斐界痛恨
炎州西部に茫漠と広がる燐蒸原の原野に、十万をゆうに超える大軍が整然と行軍している。
その頭上から、雷光。
六月の空はにわかにかき曇り、ややあって、猛虎の唸るが如き低音があたりに響き渡った。雨は、無い。
(ここまでは、うまく進んでいる。)
屹立する男が、顎に手を当て、そんな平原を見つめていた。
男は、水軍鎧を纏い、総髪かき上げて後頭部に黄の絹布で束ね、さらりと背に下ろしている。矮小で、鼻も低い平板な顔であるが、小さな眼で大軍を監督し、その瞳の光は水晶の如し。彼が立つ場所は小さな丘なれど、周りが見渡す限りの大平野である為か、全軍を一望のもとにおさめることが出来る。
そして再び、黒灰の天空を貫くように電光が煌めいた時、細い身体の線が、丘の頂上に浮かび上がった。小さいながらも、鞭のようにしなやかで、その甲冑の下に、鍛え上げられた肉体が潜んでいるように思われる。
男は、丘陵の上から全軍を睥睨し続ける。
(鳳公の近衛軍はまだ燐蒸原の西方にあって、槍隊が周囲を固めている筈。眼前を行く鵞韋龍の師団は、一部に疲労が見られるものの問題は無さそうだ。先陣の江一見隊は士気高く、意気昂揚。右翼の火筒隊は、さすが「両湖の火弾娘」袿勠、過去の対立を全く感じさせずに見事我が軍に調和しておる。左翼の筐踞は軍糧をつかったばかりだから、今一番精強といえるだろう。)
そこへ、一人の文官が丘を登ってきて、男に声をかけた。
「淼将軍。いかがですか、この燐蒸原は。」
淼将軍。
姓は淼。名は也。
男は、この大師団の行軍について責任を負う軍部の最高位に就く将軍であった。竹州龍牙の肩書きを持ち、矮小ながら、その身体から発される威厳が周囲を圧しているのは、こうした彼の立場や豊富な武勲に由来している。
「む、阿刃偶か。このように見晴らしの利く大平原。もし敵襲があっても、慌てることはない。」
淼也は無表情のまま、答えた。
と、その、直後にゴゴゴゴ、と雷鳴が響いた。
阿刃偶と呼ばれた文官は、少し意外な顔をした。
「いや、燐蒸原のこの状景は、もっと重大なことを表しておりましょう。最早、湖河は我らに跪き、河天に至っては水路を譲った訳ですよ。上洛に向けて、我が軍の視界はまことに良好。無人の野を行くが如く、とはまさに眼前の状況を言うのではないですか。」
阿刃偶は雷鳴に負けぬよう声を張って、右手の杖でグルッ、と燐蒸原を指し示す。だらりとした長袍の袂がはためく。眞暦1887年6月現在、確かにこの燐蒸原に彼らにとっての敵影は皆無で、楽界を見回しても宣戦する勢力は僅かであった。
腹を揺らす雷の喚きが、遮るもののない曠野に拡がっていく。そこに展開しているのは、我が大軍のみだ。雷電に怯える者なぞ無く、力強い足取りで行軍を続けている。
阿刃偶は、まるで自分の手柄であるかのように、どうだ、という笑みを浮かべ、淼也を振り返った。文官でありながら従軍し、こうして快活に振舞ってくれると、軍に対して良い影響をもたらす。
阿刃偶は勢いのある言動を続けた。
「煉碧の焚学明が、河天のようにおとなしく従いさえすれば、我が大水軍も船を降りずに済みましたのに。そこだけが計算外ですか」
「いや。主はそれも想定しておられた。」
淼也は、即座に否定した。
なぜか熱のある口調であったから、阿刃偶は気圧されて身を引き、杖に寄りかかった。淼也の黄色い絹布が、頭の後ろで大きく揺れている。
「え。それでは淼将軍、主にとっては焚学明の反応も想定内だった、ということですか。」
「想定どころか。そうなるように仕向けていた節がある。煉碧に立ち寄り、彼の城塞を潰す。それにより、我が軍の上洛戦はより完全なものになる、とお考えなのだろう。」
「なんと。やはり、天才…」
その時。
分厚い雲を切り裂くように、稲妻が走った。
「ぬ。」
つい、淼也は呻いた。
曇天のもとで薄暗かった燐蒸原が、晴天のように明るくなり、十数万の軍勢が照らし出された。
だが、それも一瞬のことだった。すぐに平原は陰鬱な灰色の世界に引き戻される。
阿刃偶は少しきょとん、としたが、すぐまた右手で杖を振り上げて、淼也に対して快活に笑った。
「あれ、淼将軍。もしかして雷が怖いですか。」
淼也が冷やかされるのも無理はない。
彼は明らかに動揺していたのである。
細い眉は縦皺を寄せ、小さな眼は怯え、薄い唇はカサつき、身体が痙攣して水軍鎧がカシャカシャと乾いた音を立てていた。常に冷静沈着な竹州龍牙の淼将軍には、似つかわしくない態度である。
阿刃偶の揶揄を無視して、開いた瞳孔を向けている先には ―
彼らの、主君の姿があった。
隊列の中、騎上にすらりとした、美麗で蒼き鎧姿。
白昼なれど、黒雲が覆いかぶさったこの燐蒸原にあって、彼女の姿はひときわ輝いていた。浅縹の光沢ある甲冑に、鮮やかな水色の外套が眩しくすらある。兜の頭頂から天を衝くが如く立つ白銀の一本角は、嫌が応にも目立った。
さっきまで遠くにいた近衛軍が、今や丘に近づき、鉄槍の林の狭間に、彼女の姿が見える距離まで来たのである。
大人の女性になった ―
いつもの淼也なら、若き主君の姿を見てそう呟いただろう。
しかし、今は違う。
ひゅっ、と初夏にしては冷たい風が一陣、平原に吹きつけた。主君の外套が、馬上に翻った。
阿刃偶は、淼也の異常にたまらず問いかける。
「淼将軍?」
「槍隊全員、槍を下ろせ!」
淼也は、阿刃偶の言葉など全く聞かず、この細い身体のどこからこんな声が出るのか、と不思議になるような大声で、平原に響く号令を発したのである。
同時に、伝令が数人、あたふたと丘に駆け上がってきた。文官の阿刃偶は慌てて道を空け、よろめく。
それに対して浴びせる指示は、怒声に近い。
「鳳公の甲冑を平服に代えさせ、馬でなく籠に載せよ!急げっ。」
淼也は焦った。
下知が間に合うか。
天を、雲を、あおぐ。
黒雲は、まがまがしかった。
焦慮する稀代の将軍を嘲笑うかのように蠢き、大自然の摂理を発動すべく、その胎内で着々と準備しているのだった。
***************************************
炎州




