第32話 予兆
「ガド様、お手紙です。アルヴァマー領からですが……」
「アルヴァマー領から?」
ガド・エーケンハイムが鎧兜を磨く手を止めて、部下が差し出してきた手紙を受け取った。
「公爵様の侍従長……兄に何かあったのだろうか」
森林官の兄ユーリッヒはアルヴァマー領にいるはずである。職務に忠実であり、その忠実さのためなら手段を選ばない男。袂を分かつことになったが、それまで兄弟仲は悪くはなかった。
もっとも自分が精神的には兄の影に隠れ、兄はそんな未熟な自分を利用する、そういった間柄ではあったが。
「……兄が部下複数と姿をくらました?」
思わず自分の部下達と顔を見合わせる。
「ランドルケーヘン大聖堂に詣でたまま、そのままふっつりと……大聖堂では……あの三人と!?」
信仰心には篤くないが、復讐となれば話は別である。兄は決して恨みだけは忘れない男だった。
「手が空いている者がいたら、ちょっとコロセウムの受付まで行って来てくれ。兄のことだ、どんな手段を使ってでもトゥールボット卿の邪魔をしようとするだろう。もっとも、コロセウムは前科前歴を問わない故、心配はないが……何かをしに、姿を現すかも知れない」
思わず深々とため息をついてから、ガドは静かに考え込む。
「俺はトゥールボット卿のところへ行ってくる。ああ、一人でいい。代わりにこれをしっかり磨いておいてくれないか」
そして立ち上がると、磨いていた最中の鎧兜を部下達に預けて、宿を出て行った。
「絶対安静です」
医師が深々とため息をつく。
「命を惜しまないのは、コロセウムの連中だけだと思っていましたよ」
ジョンが静かに微笑む。
「……それで、どのくらいですかね。決勝の日まで、身体がもってくれればそれでいい」
「……残り、ですか」
医師が、トム・スタッフフォード卿の紹介状を手に、言い淀む。
「決勝の日まで持たせたければ、絶対に無理をしないことです」
「二冊目の詩集を天国で出版する羽目になる、と」
「察しの良い患者ほど医師にとって助かるものはありませんが……まあ、そうなるでしょう。エールランドからここまでこられたのは、奇跡のようなものだと思ってください。来月には二十歳の誕生日とのことですが」
「迎えられますかね」
「今のあなたの病状からすると、もはや五分五分、いや、七部か八分くらいの割合で、あなたは『早世詩人』の仲間入りですよ。肺が片方、もはや機能しているか怪しい。心臓も弱っている。薬も処方しますが、とにかく栄養のあるものをとって、養生してください」
「ありがとうございます」
病院を後にして宿に戻ると、部屋の灯りが既に灯っていた。そして
「センセイ、マタ、アシタ!」
ポーリーの声がする。
「きちんと準備しておくように。おや……」
聞き慣れない声とともに、眼鏡をかけた、自分よりやや年下の青年と鉢合わせ、ジョンは目を瞬かせる。
「ゴシュジン! オカエリナサイ! ポーリー、サンスウノ、センセイ、ミツケタヨ!」
ぱたぱた、とポーリーが駆けてきた。
「……それは良かった。こちらもちょっとばかり、お医者様の元に立ち寄ってまして。あなたは……学生さんですか」
「え、あ、はい。レイモンド・ハノーファーと、申します」
詩人というのはこんなにも静謐な印象なのか、とレイモンドが思わず眼鏡を直して言った。
「イザベラさまにもお会いして、許可も頂きました。お嬢さまへ、数学を教えることになりまして……えっと、その……」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。僕は身体が弱いので、宿にいる事の方が多いでしょう。授業はお任せします。授業料は……」
「えっと、そのことなんですが」
「オヤブンガ、ユウショウシタラ、三バイニナルヨ!」
思わずジョンが笑いをこぼす。
「きっとイザベラさんが堂々と仰ったのでしょうね。彼女が言うなら何も問題はありませんよ。ポーリーの算術の授業、宜しくお願いしますね。隣の部屋にいることも多いと思いますが、あまりお気になさらず。僕の名前はジョン・アランドール。詩人です」
握手の手がびっくりするほど冷たい。思わず硬直しそうになるのをなんとかこらえたレイモンドが、握手を返しながら言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。その歳で詩集を出版されるとは、すごいことです。詩学と詩論、大学できちんと学んでおけばよかった」
「大学で学べるのは幸せなことですよ。詩でわからないことがあったら聞いてください。僕で良ければ」
「助かります」
イザベラとは真逆ともいえるような青年だが、色素の薄い目が不思議と印象深い。柔らかい声の、少し年上の青年詩人。
一体どういう経緯で、この雰囲気も何もかもが異なっている三人が共に居るのだろう。
不思議で仕方なかったが、それもそのうち判明するだろうと、レイモンドは湧き出かけてきた問い掛けを喉の奥にぎゅっと押し込んだ。
「トゥールボット卿!」
宿の近くの道端で声をかけられる。日は既に落ちているが町が賑わっているためか、家々やまだ開いている店の灯りのおかげで明るかった。
「おや、ガドじゃないか。どうかしたのかい、こんな時間に」
「我が兄が姿を消した。きっと貴殿らへの復讐を考えているのだろう」
「何だって?」
ガドが深々と溜息をつく。
「トゥールボット卿の強さは俺が多分一番知っている。だから心配はしていない。ただ、問題なのは、かの小さなレディと卿の夫君だ。兄は恨みを絶対に忘れない男だ。手段も選ばない。多分、今でもそうだろう……」
一笑に付そうとしたイザベラが、笑いではなく真剣な顔になって呟く。
「……そうだねえ。私があんたの兄さんだったら、そうするだろうね」
「そう思ってな。この町にいるかどうか、まだ定かではないが、部下達にも探らせようと思っている。どうも、悪い予感がするのだ」
そして、少し自嘲気味に付け加える。
「俺は兄の言いなりだった時期が長いからな。……わかってしまうんだ。ここぞ、というところで、何かを出してくる」
イザベラがふっと笑い、言った。
「知らせてくれてありがとうよ。ジョンとポーリーにはよく注意するように促しておくよ。あんたも、今日のところは一旦帰って部下達と一杯引っかけてよく眠ることだ。何かわかったら連絡しておくれ」
「ああ、そうしよう。それと、手の空いた部下達でそちらの宿をそれとなく見張っておこう。何もかもが、杞憂であればいいのだがな……」




