第31話 算盤
「君、珍しいものを持っているね」
コロセウム脇の路地で、ポーリーの肩を誰かが叩く。反射的に果物の入った籠を抱えながら三歩ほど後ずさったポーリーの前に立っていたのは、眼鏡をかけた若者だった。年の頃は主人のジョンと同じ頃か、もう少し年下だろうか。
「ポーリー、メイドダヨ。サンスウ、デキナイト、コマル」
「どこかの家で雇われてるのか。しかし、東の国の算盤を持ち歩いているとは。それ、君、使えるのか?」
「ツカエル。ポーリーノ、フルサトノト、オナジ、カタチ。オニイサン、アヤシイヒト? イイヒト?」
「ただのしがない学生だよ。この街に興味があって来た。専攻は数学だ。でも、どちらかといえば実用性を求めていてね。幾何よりは簿記や複式簿記が好きだ」
「フクシキボキ?」
「といってもわからないか。まあいいさ。でも算盤を使いこなせるのに簿記を知らないとは、もったいないな」
ポーリーが思わず聞く。
「……ポーリー、サイコウノ、メイドニナル。『フクシキボキ』、ヤクニタツ?」
若者が、眼鏡の位置を少し直してから答える。
「もちろんさ。家のメイドにもいろいろあるだろう。家計を預かるメイドだっている」
「ウン、シッテル」
「この新しい簿記は、最近出来た『銀行』にも採り入れられているらしい。やり方は……」
「オニイサン、ナマエハ?」
「ああ、いけない。僕の名前はレイモンド。レイモンド・ハノーファー。そろそろ路銀が尽きそうで、家庭教師先を探していたところだ」
「カテイキョウシ……サンスウ、ノ、センセイ?」
「そういうことだよ」
ポーリーがレイモンドの眼鏡の奥の瞳を凝視する。
「……オヤブン、ト、ゴシュジン、ニ、タノンデモ、イイヨ。ポーリー、センセイ、ガ、イルト、スッゴク、タスカル」
「頼むって……親分に、ご主人?」
「ポーリー、『フクシキボキ』ノ、センセイ、ホシイ」
剣を手にしたまま柵ごと豪快に吹き飛んでいった男の身体を見送ったイザベラの元に、ポーリーが駆け寄っていく。
「ポーリー、サンスウノ、センセイ、ミツケタヨ!!」
イザベラが顔を上げて、
「そいつは良かった。そろそろ迎えに行こうと思ってたけど、そっちから来てくれるなんてね。これでちょうど七人目。予選もつつがなく突破だ」
何事もなかったかのように笑う。そして、眼鏡の奥の目を見開いたまま、その場で棒立ちになっているレイモンドを手招きする。
「ポーリー、ノ、オヤブン!」
恐る恐るコロセウムの練習場に足を踏み入れて、レイモンドが眼鏡を何度も何度も直しながら頭を下げる。
「え、えっと、その……レイモンド・ハノーファーと、申します。大学で数学を学んでいて……」
「取って食ったりしないから安心おし。うちの可愛いポーリーに算数を教えてくれるんだろう? 特技は伸ばしてやりたいけど、私達じゃあなんともならなくってねえ。私の名前はイザベラ・トゥールボット。このポーリーの『親分』さ」
「お、親分……?」
もしかしたら自分はとんでもない仕事を引き受けてしまったのではなかろうか、と言わんばかりに直立不動で立ち尽くすレイモンドに、
「つまりは家庭教師ってやつだろう? 授業料をケチるような真似はしないよ。もっとも、教えてもらう期間はまだ決まってないんだけれど……あんた、コロセウムの日程は知ってるかい?」
イザベラが問う。
「は、はい、一応は。この街の暦表にはどれにも全部書き込まれていますし……」
「春の大会の、最終日までだよ」
「さ、最終日……ってことはまさか」
「決まってるじゃあないか。最後の日まで戦って優勝する。そうすりゃ、あんたへの報酬も、きっちり三倍にしてやるよ!」
レイモンドが喉をひゅっと鳴らし、眼鏡をかけ直す。そして、深々と頭を下げ、直立不動のまま片手を差し出した。
「ポーリーお嬢さまへの家庭教師、謹んで引き受けさせていただきます!」
その手を力強く握り返し、呵々と笑う。
「じゃあ、頼んだよハノーファー先生!」
「ポーリー、オジョウサマッテ、ハジメテ、イワレタ。センセイ、イイヒト」
「いやあ、想像以上にすごかったな、君の『親分』は……」
「オヤブン、ツヨイ! ユウショウ、スル。ゼッタイ!」
「そうなれば三倍の報酬だ。この町にも銀行が出来れば良いんだけど」
「ギンコウ?」
「お金を安全に預けたり、色々あれこれ工夫して、預けたお金を増やしたりするところさ。メイドならそういうのにも詳しくあるべきだね」
宿に戻ると、机の上に紙が一枚置かれていた。
「……ゴシュジン、オイシャサマノ、トコロ、イッテル」
いつもなら必ず自分と行くはずなのに、何かあったのだろうか。思わず首を傾げるが、
「君の『ご主人』さまとやらは、どんな人なんだ?」
レイモンドに問われて、ポーリーは振り返って答える。
「トッテモ、ヤサシイヨ!」
そして、窓際に置かれていた緑色の詩集を手渡す。
「僕には詩の良し悪しなんてちっともわからないけど……いつも詩学と詩論だけは追試くらってたからなあ……」
奥付にある著者紹介を見て、
「ジョン・アランドール……って、まだ若いじゃないか。てっきりさっきのイザベラ親分さまと同じくらいの歳の人を想像していたよ」
レイモンドが目を丸くした。ポーリーが笑う。
「ポーリー、ヲ、タスケテクレタ。イノチノ、オンジン。ポーリー、モウ、コキョウモ、ナニモカモ、ナイケド……『ココニアル』ッテ、イッテクレタ」
そして、自分の胸を差す。
「心の優しい詩人なのか。そうか、それに……君も苦労したんだな」
「ウン、ポーリー、イマ、トテモ、シアワセ」
「そのご主人と親分さまのために、数学を勉強して、すごいメイドになりたいってことか。……話はよくわかったよ。協力は惜しまない。なんてったって三倍の報酬だ。あの親分さまなら、数学的な確率なんてものをぶち抜いてでも優勝できそうだ。なんだかそんな気がしてしまったのさ。僕ともあろうものが、だよ」
レイモンドが笑う。そして、机の上にあった紙を一枚手に取って、言った。
「さあ、まずは、コロセウムの日程に合わせた勉強の計画を練ろうか」




