迫り来る青き波濤
刪回の痩せて皺くちゃな顔が、燭燈の灯に浮かぶ。
ところは剣州州都の劍園にある、経相府。十月の深更、州の財務を司るこの官庁は次年度予算の編成に追われて多くの吏僚が居残り、果てを知らぬ協議、引きも切らぬ陳情への対応、神経のすり減る書類作成など、皆頼りない卓上の灯りの下で、忙殺されていた。
「島倭の為に計上するものが多過ぎるわ。」
刪回は鶴の嘴のように尖った顎を前方に張り出させながら、深い溜息をついた。この愚痴は経相府の他の職員には聞こえぬ。なぜなら、刪回は大きな個室に一人でいるからである。その部屋の扉に「経相大臣室」と掲示されていることから、彼が府庁の主であることが分かる。重厚な卓は天板が良く磨かれ、刪回の影が燭燈によって揺れるように映る。
「こんな予算の為に我が経相府が徹夜で編成にあたるとは。悔しいのう。」
予算案が記載された巻子を手元に広げていたが、それを手荒に巻きながら、扉に投げつけたい衝動にかられた。だがその向こうから、音はしないが、夜半になってなお職務に従事する部下達の気配は伝わって来て、何とか思いとどまった。
コンコン。
その扉が急に叩かれたので、刪回はぼさぼさの白い眉を引き上げて驚いた。
「州経。剰拍廃です。入ってよろしいですか。」
「ん。ああ、良いぞ。」
入室を許可しつつ、
(気になるな、島倭の小僧め。どうする積もりか。)
刪回はにわかに昂り、剰拍廃が入る前から卓の上に身を乗り出した。
「失礼いたします。」
剰拍廃は入るなり、首を巡らせて室内を見渡した。
「大丈夫だ。」
刪回は皺だらけの頬を歪める。
「皆、先ほど出て行った。この部屋にはお前と私しかおらんよ。」
「良かった、左様でございますか。ちなみに、協議はうまくいきましたか。」
「ああ。我が州経相府内への指示も出し終わった。」
「あ。それが予算案ですね。見せて頂けませんか。」
剰拍廃が首を伸ばして、刪回の手元の巻子を覗く。若くして経相府の高官に就き、よく光る意志の強い目を持った男だが、若さゆえか、生来の性質か、落ち着きがなく、いささか浮薄なところが見受けられた。
「大事な話があるんじゃろ。」
刪回は太い白眉を釣り上げる。彼は椅子に座っているから、机の前に立つ剰拍廃からは、睨め上げたように見えているだろう。暗い灰色の瞳は府内でも恐れられていた。
「あ、はい。」
「自らが持ってきた話を先にすべきじゃないかね。それにお前の話とこの予算はきっと密接な関係がある。」
剰拍廃は肩まで伸ばした黒髪を振って、頭を下げ、無礼を詫びる。
「失礼いたしました。して、話というのは。」
詫びを入れた割には、さして恐縮した風もなく、剰拍廃は賢しらに話し始めた。
「剣王のもとへ、海外から来客がありました。」
「島倭の小僧がまた来たらしいな。」
「やはりご存知でしたか。彼奴が前に来たのは眞暦1902年の3月ですから十一年ぶりになります。」
「もう、前のやんちゃなお坊ちゃんではないんだろうな。あれから父親を殺し、陸島を引っ掻き回し、いっぱしの風雲児じゃ。」
「あの干小童、もう二十七歳になる筈ですが、周囲の者はそのやんちゃな行動にまだまだ振り回されているようで。しかし仰る通り、立場は当時と全く違います。早晩、彼奴は海洋国家の大王になるでしょう。」
「海洋国家?」
刪回のこけた頰が、燭燈の灯りの下に陰影を強め、不審げな灰色の眼差しでまた、剰拍廃を睨めあげる。初めて聞く言葉だ。この斐界の歴史が始まって以来、「海洋国家」なぞ成立したことがないのだから、この老大臣の古い頭では即理解出来ぬのは至極道理である。しかし、対する剰拍廃はむしろ得意げに胸を反らせ、鼻息を噴き出した。
「そうです。彼奴は父を弑逆までしながら、陸島を継承出来ませんでした。ただ西端の島、果州は直轄領として確保しました。また環泪海に浮かぶ泪恋の属国化も時間の問題。更に南の蝶佳との関係も昵懇になりつつあります。つまり環泪海の制覇は目前、海上での巨大国家建設は実現性を帯びて来ました。」
「そんな小さな島ばかり領したところで何もなるまい。陸の拠点が無ければ人も少なく、食糧もなく、そうすると徴税できない。国は成立せぬ。」
「環泪海を制すれば、海運を一手に掌握出来ます。その利潤は、大陸における数州の国富が束になっても、まあ、敵いますまい。」
そんなにすごいか、と刪回は驚いたが、何とか顔に出さず、再び剰拍廃を睨みつけることが出来た。
「ふん。随分と島倭に肩入れするのう。快冠副督の子孫だからか。」
「まさか」
ふいに話の方向が変わって、今度は剰拍廃が驚いた。こちらはあからさまに顔に出て、薄い眉が目一杯額に引き上げられ、長い黒髪が大きく揺れた。
「いや、まあ、かの刊快冠副督の末裔とあらば、当然畏怖の念はございます。ただ姓が、若干ですが、もはや変わっておりますしね、直接の繋がりを感じぬというか、我が剣土の英雄を祖としながら、い、些か隔絶を感じまする。」
「ふ。」
陸島贔屓と言われて、かなり慌てているのが、可笑しい。剰拍廃はどもりながら、話を必死に戻した。
「そ。それよりもです。彼奴は州経の龍眼就任に邪魔となりますぞ。」
剰拍廃は目を三角にして唾を飛ばしているが、それを聞いた刪回からもさっきの笑顔は消え失せた。
「何。わしの龍眼が」
「そうです。剣王は干小童にかなり傾斜しています。もともと彼奴の父親や配下の立華建明がおらねば、剣は滅んでおりました。剣土の中でも、陸島のに恩を感じる者は、多うございます。」
「ぬう。それで、剣王 ― 烈風晋様 ― は干小童を重用せん、と。」
「はい。以前から海洋国家の構想をお聞き及びになってましたので、すでにご興味は示されてましたが、今回直接彼奴に謁見なさり、心酔してしまったようです。剣州を、その海洋国家に入れてくれ、と仰ったらしく。」
「何、我が剣土を売る気か?」
刪回がつい大声を出してしまい、剰拍廃ははじかれたように跳びすさり、経相室の扉に張り付いて、外の様子をうかがった。
「す、すまん。」
刪回は口をつぐんで謝ったが、しかし、大声も出ようというものだ。
永代州王ともあろうお人が、島倭の若造がぶち上げる怪しげな国家構想に、この剣土を差し出そうと言うのだ。
剣州は、他の三十州とは異なる歴史を持つ。この州は2つ前の王朝、誡の時代までは「剣国」という別の国家だった。それが、前王朝である姚の成立過程で戦乱に巻き込まれ、今から三百八十年前の眞暦1533年、姚の統治下に入り、「剣州」となった。だが、王家の烈風家は存続を赦され、「永代州王」として未来永劫、州王家となることを承認されたのである。剣州では自らの土地を「剣州」ではなく、「剣土」と言う人が多い。州ではない、半独立国である、という意識が、その歴史ゆえ非常に強いのである。必死に国を保って来た、という自負があった。
剰拍廃は、扉の外で職員たちが静かなのを確認すると、ふっとため息をついた。扉の向こうには、剣州財政の中枢にいる吏僚が百数十人、執務している。もし、さっきの大臣の発言が彼らの耳に入ったら、口を封じきれず、大混乱となるところだった。剰拍廃は一安心して、卓の前に戻った。
「大丈夫、外には聞こえなかったようです。刪回様、剣王のお考えもまだ深まっておりません。剣土を島倭に売るなぞの愚挙、致すはずがない。すぐ目を覚ましましょう。また干小童も、剣王のこの発言は本気にしておりますまい。奴は奴で、それ程馬鹿ではない。」
尖った顎を突き出すようにして、刪回は思考を巡らせる。
「まあ、な。」
剰拍廃の言う通りで、烈風晋は口を滑らせたのであろう。とは言っても結局、干小童に国を売ることになるのではないか。剣王が彼奴に傾注しているのは疑いない。ここ十五年程、甚大な国難に見舞われ続けているが、最早この剣土は、外からの、陸島からの支援無しでは立ち行かなくなっている。そこに壮大な構想を干小童が持ち込んで、剣王・烈風晋は気圧され、彼奴を龍眼に就けてしまうのではないか。
大いにあり得る話だ。
(干小童をうまく罠にはめて、剣王から引き離せないか。わしの計だと分からないようにしないといけないが。)
と謀る老大臣の耳元に顔を近づけ、剰拍廃がささやいた。
「龍牙様が、明後日動きます。」
また大声を出しそうになるのを、刪回はかろじて止めた。歯を食いしばり、尖った顎が引き攣る。
「ぐ。結局そこか。」
そして息を飲んだあと、それを吐き出すように、刪回はため息を交えて言う。
今日の最たる密事は、このことだったのだろう。剰拍廃はあれ程小声で話したのに、また扉に張り付いて、外をうかがっている。
「州経、くれぐれも私が申したとは、何卒、ご内密に願います。」
「当たり前だ。こんなこと、他所で話せるか。」
扉に背中と右耳をつけて平たくなっている剰拍廃に、安心するように言ってやる。
「貨嗇様も、もう少し慎重であればいいのだが。何を謀るのか知らんが、あのご気性では、贔屓目に見ても五分五分じゃな。」
この呟きは剰拍廃には聞こえなかったようだ。ご内密に、ご内密に、とぶつぶつ繰り返し、扉に頭を擦りつけるようにして立つ。長い黒髪が小刻みに震えていた。
対して老大臣は、その顔から急速に緊張感を無くしていった。いや、諦観の表情に変わっていった。その尖った顎は下に伸び、ぼさぼさの白眉も垂れ下がった。
「貨刊が戦うことになるとは。皮肉なことよのう。」
刪回のしゃがれた声はまた誰にも聞こえず、夜更けの大臣室の中に沈んでいく。秋の夜更け、庁内は徐々に肌寒くなって来た。しかし、良く磨かれた卓の上、老人が手を組んでいた箇所は、じっとりと汗で濡れていた。
眞暦1913年10月。
剣土も、陸島も、大陸も、斐界全体が大きな戦乱の渦に巻き込まれ始めた頃の話である。
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剣州
環泪海




