。)
男はよだれを垂らしている。
「うほっ。奏同啄飯道であるぞ。あの船に乗ろうや。そして、いいことしようや。」
「ああ?何が啄飯だよ、漂空の教えに痴漢はねえ。てめえ、どうせ偽啄飯だろう!」
と、啖呵を切れば、なにっ、と男は殴りかかってきた。
振り回す拳を、目を閉じずにしっかり観て、しゃがんでミリ単位のギリギリで避けると、立ち上がりざま、革鉄靴で股間を蹴りあげた。
「ぎゃあ!」
と叫んで、男は運河に落ちて黄色い水しぶきを上げた。
「あっ、蘭曹がやられた。」
大船からやいやい応援していた啄飯道のごろつき共が、仲間の無様のやられっぷりを見ていきり立ち、続けて飛び降りようとしている。
すぐ起き直って櫂を取り、全速力で舟を出した。周りで見物していた小舟どもは、疾銚にかの鄢雀を見た訳ではないだろうが何やら好意的で、航路を開けてくれる。
怒号が背に聞こえたが、もう何年もこの北大運河を漕いできたのだ。好意的な船達の間を縫って、あっという間に図体の大きい偽装の啄飯船をまいた。
一km漕いで振り返る。もう例の大船は見えない。
穣門の全容が見える。
(本当、大きい。)
冷夏、北方の曇天を背景に、高さ二〇mの大水門が横たわっていた。
淡黄色の磚で外装を覆われ、幅は東西に二〇kmに及び、その両端とも地平線の彼方に沈んでいる。大開きの大穣扉と小開きの小穣扉が並んでいるが、もう何年も大穣扉は開かないまま、今日も小窓のような小穣扉に多くの舟が密集しているのが見える。
急に、周りがざわついた。
小舟の船頭たちが東の平原を指さして、喧しく何か言い始めた。
運河の東方、庇州平原に黄色い砂塵が舞っているのである。
(こっちは、本当の啄飯かもしれないわ。)
痴漢がどうのこうの言う前に、命を奪われてしまうかもしれない。
皆、慌ただしく櫂を使い始めた。
襲われるのは嫌だが、何より命を獲られたらそれで終わりである。
疾銚も皆と一緒に、更に櫂に力を込め、南へ向かった。
ふと見れば、船内はさっきの飛沫でずぶ濡れだ。
足元の船底に横たえている包みも濡れているが、これは油紙で覆っているので水をはじき、水玉になっている。中は濡れていないはずだ。
中身は売り物の蝕留鎮染布。穣界では知れた銘品だ。油紙で何重にも包んである。
(三番目かな。)
一番は命、二番は疾党慝。この商品は、三番目に大事だ。
だが、安心している場合ではない。
東の砂塵は刻々と運河に近づいてきている。
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庇州




