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エンターキーを模した空中のホログラムを、神林の血濡れた指が叩く。
爆音も、閃光も、吹き荒れる衝撃波すら存在しなかった。
ただ、システムが『そう処理した』という絶対的な事実だけが、空間を静かに上書きした。
神林の鼻先まで迫り、今まさにその喉笛を食いちぎろうとしていた異形の群れが、まるで映像のフリーズのようにピタリと静止する。
次の瞬間、何十体という巨大な質量が、一斉に無機質なピクセルのノイズへと分解された。彼らは悲鳴を上げる間もなく、空間のエラーデータとしてデリートされ、跡形もなく霧散していく。
後に残ったのは、元の静寂と、カビ臭いダンジョンの冷たい空気だけだった。
神林は、弾け飛んだ右膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
肉は裂け、骨は原型を留めていない。どす黒い血が、作業着を伝ってぼたぼたと石畳を汚している。
だが、神林の網膜には【物理破損:許容範囲内。動作権限を継続します】というシオンからのアナウンスが点灯していた。脳への痛覚信号は完全に遮断され、砕けたはずの足は、システムによる強制的な補正を受けて真っ直ぐに床を踏みしめている。
痛みのない欠損。自らの肉体が単なる『器』に成り下がったような、グロテスクな感覚。
だが、今の神林にとって、それは極めて合理的で快適な状態だった。余計なエラー信号に振り回されず、純粋な思考の速度だけを維持できる。
神林は、遠くへ続く薄暗い通路へと視線を向けた。
視界を通せば、分厚い壁の向こう側すら透けて見える。
そこには、自分を囮にして一目散に逃走を続けるリーダーたちの生体反応が、青い光点となって表示されていた。彼らはまだ、背後で起きた異常事態に気づいていない。
「シオン。あの男の思考ログを抽出できるか」
神林の問いに、視界の隅に立つ美しいアバターが、ふわりと優雅に微笑んだ。
『はい、管理者様。対象の【思考監査】を実行します』
シオンの無機質な肯定と同時に、神林の網膜に、ゲームのチュートリアルのようなポップなデザインのウィンドウが展開された。
可愛らしいピンク色の太字フォントが、軽快な電子音とともに次々とテキストを打ち出していく。
『対象の脳内ログをチェックします……』
『クチの動き:「神林の尊い犠牲は忘れない! 俺たちは生き延びて、ギルドに報告する高貴な義務がある!」』
『腹のナカ:「あいつを肉盾にしたおかげで助かったぜ。あの底辺ポーターの分の報酬が浮いたから、今夜はいい酒と女が抱けそうだ」』
パァン、と。
ウィンドウの中央に、派手なエフェクトと共に赤いスタンプが押される。
『判定:【大嘘】です。致命的な矛盾を検出しました』
シオンの明るく親しみやすいアナウンスが、神林の脳内に響く。
そのポップで軽薄なインターフェースと、そこから抽出された人間の生々しい悪意。
激しい落差が、世界がいかに狂ったロジックで動いているかを如実に物語っていた。
神林は、血に濡れた右手で再び空中のコンソールに触れた。
胸の奥で燻っていた不快感が、絶対的な論理の冷たさによって急速に凍りついていく。
怒りではない。悲しみでも、復讐心でもない。
これは、システム管理者としての、純粋な嫌悪感だ。
彼らが口にする『絆』や『正義』といった美しい変数。
その裏側で実行されている、搾取と保身という醜悪な裏コード。
「……前提が間違っている」
神林の昏い瞳に、冷酷な光が宿る。
彼は一切の感情を排した手つきで、キーボードのホログラムを叩いた。
「こんな腐った変数が世界を回しているからダメなんだ。——バグは、消去する」
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