第20話 薔薇
主祭壇の下で司祭が首を傾げる。
「そろそろ正午の鐘の時間ではなかったかね」
そこに、大柄の鐘撞き男がのっそりとやってきた。
「それが……二階にあがる階段に迷子の子供がいてですね。遠い国からきたようで、言葉が通じないんですよ」
「おや、それはいかんな。しかも迷子か。捨て子でなければ良いのだが」
「へ、へえ。わしも司祭様に拾って貰った身ですからして」
「そうだったね。では、見に行くとするかね」
しばらくすると、ポーリーが大柄な鐘撞き男と司祭を鐘撞き場へ連れてきた。
「あなた方は? ここは立ち入り禁止……というわけでもないが」
「司祭殿。僕の名前はジョン・アランドール。実は今少々厄介ごとを抱えておりまして、少しばかりお力をお借りしたく……」
深々と頭を下げ、ジョンが言った。そして、自分達の経緯を手短に話す。
「……教会内の流血は禁じられているのは重々承知しておりますが、かといって、僕らとしては、外に出た途端に八つ裂きにされるのは御免こうむりたい状況でして」
「もっとも、こっちでさっくり八つ裂きにできなくもないんだけどねえ……」
司祭が驚いて目を丸くする。
「……私の名前はイザベラ・トゥールボット。こんな良い感じの聖堂があるんなら、故郷の島エールランドの土地にひとつ、改めて寄進してやって良いって考えてたところさ」
「ほほう。そなたらはあの西の島から? あそこはすっかり荒廃してしまったと聞いているが……」
「ちょうどそこで相争っていた、我らがアランドール家とトゥールボット家も、財産が『一体化』している頃合いです。今なら故郷の島に布教活動も出来ることでしょう」
「もうぼろぼろの教会を野営地にするような戦争は終わってるから大丈夫さ。私とここに居るジョンの名義で、舗装された道だの聖堂だのをおったてるには、ちょうどいい頃合いになっているんだけどねえ?」
「もちろん、証文なら今すぐ書きますよ。紙とペンはちょうどここに持ち合わせがありまして。これも神様の思し召しでしょう」
司祭が身を乗り出した。
「ほう、信心深い若君だ。それにあの島のことは我々も気にかかっていてな……ずっと寂れたままでは神もお嘆きになっているであろうて」
「司祭様の慈悲深いお心に感謝を。それでは、ちょっとだけ、この鐘楼と、そこの身体の大きな御仁のお力をお借りしたく。それと、そこにある薔薇の花びらの袋も」
ひときわ大きな鐘の音が、割れるような音で鳴り響く。その途端、薔薇窓の真上の鐘楼の窓から長い長いロープに捕まり、大きな袋を手にした女が一人飛び出した。
「イザベラ・トゥールボット!!」
大聖堂の外で見張っていたユーリッヒ達の頭上を弓なりに超えて、イザベラが宙を舞う。
そして、薔薇の花びらの入った袋をクッションに、馬車の屋根へと飛び降りた。そのまま御者台に飛び移ると、馬に鞭を当てる。
「行くよ!!」
薔薇の花びらを纏うように走り出した馬車が、薔薇窓の下を目指して駆ける。
「ポーリー、僕にしっかり捕まって。大丈夫。怖くない」
証文を懐に入れた司祭が言った。
「我らを再び西へ導かんとする善き者達に、神のご加護の在らんことを!」
鐘撞き男が長いロープを引き寄せる。ポーリーと共にそれを手にしたジョンが、ぐっと息を呑んでから、窓枠に登る。
「今です!!」
美しい薔薇窓から滑り落ちるように、クッションのように馬車の屋根に置かれた、薔薇の花びらの詰まった袋目がけて、ロープを掴んだジョンとポーリーが飛び降りた。
辺り一面が、飛び散った薔薇の花びらの香りで満ちかえる。
「上出来だ! 二人とも!!」
イザベラが快哉を叫ぶ。窓の上を見ると、司祭がにんまりと笑って手を振るのが見える。
「やっぱり時には神様に祈っておくのも大事ですね」
そんな司祭に手を振り返してから、走る馬車の屋根から中にポーリーを降ろし、ジョンも続いて滑り込む。
「いっそ神様を讃える詩を作るかい?」
イザベラがいつものように呵々と笑う。
「それよりは、薔薇を運んでくれた我らが女神の詩を作りたいところですね」
そして、穏やかにジョンもまた微笑む。
「勇敢なる、ってつけておいておくれよ」
「もちろん」
「流石に、あんなに高いところから飛ぶのははじめてでね。ちょっとばかり足が竦んだよ」
「もしかして、高いところは苦手でしたか」
「普通の家の二階とはわけが違うしね。まあ、初めてだからしょうがないってもんさ。武者震いだよ、武者震い」
薔薇の花びらをまき散らしながら走る馬車を、慌てて馬に飛び乗ったユーリッヒ達が追い掛けてくる。
「あの面倒な連中とも、長い付き合いになりそうな予感がしますね……」
「今度斬ったらきちんと土の中に埋めておかなきゃねえ」
「あと、実家にまた手紙を書く必要があります」
「教会の件だったね。また連名で出してやろうか。ついでに、劇団にも手紙を出そう。またいいネタが提供できてなによりさ」
「それはいい。アーシェット団長も喜ぶでしょう」
凄まじい速さで馬車が走り、追い掛けてくる追っ手がどんどん遠ざかっていく。ジョンが言った。
「まだ薔薇の香りがしますね」
「そうかい?」
「あなたの髪からです」
馬車内の前方の小窓を開けて、ジョンは手を伸ばしてイザベラの長い金色の髪を一房手に取った。そして、それに静かに唇を落とす。
「では、薔薇の女神の詩を綴ってきますね」
小窓が閉まる音。イザベラが返事を返し損ねて、何度も何度も目を瞬かせる。
「……何て奴だい」
自分の心の中にはなかったはずの言葉が、自分の心の中に生まれた瞬間を、自分そのものが目の当たりにするのは何と不思議なことだろう。
私は私、生き方を決めるのは私。
そこに、なんとも不可思議な『想定外』が入ってくる、未知の感覚。
東へ、東へと馬車を走らせながら、イザベラは大きく息を吸った。
そして、己の中に生まれた未知の感覚と、馬車を疾走させる爽快感、少しばかり薔薇の匂いが残っているという金の髪を揺らし、石畳の美しい街道を、走り続けた。




