第41話 船上
「何だか、静かになったもんだね」
部屋の窓から太陽が沈む水平線を見つめて、イザベラが呟く。
「本当に。夢を見ていた気さえしますね」
ベッドに腰掛けるイザベラの隣に、静かに横たわったジョンが何時ものように微笑む。そんな二人の部屋の壁に掛けてある月桂樹の冠が、船の揺れと共に左右にゆらめく。
イザベラの金の髪から、微かに薔薇の香水の香りがする。
「船酔いは?」
「幸いなことに、これが全然平気でして」
「海風は肺を痛めかねないから程々に、だっけね」
ベッドの反対側に、吸入器が立てかけられている。ジョンが、静かに問いかけた。
「僕で、良かったのですか」
イザベラが、静かに笑う。
「……ペンが剣より強いなら、あんたには、剣で勝てないってことだろう。それに、あんたは私を、ペンで変えてみせた。だからジョン、あんたは私よりも強い男だ。死神になんか、渡さないことにしたよ」
揃いの銀の指輪をつけた指と指とが絡み合う。
「そういえば、あと三日で二十歳です。二十歳まで生きられない、と言われていたけれど、こんなに頼もしい見張り番がいてくれる。死神とやらも当分はこないでしょうね」
「三日後か。エールランドに到着する日じゃないか」
「不思議なものです。船でゆっくりこうして養生していれば、陸に上がっても大丈夫でしょう。ああ、でも、車椅子があるといいかもしれない」
「あの吸入器を取り付けられないか、港に着いたら職人達に聞いてみようか」
「いいですね。もう旅は出来なくとも、見てみたいものはいっぱいあるのですから」
「はは、相変わらず貪欲だ。あんたの、そういうところが好きだよ」
「僕は、僕より自由な人が好きです。だから僕はあなたのものだ」
二人が再び視線を交わし合う。
「馬鹿だね。じゃあ、半分だけ貰っておくよ。私は、私より強い男が好きなんだからね。……ああ、でも、半分で足りるかわかりゃしない。こうなると、全部、欲しくなる。あんたは貪欲で、私は強欲なんだ」
そして、言った。
「……もう、後継を残せるかどうかは、お互いあやしいもんだ。けれど、私達にはポーリーがいる。私達を繋いでくれた、それでいて最高に幸せにしてやるべき存在がね。で、考えたんだよ。賞金の、最高の使い道ってやつだ。聞くかい?」
「もちろんですよ」
ポーリーが静かに算盤を弾きながら、複式簿記の本を何度も何度もめくる。読み書きも覚え、得意な計算もこうしてつつがなく学べている。幸せなことだ。
もしもあの港町でどこぞに売り飛ばされていたら、経験できなかったはずのことばかりである。
思わず窓の外を眺めて、太陽が沈む水平線に視線を投げる。
今は亡き自分の故郷は、あの水平線の向こうにあったのだ。燃える太陽を見て、久々に、かつての、旅をすることになる前の、穏やかだった日々を思い出す。
(ワスレナクテ、イイ)
誰よりも優しい男と、誰よりも強い女が、自分にそう言ってくれたのだ。夕暮れの洋上の空に星が瞬き、船が微かに揺れる。
ひとり部屋を後にすると、甲板上に出て、大陸で出会った仲間たちの顔を思い浮かべながら、脚をうんと伸ばしてその場に座り込む。
「……ハヤク、オオキク、ナリタイナ」
イザベラのような強さと、ジョンのような優しさを兼ね備えた、最高のレディ。二人のための最高のメイド。
きっとこれから、自分の『黒真珠のような』手脚は長くなっていき、小さな少女から、レディ、という言葉に相応しい女性になっていく。
けれど、そうなっても自分は、海の向こうの故郷を忘れることはないだろう。けれど少しずつ遠くなっていく、故郷での思い出をかき集めていくように、ポーリーは一人、海を眺める。
「……オー、ホー、ヤー、ホー」
故郷の子守歌の一節が唇から漏れてくる。遠いいつか、誰かと所帯を持つことになったら、故郷の話をいっぱいしてやりたい。歌や言葉を聴かせてやりたい。
いっぱい、色んなことを覚えてきた旅の最後に、こうして故郷を思うことになるとは。
「オオキク、ナッテモ、ワスレナイ、ヨ」
ジョンも、イザベラも、その仲間たちも、自分の言葉の訛りを矯正しようとすることはなかった。その理由を聞くようなことはしなかったが、それは、自分にとって何故かとても暖かかった。




