教都の緑の下で
蝉時雨が街に降り注ぐ。
真夏の太陽が南天にあって、力強く輝き、柳並木の緑が陽光に呼応して鮮烈な色彩を放っていた。
時は、眞暦1861年8月。
珥州中部の街、璃楠はもともと緑豊かな南国の街だが、盛夏という季節もあって、鬱蒼とした密林に石造の家々が垣間見えているような、そんな街並みである。石家は、小さな住宅から、大きな官庁、学校まで、よく見れば樹間の所々に建っている。
こんな暑い日に市民は外出しないから、人通りは少ないのだが、背が低い小肥りの若い女性がひとり、歩いている。柳葉の濃い日蔭を選ぶ。右腕には絹布に包まれた赤子。
「はいはい。暑いけどね、もう少しですよ。旺粛先生の家は。」
女性は、抱っこしている我が子の顔を心配そうに覗き込む。
「あら。ぐっすりじゃないの。こんなに暑いのに、体は結構丈夫なのかしら。」
確かに赤子はすやすや寝息を立て、日向で太陽の熱射を浴びようが、轟音の如き蝉の鳴き声に包まれようが、穏やかな熟睡は一定である。
女性は、日焼けした顔の半分もあるような大きな二重眼を、更に大きく見開いて、愛おしげに我が子に笑いかけた。
やがて母子は、所々に苔を纏った小さな石橋を渡り、深緑の水路を超える。そこには、周囲の密林に取り込まれた草庵が一軒、佇んでいた。
女性は庵の前に進み、
「ごめん下さいませ。轟掩でございます。」
と、声をかければ、
「お待ちしてまちた。」
ほぼ同時に侍童が現れて、中に招じ入れた。訪問を予期して、侍童は待機していたようだ。奥の主人に大声で客の来訪を告げると、即座に背伸びして赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「見せて、見せて!あ。かわいい!これが轟掩しゃまの娘さん?」
「ふふ。そうよ。まだ生まれたばかりだから、顔がお猿さんみたいでしょ。」
女性は ― 轟掩は ― 我が子を褒められ、満更でもない様子でにこりと微笑んだ。
簡素な応接を通り過ぎ、奥の間に通される。そこでは、寝台の上に一人の痩せた老爺が寝ていた。
すっ、と轟掩の顔から笑顔が消えたが、すぐに微笑んだ。しかし、その笑顔は先ほど侍童に見せたものとは大きく違っていた。
「朝旺粛様。轟掩でございます。」
「よく来たのう。そこに… お座りなさい。」
老爺は、轟掩に席を勧めながら、自らは起き上がろうとした。先ほどの侍童が慣れた様子でそれを助け起す。
「ああ、旺粛先生。寝てて下さい。」
「よいのだ。それより、轟掩こそ座りなさい。」
「はあ。」
「子供のためじゃ。」
老爺はそう言って、笑った。もともと柔和な人物だが、優しい笑顔は慈愛に溢れていた。
(ああ。大然学は先生の大きなる愛が無くなっても、やっていけるのだろうか。)
朝旺粛 ― 大然学の現学頭である。だが、今は仙人の如く見えた。些事を超越して達観しているからそれこそ仙人に近い存在になりつつあったが、それより何より、痩せさらばえた彼の風貌ゆえであろう。仙人といえば聞こえはいいが、暗い場所にいたら骸骨にしか見えぬ。骨と皮だけ、とはよく言ったものである。
朝旺粛から滲み出る深い愛は変わらないが、ついこの間まではその福々しい丸顔が相好を崩すと、どんなに悲しんでいる者でもつられて笑ってしまったものだった。だが、今は …。
轟掩は泣きそうになるのをぐっ、と堪えて椅子に座ると、膝の上に赤子を立たせて、腹の底から声を出した。大きな目がこぼれんばかりに開かれ、威嚇しているようでもある。
「ほら、やっと娘を連れて来れましたよ。名は可菓と言います。さ、大先生にご挨拶なさいっ。」
首もろくに座らぬ赤子は、背中に母の大号令を浴びた訳だが、委細かまわず縦に体を真っ直ぐにしたまま、寝息を立てている。
「可菓。轟可菓か。良い名だの。しかしお主、赤子はもっと大事に扱いなさい。」
「うふふ。この子は強いですよ。」
「こんな暑い日に、生まれたばかりの赤ん坊を連れて来おって。轟可菓の体調が崩れたらどうするんじゃ。この庵に来るのは、もっとあとで良かったのだぞ。ほら、そんな格好させてないで、寝かせなさい。ごほっ。」
ふいの咳を堪えられず顔をしかめる
老爺を見て、
(もう。「あと」じゃ間に合わないから無理して連れて来たんじゃないのさ。)
と、轟掩は内心、尊敬する老学頭に悪態をついた。
だが、肝心の朝旺粛先生はそんな轟掩の心中は一向に悟らず、咳き込み咳き込み、喋っている。
「わしのことなど放っておけ。赤子だけじゃないぞ。産後は母体も安静にせねば。大事にな。しかしおお、可愛いのお。」
一通り心配したあとで、赤子に注意が向く。母の膝に横たえられた乳児の顔を病床から覗き込んだ。
「鼻も、口も、手も。小さい、小さい。なんと可憐なこと。だが、この子はな、お主に似て、いやお主より器量が大きいかもしれんな。ごふっ。」
咳をするときは顔をそむけるが、とにかく赤子を凝視し、真剣な面持ちで語る。
「だから言ったじゃないですか。この子は強いって。」
「暑さに強いとか、どこでも寝れるとか、そんな類いの話と違うぞよ。人間としての器量のことを言っているのだ。ごほ。」
そして、咳をしながら、傍らの侍童に目配せした。はい、と応えて侍童は寝室を退がった。
老師が人払いをするなど、初めてのことだ。
朝旺粛は何か、言おうとしている。
そう思った轟掩はなぜかそれを阻止したくなって、侍童の姿が消えると同時に、
「旺粛先生っ。」
と、師の病床に取りついた。
「ぐ。な、何だ。」
「私が受け継いだ火筒の研究は、この子に必ず引き継がせます。」
轟掩は肥り肉を震わせながら、一気に、言い切った。
朝旺粛は、落ち窪んだ両目をくわっ、と見開いた。
轟可菓は寝息を立てている。
「轟掩よ。」
温和な朝旺粛が、眉根を寄せ、その声に若干の厳しさがあった。
「まだ赤子ぞ。」
「え。はい。しかし、火筒の研究はこれからも長い時間をかけて取り組むべき課題。そして、先生の大きな成果を無にせぬために、私の後継者まで定めて、のちのちまでの研究体制を確定させておくべきでは。」
「まずは、お主まででよい。」
その言葉に轟掩が口を尖らすのを確認すると、げっそりと頰のこけた顔を病人と思えぬほどの力強さで、大きく振り始めた。
「轟掩よ、気が早すぎる。数祖が仰られたが、人間の性質は左程遺伝せぬ。お主には確かに数理の才がある。火筒の改良研究にはうってつけ、我が大然学に適した人材じゃ。だが、この轟可菓にどんな才能があるかは分からぬ。幼い頃になるべく多くの可能性を試し、適性を見つけ、その道に誘う。それが親ではないか。ここ璃楠は数祖がそのような街にしてくれているではないか。」
数祖 ― 大然学の開祖である数銃 ― が、開発したこの璃楠の街。密林の隙間に埋まるように建つ学校の数は、街の規模の割にかなり多かった。大然学の中心を為す、理数物理の学校から、芸術文学の学び舎まで、分野は幅広く、研究施設から幼児が預けられる幼稚舎まで、年齢層毎の対応も充実していた。
この街では、興味があれば何でも学び、究めることができる。「数祖」数銃の目指した学究都市が、この璃楠の街に具現化していたのである。
「そうですけど。火筒の性能が強化され、量産されれば、この斐界から戦乱が無くなります。兵が斬り合うことはなくなり、火力の弱者は、戦争する前に強者へ従いましょう。だから」
「だから、お主の代に研究が終わらなかったら、適性ある者に継がせてくれ。ごほっ。親娘の情は抜きにして、火筒研究に適した、細心の注意を払いながら、かつ根気強く検証できる、視野が広くて数理的に、論理的に思考できる研究員に、な。」
朝旺粛の言うことは全て正しい。
轟掩は口を尖らせたまま、沈黙するしかなかった。火筒という、強力な兵器の開発だから、研究者に多くの条件が求められるのは当然である。だが、それならなおのこと、自分はなぜ朝旺粛の後継に指名されたのか。
(私は、激情型だと思うけど。今出た基準で言えば、明らかに不適格だわ。)
沈黙してしまった轟掩を見て、いまだ不服そうに見えたのであろう、朝旺粛は話を続けた。
「お主の娘が、もし武勇に優れるなら武官にすればよい。利殖の才あれば、商人でもよい。彼女が民心の安寧を志すなら、それこそ漂空教に入信させて空師にでもすればよい。」
「分かりました。璃楠の街で、この子が進むべき道を、慎重に探します。」
轟掩が同意したので、朝旺粛の眉間の皺は消え、にこりと笑った。
こう言った方が師としては安心する、と考えて妥協したのである。母親の勘で、愛娘は大然学の物理研究に向いているような気がしてならなかった。轟掩はその予感を胸の奥にしまいつつ、違う形で師に反抗した。
「しかし先生。いくらなんでも空師にはしたくないのですが。」
すると朝旺粛は落ち窪んだ両目を悪戯っぽく見開いて、乾いた声で笑った。
「そうか。そうじゃったな。漂空の教えを狂信して奏同啄飯道でもやられたら、戦が無くなるどころじゃないな。はっはは。」
「そうですよ、もう。漂空教とか、啄飯道とか、私には禁句です。」
「すまん、すまん。それこそ、この子に父親の血が遺伝したことになってしまうな。はは」
とまで笑ったところで、朝旺粛はうっ、一言詰まらせた。
「あら。先生。どうされました。」
「う。ごほっ、うむ。」
そうして急に、喉を両手をかきむしった。その直後、寝台に仰向けに倒れ、ぐわああ、と断末魔の呻きをあげ、喉を、胸を抑えて痙攣しだした。
「ああ?先生!」
轟掩は赤子を傍の飾台に横たえてから、素早く師の首下に手を入れて気道を広げた。白目を剥き、泡を吹いている。そして大声で侍童を呼んだ。
「先生が倒れたあ!早く来てえ!」
旺粛先生はすぐ亡くなる。もう助かるまい。
大然学の為に尽くされた大先生だ、璃楠を挙げての大葬とせねばならない。皇室や拾閣、各州王、珥州州内の有力者など案内は多方面に渡る。いやさ、熱方、蝶佳、泪恋、陸島など外洋の支援先、火筒の購入先も忘れてはなるまい ―
朝旺粛を助け起こしながら、轟掩はその人亡き後の流れを冷酷な程に、素早く想い巡らせ始めた。
侍童が血相変えて飛び込んで来、程なく近くの担当医も駆けつけて草案の中は大騒ぎとなったが、飾台の上の我が子は変わらずに静かな寝息を立てている。
轟掩の大きな瞳が冷徹な色から、すぐに母親のそれに戻る。
(やはり旺粛先生は、この子との対面を待っていたんだわ。)
と考えると同時に、こういう非科学的な思考が大然学では、研究の妨げになるのよね、と内心で舌を出した。
眞暦1861年8月。
十九年前に火筒を発明した朝旺粛はその運命を閉じたが、それと同時に戦乱を激変させる「震罵砲」の研究史がここに始まったのである。だが、その完成には二十八年の時を待たねばならない。
穏やかな大然学の教都、璃楠は、珍しく街中が騒然とし始めている。
真夏の太陽の下、街の緑はいよいよ濃く、白灰の家々がその隙間に見え隠れしていた。
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珥州




