砂漠の虎、未だ翼を持たず
砂漠の風が、もうもうと砂塵を舞い上げている。
砂州西南部の城市、碁幞。
黄色い砂の柱は城壁よりはるかに高く、四月の晴天を覆い隠すように立ち昇って、市中からよく見えた。
「痛え。てめえ、足を踏んだな。」
「あ?何を。少し爪先が当たった程度で、俺に因縁つけるか。」
眛馬婀難は茶屋で温かな茉莉花茶を傾けながら、街の喧嘩を眺めている。
「爪先が当たった程度ぉ?しっかり、たっぷり踏んでおろうが。兵卒風情が、五人隊長にきく口じゃねえな。」
「む?お前、軍属は碁幞方面軍だな。俺は碕緑の龍牙府直属だ。田舎のゴロツキを何人連れようとも、碍字徹第二大臣様の砂州正規軍に敵う訳がない。無礼を詫びるなら今のうちだぞ。」
喧嘩の当事者二人は、いかに己の立場が強いか言いあっているが、眛馬婀難からすればどっちも薄汚いゴロツキにしか見えない。二人とも体は大きいが革の甲冑も所々破れ、黄色い砂にまみれ、髭も伸ばし放し、野盗みたいな風体である。
(いかにも一目瞭然。斜陽の砂州軍にあって、下っ端で働く雑兵だな。あまり調子に乗らんほうが― 。ほうら、おいでなすった。)
高い眉骨の下に黒く影を作り、その巨大な目を皮肉に笑わせて、眛馬婀難は二人の後ろから近寄る一団に注意を移す。
「邪魔だ。退けっ!」
胸ぐらを掴みあっていた砂州軍属の荒くれ二人の背後から、ドスの利いた声が降って来た。
「なにっ」
「なにっ」
薄汚い砂州兵二人は、ほぼ同時に振り向いた。
「虞倶霊軍だ。退けっ!」
そこにいたのは、二人よりも、頭一つ大きい兵士だった。虞倶霊を名乗ったその男は、肩幅も広く、兜の下の狐目で砂州の雑兵二人を見下ろしている。そして背後に十人ほどが居並び、皆一様な巨体、同じ赤地金刺繍の煌びやかな甲冑に身を包んでいる。
「うっ」
「うっ」
喧嘩していた砂州兵の二人は同時に仰け反り、その兵士集団に怯え、道を開けるどころか、一目散。同時に踵を返して、手を取り合うように逃げてしまった。
それを見て、
「ふんっ」
どうだ、と言わんばかりに大柄な虞倶霊兵の一団は鼻息を荒らげ、街角に睨みをきかせた。急に、彼らに黄色い突風が吹き付けたが、目を瞑る者も無く、皆両脚を踏んじ張っていた。
眛馬婀難は茉莉花茶をすすり続ける。
「しかし砂州王も情けねえな。これぁ、碁幞は完全に虞倶霊のものだな。」
普通なら店内に聞こえるような、大きな声の独り言だ。
しかし喧騒の街で、彼の感想など誰も聞いていない。
街には多くの兵士が闊歩しているが、総じて虞倶霊兵はこのように、砂州兵より態度が大きく、居丈高であった。国力の差であろう。
眞暦1896年4月。
緑洲※都市であるここ、碁幞は盛況である。
磔宝砂漠の南、錣砦山脈の山麓という立地。漠方南路の拠点であり、かつ南の鋤州に向かう越山の起点でもある交通の要衝、隊商や各地の軍勢が忙しげに交錯していた。砂漠に接している為に全体に乾燥し、街路や砂岩の建造物は勿論、市民の服にまで黄色い砂塵がまとわりつく。今日のように風のある日なぞ、砂が舞い、城内の大気までがくすんだ黄に霞んだ。曲がりくねった狭い小路が縦横に走り、入り組んで、雑然とした街のかしこに多くの人が往来し、怒鳴り声が至る所で発せられ、野卑な喧騒に満ちたこの黄色い街は、殷賑比類なく、ひと時として落ち着かぬ。
(だが。同じ賑わいにしても、毘覇とはえらい違いだ。)
活気ある街だが、西の緑洲都市、毘覇の活況とは比較の対象にならない。歴史ある富裕の都市国家である毘覇の市街はただ賑やかなだけでなく、瀟洒で品格があり、市民や出入りの商人、城兵の素養や民度は、碁幞とは隔絶して上等であった。
(砂州王は言うに及ばず、こんな街でいい気になっている虞倶霊だってどれほどのものか。)
かつて林寓Ⅲ世という英主により、この斐界の趨勢を左右した都市国家、虞倶霊。漠方北路という辺境中の辺境にありながら、大姚帝国の建国を扶けた。毘覇を斬り従えて漠方を統一すると、穣界や附類平原に侵攻して、彼の地を席巻、そして姚初代の女樊による安定を見たら、風のように砂漠へ帰還した。以来、大姚帝国から最敬国待遇を受けつつ、漠方の北東部に君臨してきた。交易の他、鉱業も盛んだから経済基盤も確固たるものだが、何より林寓Ⅲ世以来の精強な軍事力が国威の象徴だった。
今、この碁幞の街には、虞倶霊軍がかなり多く入城している。城外の砂漠にも無数の包が設営されている筈だ。
虞倶霊軍には巨躯が多く、その武勇は今でも疑いない。
だが、かつて中原を震撼させた砂漠の一大強国としては、何かが足りぬ。
眛馬婀難は茉莉花茶をくっ、と干すと、再び大きな声で独りごち、
「兵士の素養と規律がまったく劣っているんだろうな。」
と笑いながら、勘定をジャラリと卓上に積む。
今度は、何人かに聞こえた。
店の外に、まだ立ちはだかっている先ほどの十人にも、だ。
狐目の兵士が、目をさらに吊り上げてこちらを凝視している。
眛馬婀難が卓を立つ。
そして一歩、二歩踏み出す。
眛馬婀難が近寄るにつれ、虞倶霊の一団は少し顔色を変える。少し恐怖の色を帯びた呻きを漏らす。
「ん?」
「こいつ。。。?」
どんっ、と眛馬婀難が足を鳴らし、
「所詮、志の低い雑兵に過ぎんか。」
と狐目の眼前に立った時、一団は完全に腰が退けた。
眛馬婀難の背は、二mに近かった。
狐目達十人の誰よりも大きかったのである。
ボロボロにほつれた鞣し革の上衣は、まだ肌寒い北方の砂漠にあって、袖が千切られ、上腕がむき出しになっていた。肩、二等筋、一等筋、すべて恐ろしいくらいに太く、中型の獣なら簡単に縊り殺せそうだ。右の上腕部に彫られた黒い翅虎の刺青が禍々しい。肩幅は広いが、まだ若く身体全体がしなやかで、垂直の立ち姿は美しくすらあった。横広の大きな鼻の上の両眼もまた巨大、眉骨高く彫りの深い浅黒の丸顔には幼さも残るが、その薄い翠色の瞳には残酷な光が宿り、こちらを射抜くが如くである。
狐目の虞倶霊兵は必死に背伸びし、肩をいからせ、眼前の若い巨人に何か言おうとしている。
「ぶ。無礼であろう、貴様っ。虞倶霊の兵に対して、無礼であろうっ。」
しかし、眛馬婀難は狐目を無視し、その兜越しに後方を注目している。
狐目の後ろに十人 ― 数えると九人だが ― 居並んでおり、眛馬婀難はそれらを翠色の巨眼でざっと見回す。
そしてすぐ、目を止めた。
九人の中央に、若いが怜悧な眼差しを持つ将校がいた。身長は、他の粗野な兵士とほぼ同じ、甲冑も赤地金刺繍の同柄なれど、ひどく身体の線が細い。面長な白面に鼻梁がすっきり通り、睫毛が長く、切れ長の目を眛馬婀難に合わせた瞬間、その紅い口吻を開いて微笑んだ。女のようであった。
(この女は、他の兵士とは違う。)
と思うか思わないかの内に、眛馬婀難は女兵士に言葉をぶつけた。
「俺は志願兵だ。手続きはどこだ。」
少し、虚を突いてやった。
だが、女はまったく動じず、微笑みは艶やかな笑顔となった。のぞいた歯が、雪のように白い。
「我宝大路の本営に龍牙府の軍籍管が出張ってきているから、そこでの手続きになるわ。」
声は高く、歌うようであった。
眼前で同僚が、いや恐らく配下だろうが、それを一市民の若造が侮蔑し、しかも厚顔にもそいつは軍に採用するよう要望してきたのだ。本来なら即座に斬り捨てて、当然であろう。天下の虞倶霊軍が、無礼な若者一人試し斬りしたとて誰も咎めまい。
しかしこの女には、そんな積りは毛頭無いようだった。
「私たちも、丁度本営に戻る所よ。一緒に行きましょ。」
そう言うと膝下まである軍靴で勢い良く黄土を踏みしだき、大股に狐目との間合いを詰めると、右手で肩を掴んだ。
「事荷斜藝。そこを退きなさい。あなたじゃ、私の衛士は勤まらないわね。」
女兵士はその細い体からは想像出来ぬ力があるようで、狐目の巨体はぐらつき、二、三歩横に泳いでしまった。
そして、女兵士が眛馬婀難の前に立つ。
その白い練絹のような手で、眛馬婀難の剥き出しの腕をパンパン叩く無遠慮さと、途端に漂う百合のような薫香とが、にわかに結びつかず、不覚にも眛馬婀難は思考停止した。
「良い身体ね、姓名は。」
「姓は眛。名は馬婀難。」
「眛?じゃ、漠方南路かしら。」
女は急に横を向き、狐目に向けて赤い口を開けた。
「事荷斜藝っ。何、ぐずぐずしてるのよ。本営に帰陣するって言ったでしょ。」
女が配下に見せる態度は、さすが虞倶霊軍と納得できる厳しさである。彼女があごをしゃくると、狐目の兵士は涙ぐみながら走っていった。十人の中でこの女が最上位なのは間違いなく、隊長格と思われた。
眛馬婀難も、彼女に対する態度を少し改めた。
「いや。漠方河通の出身です。」
「へえ、河通にも眛姓があるのね。年齢は。」
「十五です。」
「え?そんなに若いの?同じくらいかと思ったら。なんだ、そうなの。」
図体の大きい10人が碁幞の街を練り歩く。腰抜けの砂州兵は言うに及ばず、虞倶霊兵もまた道を開けた。特に虞倶霊側が顕著で、どうも皆、この白面の長身女を見て、反応している。会釈したり、敬礼する者までいた。これはどうも、隊長どころではない。我宝大路に入り、雑踏はいよいよ激しいが、街行く兵民は全て道を開ける為、かえって楽に道を歩ける。
本営に着くと、壮年の吏僚が門前で待っていた。長身女は、赤地金刺繍の甲冑を四月の陽光に煌めかせながら、近寄り、吏僚は頰を紅潮させて頭を下げた。
「報を受け、お待ちしておりました。」
「大儀。この大男よ。志願兵で、軍籍に入れる。所属は、砂州方面軍第三師団。私の推挙と追記して。あとは、分かるでしょ。」
「はっ。」
吏僚は再び深く頭を下げてから、
「さ、こちらに来て手続きをするぞ。」
と、眛馬婀難を営内に誘った。
「じゃあね、馬婀難。また軍内で会いましょ。」
女が手を振る。眛馬婀難が会釈をかえすとその時、騎兵が営内から駆け寄って来た。辺りが砂塵でもうもうとするのも構わず、即座に下馬して女に告げる。
「喇通外様、砂州王が市庁でお呼びです。」
喇通外?
「分かった、すぐ行くわ。」
言うなり、女は ― 喇通外はその長身でひらりと飛ぶと、空いた馬に柔らかく乗って、配下の八人に下知した。
「各自、碁幞市庁舎に別途集合。私の帰りを待ちなさい。」
言い終わらぬ内にもう、人馬は踵を返し、吏僚は、
「おい、行くぞ。」
と、眛馬婀難を急かす。
まさか。あれが林寓Ⅷ世の懐刀、「砂漠の水晶剣」喇通外だったのか。
背中に彼女の馬蹄を聞きながら、眛馬婀難は想いを巡らす。
喇通外は、伝説の諜者、喇葉の末裔である。約三百七十年前、時の因州王美柳の命で、初代皇帝・女樊が連名した密書を、虞倶霊城の地下牢に投獄されていた林文に届けた密使が、喇葉である。その林文が林寓Ⅲ世となる訳だが、喇家は因州に帰らず、そのまま虞倶霊に残り、旧主である因州王美家が滅んだ今も、辺境の都市国家において重きを為しているのである。
物思いに沈みながら、眛馬婀難は吏僚の後ろに着いていく。
(国王・林寓Ⅷ世のもと、若年にして龍牙代に就き、今やその有能は漠方で知らぬ者無し、称して「砂漠の水晶剣」。)
喇通外の颯爽とした騎馬姿を、目蓋の裏に思い浮かべた。
軍兵の行き交う、虞倶霊軍の碁幞駐屯軍本営の中を縫うように歩き、講堂の一隅に臨時で据えられた軍属登録所に到着する。
「よし。ここに姓名、生年月日、出身地を記載せよ。」
吏僚にうながされるまま名簿に筆を走らせていると、砂州方面第三師団の碩撰駐屯軍に配属、とぶっきらぼうに伝えられた。
筆を置き、ややあって、ふっ、と息を吹く。
「ああいう龍牙代がいるくらいだから、河天から声がかりがあるのも頷ける。しかし、単なる手扶けで終わるのもつまらねえよなあ。」
また眛馬婀難の独り言は、周囲に十分聞こえる声量であった。しかし、先ほどの吏僚が一瞬振り向いた程度で、往来する武官達は誰も気に留めぬ。ただでさえ気の荒い者が多い軍営であり、威勢のいい会話で溢れているから、なまなかな声では埋もれてしまう。またもし耳に入ったとしても、図体だけでかい若輩の志願兵が発した言葉など、正規兵達には戯言にしか聞こえまい。
「虞倶霊はまた、砂漠の便利屋に過ぎないんだろうなあ。」
眞暦1896年4月現在。
虞倶霊という都市国家は、約三百六十年ぶりに歴史の表舞台に登場しようとしていた。
眛馬婀難は強風の我宝大路を行く。
はるか北門の外に、磔宝砂漠の黄色い砂礫が茫漠と広がっているのが、彼の大きな翠色の瞳に映っている。
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砂州
漠方




