第37話 kiss and cry
「……また、負けてしまったな、皆、すまない」
コロセウムの中央からガドが戻ってきて、最前列で待っていた部下達に言った。
「いえ、いえ、本当に、良い戦いでした!!」
「我々一同、誇りに思っております!」
部下達が口々に、揃って少し涙声で言う。ポーリーが駆けだして、大柄なガドの脚をきゅっと抱きしめる。そして、驚いた大柄の男を見上げて、言った。
「ガド、ガンバッタヨ! ポーリー、アタラシイ、ハンカチ、アゲル……」
ガドが目を丸くして、笑う。そして、そっとポーリーの黒い髪を撫でる。
「ありがとう、小さきレディ。思えば、あなたがいなかったら、俺もここまで来ることはなかっただろう」
そういったガドの額から、一筋の血が流れ落ちた。
「タイヘン、ガド、ケガシテル。ポーリー、ツイテイクネ。オヤブン、イイ?」
静かに二人を見守っていたイザベラが頷いた。
「しっかり診てもらってくるんだよ。決勝はこのあとすぐだ」
二人が救護室へと向かうのを見送って、ジョンが聞く。
「疲れていませんか」
イザベラがそんなジョンに言う。
「あんたこそ、顔色が良くない。とっとと試合を終わらせて、皆で優勝祝いで美味いもんを食いに行くよ。けどその前に、ジョン、ちょっとこっちに来ておくれ」
ちょっと小首を傾げてから、ジョンがゆっくりと立ち上がってイザベラの元へ行く。そんなジョンの細く白い顎をくい、と指先で持ち上げて、イザベラが言った。
「……ちょっと元気が欲しくなった。借りていくよ。後で返しな」
形の良い、試合直後の熱く火照った唇が、少し血色の足りない冷たい唇に触れる。
救護室に行きかけたガドとポーリーが思わず振り返って、同事に声なき声を上げた。
最前列のガドの部下達が一斉に口笛を吹いたり、歓声を上げたりと沸き上がる。ジョンが、しばらく言葉を失った後に、呟く。
「……天にも昇る心地でしたよ」
「あんたがいうと洒落にならないよ……」
視線と、視線が交差する。視線というのは、このように熱いものだったのか。夢見たことも、ペンで記したことも、あったはずだというのに。
「僕には、まだ書いたことがないものが多すぎる」
「私達にはまだ、まだ見ぬ景色ってやつがある」
「ええ。共に見ましょう。待っています」
一種の照れの様なものをまるで隠すように、イザベラがくるりと踵を返す。そして、最後の対戦相手が待つ場内中央へ、堂々と歩いていった。
スキップするように、機嫌よく左右に揺れながらポーリーが言う。
「クチヅケ、シッテル。オトナト、オトナノ、タシナミ……」
「そうか、大人の嗜み、か。あの二人は、一応は『夫婦』だったはずだが」
「デモ、ハジメテ。タブンダケド!」
コロコロと笑っていたポーリーが、救護室の前で足を止める。
「どうかしたのか」
「チガ、ツイテル……」
「……おかしい、まだ新しい。今日は他に試合はないはず。誰か……中にいるのか!?」
反射的にポーリーを後ろに庇い、ガドは素早くドアを開け放った。
「センセイカラ、ハナレテ!! イヤナヤツ!!」
黒髪の男の背中にぶつけられた小さな靴が、転々と床を転がっていく。男が振り返ると同時に、ガドが目を見開いた。
「どうして……どうして兄上がここに!?」
突然喉を押さえられ、今まさにその黒髪の男が懐から取り出した短剣で刺されるその寸前だったレイモンドが声を上げる。
「ポーリー!?」
「センセイ、ソノヒト、イヤナヤツ!! ニゲテ!!」
男が再度振りかぶった短剣の下から、レイモンドが転がるように逃げ出す。空を切った短剣を、駆け出したガドが力いっぱい蹴り飛ばした。くるくると回転して宙を舞った短剣が、天井に突き刺さる。
「ガドか。久しぶりの再会だな。お前の兄だぞ。もっと喜んではくれないのか」
ガドとポーリーの立つ後ろまで、息も絶え絶えに逃げ込んだレイモンドが思わず呟く。
「まさか、本当に……」
ガドが呻くように答える。
「俺の、兄だ」
「じゃあ、例の槍試合で……」
「ポーリー、『マジョ』ッテ、ヨバレタ。ユルシテナイ」
「またあのイザベラ・トゥールボットに負けたらしいな。気分はどうだ」
ガドが大きく息を吐き、兄であるユーリッヒを真っ直ぐに見据えて言う。
「最高の気分だ」
鼻を慣らしたユーリッヒが笑う。
「それは良かった。敗北の味を美味と言い張る弟など、今の私には不用だ」
「…………」
「ゆえに、手は打っておいたぞ。そろそろ、決勝戦が始まるのではないか?」
「手を打った、だと」
ユーリッヒがポケットから、空になった小瓶をガドへと投げる。片手でそれを思わず受け取ったガドが、瞬時首を傾げてから息を呑む。
「これは……」
「あの悪魔を殺すのに毒を使って何が悪い。オルガーノ・ポルティーズも了承した。多額の金と、そして心の中にあるなけなしの名誉と引き換えにな」
「まさか」
闘技場の会場の方から、熱気が湧き上がる。そして、コールが鳴り響く。
「両選手、入場!!」
轟音のように沸き立つ場内。その声に掻き消されんと、レイモンドが叫ぶように言った。
「毒だ!! こいつ、イザベラさまの対戦相手の剣に、毒を……」
思わずガドが声を上げる。
「しまった……!!」
選手入場の後は、もはや誰も試合中の者達に手出しも口出しもすることはできない。それがコロセウムだった。思わず唇を噛むガドに、
「誰もが、お前のように生きられると思うな」
ユーリッヒが皮肉交じりに鼻を鳴らして言う。ガドが、きっと目を細める。
「もしも兄上が彼女を魔女と謗らなかったら、俺はまだアルヴァマー領にいたかもしれない。だが……」
ガドが片手で背中の剣を抜き、もう片手で凄まじい速度で兄ユーリッヒの懐を掴み、持ち上げるように壁に叩きつけ、その服を剣で壁に深々と縫いとめる。
「共に生きたいと思わなくなったのは、誰のせいか、そこでゆっくり考えておくといい!! レディ、それに……」
「教師のレイモンドです。外で、オルガーノが、剣に毒を塗るのを見てしまって、それで……!」
撃たれた肩が凄まじく痛むが、もはやそれはどうでもよくなっている。
「戻るぞ」
「イソイデ!!」
ポーリーの靴と、床に転がっていた包帯を引っ摑み、レイモンドは二人の後ろを走りだした。




