細腰を抱き、乱世を想う
眞暦1876年7月。
炎州の州都、炎勢里は初夏の太陽に照らされている。
街の群衆は、天空からの陽射しを受けて、大汗を発していた。汗は流れ、飛び散り、なおまた吹き出している。それは七月の陽光ともう一つ、車駕に乗って麗后大路に登場する予定の、高貴なる夫妻を一目見んとする熱狂もまた、要因の一つであった。
「暑そうな。」
焚学明は尖った鼻を鳴らし、薄い唇を右に吊り上げて、皮肉げに笑った。鈍色の紗で仕立てた長袍は、細身の体をすっきりと包んで如何にも涼しげである。
そもそも、彼がいるのは、自邸である海遼閣の最上階。炎勢里の北側山塊の海に近い斜面に立ち、開け放たれた高楼には爽やかな海風が飄々と流れ込み、光沢ある玉石の床は氷の如く冷たく、日の射さぬ房内は炎暑と無縁の別天地であった。衛士が大きな竹扇をしならせ、涼しい風が焚学明を包んでいた。
「あなた。式典に参列されなくて良かったのですか?」
傍らに立つ妻、李優は、宝玉と見まごう整った顔を妖しく傾げて問う。
背の高い籐椅子に深く腰掛けた焚学明は、問いには答えずに妻の細腰を撫でている。
優しく、愛でている。
炎勢里の街を遠く見下ろしながら。
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炎勢里。
水深深い東の炎勢里湾と、それに西から注ぎ込む炎銃河の南北両岸に展開する都市である。先述の通り、炎州の州都であり、州王燦鹸の王府他、州の巨大官庁が林立する都会であった。しかし更に、港湾都市として流通経済の一大拠点であり、また州王家が代々維持してきた「麗后水軍」の基地でもあったので軍港機能も有していた。つまり政治、経済、軍事の機能が集中し、楽界でも一二を争う大都市なのだ。
しかしその割に、街が狭小だった。
海と河の岸近くまで、南北の山が迫り、平野が少ない。この為、山の斜面にまで建物群がせり上がって街が広がっており、過大なその機能をなんとか満たしている。河岸、海岸、山の斜面と、小路が縦横無尽に走り、迷路のようであったが、そこに多くの市民が活発に動き回るものだから、至る所で人々は溢れ、渋滞していた。
だがそんな街の中に一本だけ、整然とした大路がある。
それを、麗后大路という。
炎銃河から炎勢里湾の北岸に沿って、十mの幅を保持したまま市街地を東西に貫いている。貝混じりの玉石で舗装され、見る者の目を痺れさせる程に白く鮮やかに輝いており、街を象徴する大路であり、流通都市を機能させる大動脈であった。
ちなみに水軍にも道路にも冠する「麗后」という呼称だが、これは両方を造った州王燦家の初代、燦蝉にあやかっており、彼女の異称である「炎勢里麗后」から採られている。
とにかく今、街は沸いている。
麗后大路を、煌びやかな一団が隊列為して整然と行進し、道の両側の市民が汗をほとばしらせながら見物しているのである。
始祖燦蝉が炎州王に封ぜられてより、代を重ねて百八十二年。燦家は有力諸侯ではあったが、つまる所、楽界の一隅に蟠踞する一州王に過ぎなかった。だが、昨年からにわかにその存在が、大きく、変わりつつある。
焚学明は尖った顎をしゃくり、細く長い鬚をそよがせた。
「盛り上がっているなあ。世紀の婚姻からの一周年祭ということだが。」
その時、街から、一際大きな歓声が沸いた。
炎州王燦鹸とその妃である女霧の乗った車駕が、麗后大路にいよいよ姿を現わしたのであった。
女霧 ―
その姓から察せられる通り、大姚帝国の嫡流だった女性である。
車駕の上、州王は群青、王妃の女霧は真紅の正装で、大路の白光の中に浮き立つようであった。
「州王様の威風。王妃様の美貌。なんて華やかな。眩しゅうございますわ。学明様、この海遼閣から眺めるのではなく、お近くから拝顔されたが良かったのでは?」
李優は、こぼれそうに大きく濡れた眼を向ける。絹の袍は身体の線を強調させ、大きく開いた背中や露出した両の腕は白磁の如し、まだ若い華奢な肢体は硝子細工のようにはかなげであった。
「父上が州王に付いて回っている。大丈夫だ。」
「あっ」
焚学明は李優の細い腰をつかんで引き寄せ、ひょいと膝に乗せた。
燦家万歳!霧皇妃万歳!鹸州王万歳!
夏日の直下、麗后大路には州王夫妻の大車駕を中心に、群衆が諸手を上げて万歳三唱、綺羅々々しい絹布の大旗が随所で振られ、紙吹雪が舞い、銅鑼や管弦の音が響き渡っている。
「お前が行きたかっただけじゃないか?李優。」
「そんな。だんな様と一緒ならともかく、一人で行っても仕方ありません。」
「ふ。この格好で行ったら、王妃より衆目を集めてしまうだろう。」
「そんな。恥ずかしい。」
李優は頰を赤らめ、我が腰を夫に撫でられるままにしながら、頰が触れるほど接近して、夫の顔を見つめ、
「先月、穣界で大蝗害が発生したばかり。だんな様と行っても楽しめませんでしょう。」
と、言うと、
「お。」
焚学明はぐっ、と顎をひいた。妻の言葉に虚を衝かれたようである。
そう。
眞暦1876年6月、穣界は地獄と化していた。
黄土平原に突如発生した蝗の大群は、瞬く間に穣河流域を覆い、農地という農地を食い尽くした。麦も高粱もすべて、黒光りする無数の昆虫達の腹の中に、おさめられてしまった。為政者も貴族も商人も職人も農民も、みな飢餓民に落ちた。最後の穀倉地帯を食い尽くし、食うものを無くした蝗達は地に落ち伏して、大地はその無数の死骸で埋め尽くされたが、その中に混じって飢餓民達の遺体もまた、点々と倒れていた、という。
生きている飢餓民は難民となった。
穣界東部では一団が眩宵山脈を超えようとし、仇同士である筈の烈風鳧と危頑弉が停戦して手を握り、これを撃退した。中原を領する軍隊が、難民の群れをそれこそ虫ケラでも殺すように大虐殺を行なった、と伝えられている。しかし、烈風家としても、女牙のあとを継承した危家軍閥としても、自らの領地である附類平原に難民が雪崩れ込んで来た場合、蝗害以上の災厄となるのは、火を見るより明らかであった。
(地獄絵図よ。)
焚学明は脳裏に浮かべていた穣界の惨状から、ふと眼下に展開する享楽の風景に意識を移したが、そのあまりの隔絶に、少し眩暈がした。
「この大地の北半が壊滅したのですから。その中にあって州王様達は、あまりに華やかで、眩しゅうございます。」
「南だって、危ないぞ。」
「ここにも蝗が満ちますか?」
「いや。蝗より頭が痛いわ。」
大姚帝国の正統がこの炎州に嫁ぎ滅亡してしまった今、中原である附類平原は二つの勢力に集約されたが、とても大災害に対応できる政権ではない。双方が手を取り合ったところで、上述のように、難民の越山を阻止するだけで精一杯だ。
(もし今、美獣や尼乎磊、烈風蹄が都州帝城におったならば、どうするか。)
そんな英雄達ならば、附類平原という揺籃から飛び出し、まず楽界を制覇して国富を掌握し、その後に穣界の混乱を鎮めて復興を進めるであろう。この斐界を再統一するこれ以上ない大義名分が眼前に転がっているのだ。涎を流しながら、地獄へ身を投じる筈だ。だが烈風鳧や危頑弉では、そんな壮図、夢のまた夢であろう。
急に、膝上に座っている李優が、焚学明の首へ、その真っ白な腕を巻きつけた。
「ついに。この楽界が乱れるのですか。」
「これまでも戦はあったじゃないか。現に懦州の零丹璧とはここ数年戦闘状態だ。」
「いえ。穣界の擾乱みたいになるのではないかと。零丹璧との戦など、それに比べたら、子供の遊びのようなものでしょう?」
焚学明は壊れそうな妻の手を優しく撫で、首に絡ませたままにしておいた。麗后大路から響く嬌声が耳障りだが、妻から漂う薫香を嗅いで、心は静かに保たれている。
「そうだな。楽河の南に英雄が現れて、さっさと楽界を統べてくれるといいんだが。」
焚学明の薄い唇が今度は悪戯坊主のように、前に向かってとんがった。妻はそれを聞いて絡めた腕を少し解き、我が夫の顔を、間近に覗き込んだ。
「まあ。それは素晴らしいわ。楽界を中心とした国家が出来るということですわね。後誡とか、女恭帝とか、これまでの歴史でも事例が少のうございます。」
妻の顔から恐怖は消え、いつの間にか溢れそうな黒眼を濡らして、夢見る表情に変わっている。
「だんな様。燦鹸州王は如何かしら。国力は楽界随一、楽河流域の覇者として最有力ですわ。」
「だが、零丹璧に手こずってるくらいだからなあ。どんなものか。」
言ってしまってから、衛士の存在を思い出して少し慌てたが、彼は無心に竹扇を振っている。心配は不要なようだった。
(だが、お后の力を借りる手がある。それこそこれ以上ない大義名分となろう。天下を狙えるか?)
焚学明はにわかに鋭い目つきで、喧騒の麗后大路を睨んだ。あの車駕の上に州王燦鹸がいる。今は鮮やかな青の装いが見えるだけ、表情はここからでは分からない。だが、準殿の焚学明は、当然主君の顔を知っている。
議堂でよく見かける、州王の赤黒い顔相を思い浮かべる。
(精力的ではあるが。)
七月の陽光は倦まずに州都炎勢里の街に照りつけ、州王夫妻への万歳もまた、沿道の群衆が飽きずに続けている。
それを見る焚学明は、といえば、高台の自邸で涼しい風に吹かれながら、こちらも美しい妻の腰を延々と撫で続けていた。
しかし、焚学明の表情は厳しい。
その脳内は、程なく始まるであろう楽界の大乱に思いを巡らせ、目まぐるしく稼働していたからである。
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炎州
附類平原




