上陸
翌日、日が中天にかかるよりも早く、エピタダス将軍率いる数百名の重装歩兵と、彼らに仕える従卒たちがスファクテリア島に上陸した。
無論、レオニダスと《獅子隊》の面々も、その中に加わっている。
スファクテリア島は、ちょうどピュロス湾内を外洋から切り離す「蓋」のような形で南北に長々と横たわる無人島だ。
島そのものの全長はおよそ15スタディオン。
全島が森林に覆われており、北部と南部はそれぞれ小山となっている。
島の中央部、やや平坦な場所には、ひとつの泉が湧いていた。
水量は豊富とは言い難く、やや塩分が感じられたが、飲用できないというほどではない。
「ここに、我らの拠点を置く」
エピタダス将軍の決定に従い、速やかに陣地の構築が始まった。
このスファクテリア島を、スパルタ軍はまさしく字義の通りの「蓋」として利用しようとしていた。
デモステネス率いるアテナイ軍数百名が立てこもる、ピュロスの北の岬の砦を「閉塞」するための、である。
アテナイ勢が立てこもるピュロスの北の岬の砦は、十分な資材と技術を用いて築かれたものではない。
アテナイ人たちにしてみれば、仮にもスパルタの支配地域で、悠長な土木作業などしてはいられなかった。
司令官のデモステネスは、なんと、六日間という驚くべき突貫工事で砦を建造させたのである。
ほとんど思いつきと呼んでもいいほどの即断で築かれた砦であるだけに、物資の搬入も充分ではなく、砦に立てこもったままで長期戦を戦い抜くのは不可能だと、誰もが判っていた。
補給が必要である。
そして、スパルタ軍は、その補給路を断とうとしている。
スパルタ陸軍は、既にアテナイの砦のすぐ側まで進軍していた。
砦の周辺には巨大な沼沢地が広がり、軍勢の前進の妨げとなっていたが、それゆえにこそ、スパルタ陸軍が布陣を終え、包囲を完成しさえすれば、アテナイの砦は陸の孤島も同然となる。
アテナイの砦は、そのすぐ西側が外洋に面しているものの、そこは安全に船を着けることができる地形ではなかった。
立てこもるアテナイ人たちにとっては、外洋側から直接補給を受けることも不可能なのだ。
「つまり、アテナイ人どもが砦への補給を試みるとすれば、残された選択肢はひとつ。この海峡を抜けて、ピュロス湾内へと船を漕ぎ入れ、湾内から岬の付け根の砦へと接近するという方法だ……」
「そして、それを邪魔するために、俺たちと海軍の連中がよってたかって、ピュロス湾の出入り口にふん詰まっているというわけですな?」
レオニダスの言葉に、いつもの茶化すような物言いで、フェイディアスが言った。
彼ら《獅子隊》をはじめとした重装歩兵部隊がスファクテリア島を占拠し、ピュロス湾の「蓋」となる。
だが、この「蓋」には、港湾を完全に密閉する力はない。
島の南北の海峡から、湾内に出入りすることができるからだ。
だから、そこを、さらにスパルタ側の艦隊をもって閉塞する。
この時、スパルタ側の艦隊の規模は、合計80隻近くにまで膨れ上がっていた。
このうち数隻ずつを、島の南北の海峡、外洋と湾内を遮る位置に配備し、アテナイ側の船舶が湾内への侵入を試みた場合には、これを撃退するという手筈だ。
「しかしですよ、隊長殿」
ごつ、と大きな岩を所定の位置に置いて、日に焼けた顔に汗を滴らせながら、フェイディアスが言った。
彼らは今、自分たちが築いた陣地の防壁の補強作業にあたっている。
手付かずの森を切り拓き、天然の岩を組み上げて防塁とし、伐採した木々を建材として壁を作るのだ。
「これが、本当に何かの役に立つんですかね? つまり、今、俺たちがやろうとしている、閉塞作戦というやつがですよ。聞けば、北の岬の砦に立てこもっているアテナイ人どもは、たったの数百人らしい。明日には、陸軍と海軍の挟撃作戦が始まる。にわか作りの砦に潜りこんだ数百人なぞ、一日もかからずに、砦ごと叩き潰しちまえるんじゃないでしょうか?」
フェイディアスの言葉通り、彼ら「閉塞組」を除くスパルタの艦隊は、明朝、陸軍が攻撃を開始するのと時を同じくして外洋側から上陸し、アテナイの砦を攻撃する手筈になっていた。
先程『アテナイの砦は、そのすぐ西側が外洋に面しているものの、そこは安全に船を着けることができる地形ではなかった』と述べた、まさにその地点からの上陸を敢行する意図である。
非常な難事業には違いなかったが、スパルタの艦隊の士気は旺盛だった。
特に、上陸部隊を率いるブラシダス将軍の意気は高く、たとえ艦を粉砕してでも、断乎として砦の防壁に手をかける気概でいるという。
スパルタ軍による、陸と海、両面からの一斉攻撃だ。
これによく耐え得る軍勢がこの世に存在するとは、最も楽天的な者にすら、なかなか想像できまい。
ましてや、防備する側が、にわか作りの砦に立てこもるたった数百人となれば、なおさらである。
「北の岬の砦があっさり落ちたら、俺たちの仕事は無くなったも同然だ。こうして土にまみれて陣地を築いた苦労も、すべて無駄ですなあ!」
「そうだ」
「……はっ?」
「そのほうがいい」
手を休めもせずに呟いたレオニダスの真剣な表情に、さすがのフェイディアスも、思わず軽口を呑み込んだ。
レオニダスは、そんな部下の様子にも注意を払わず、岩を積む手を黙々と動かし続けた。
水源を確保するために泉の側に築かれたこの陣地は、スファクテリア島の中でもやや低い位置にあたるため、あたりを見回したとて、見えるものは生い茂る木々だけだ。
だが、つい先ほど登ってきた高台からは、海上に浮かび、活発に活動するスパルタの艦隊の様子がよく見えた。
隊列を組んで湾内をゆっくりと航行し、来るべき作戦に備えての訓練を行うと同時に、アテナイの砦にその姿を見せつけ、威圧しようという目論見だ。
(そうだ。彼らが短期間のうちに砦の攻略に成功しさえすれば、湾の閉塞など、ほとんど必要なくなる。だが……本当に、間に合うのか?)
レオニダスの胸中には、部下たちには見せぬ、激しい焦燥があった。
何か作業をして身体を動かしていなければ、その焦りは不安の波となって彼を呑み込み、心を溺れさせてしまいそうだった。
そもそも、補給路を断って敵が干上がるのを待ち、一兵も失うことなく勝利を得るという方法も可能であるにも関わらず、スパルタの陸軍と海軍とが一致して「攻撃」を決断したのは、断じて、華々しい戦いを好む馬鹿げた虚栄心のためなどではない。
北の岬の砦に立てこもるアテナイ人たちの指揮官、デモステネスは、なかなかに頭の切れる男だという話だ。
そんな男が、補給も満足にできない即席の砦にこもり、座して滅びを待つような愚を、敢えて犯すはずがないではないか。
砦のアテナイ人たちには、援軍の当てがあるのだ。
それも、強力な。
スファクテリア島から最も近いアテナイの海軍基地は、ザキュントス島。
そこには常時、50隻近い軍艦が駐留しているという。
おそらくデモステネスは、自分たちが立てこもる砦を包囲すべくスパルタ側が動き始めた時点で、ザキュントス島に駐留するアテナイ艦隊に、来援を乞う使者を送ったはずだ。
デモステネスからの報せを受けたアテナイ艦隊は、今この瞬間にも、この地を目指して航行しているに違いない。
(問題は、その増援部隊が、いつ到着するのかということだ)
アテナイ艦隊の到着以前に、北の岬の砦を陥落させることができるならば、何の問題もない。
だが……もしも、それができなかったとしたら?
スパルタ陸軍が地上最強の軍隊と称されるように、アテナイ海軍は、海上最強を謳われる。
精強のアテナイ艦隊と海上でまともに激突することになれば、スパルタ側の艦隊は、果たして、勝てるかどうか――
(だから……可能な限り速やかに、砦を陥とす必要があるのだ。海は、我らの領域ではない。アテナイ艦隊と正面切って戦うなど、あってはならないことなのだ――)
だからこそ、スパルタ軍は早期の総攻撃を決意した。
最悪の展開を避けるために、犠牲を伴う決断をせざるを得なかったのだ。
「まあ確かに、そのほうがいいでしょうな」
いつの間にか黙りこんでしまった周囲の仲間たちの気を引き立てるように、フェイディアスが、殊更に明るい声で言う。
「いつもいつも、俺たちばかりが手柄を立てるというのも、他の連中に申し訳ないですからな! 時には《獅子隊》も最前線から一歩引いて、皆の力戦を見守ってやれということですよ。それが神々の思し召しとあれば、従うしかありませんな!」
「その台詞、もう十回は聞きましたよ、フェイディアス?」
呆れた顔で、パイアキスが口をはさんだ。
実のところ、このスファクテリア島に上陸する部隊は抽選によって――
つまり、神聖なる籤引きによって決定されていた。
神意というわけである。
「でも、そうやって自分で自分に言い聞かせるのも、そろそろ限界じゃないですか? 本当は、ここで岩を運ぶよりも、盾と槍を握って、砦攻めに加わりたいんでしょう?」
「何だと!」
フェイディアスは、日に焼けた顔で大仰に目を剥いた。
「とんでもない言いがかりだ。《獅子隊》の副長たるこの俺が、与えられた任務に対して不満があるとでも思うのか?」
「思うのか、というか……さっきまでものすごくぶつぶつ言っていた人の台詞じゃないですよ、それ」
「何を言うか、パイアキス。隊長殿の横で岩運びをすることこそ、俺がこの世で最も名誉とする任務に決まっている」
「岩運び……」
「おい、何だ、その疑いの眼差しは! 俺はいつでも、真心からの言葉しか語ったことがないだろうが?」
半眼で見つめるパイアキスに、フェイディアスが大げさに憤慨してみせる。
周囲の男たちがどっと笑い、レオニダスも、ほんのわずかに唇を曲げた。
だが、そのあるかなしかの笑みは、すぐに消え失せてしまった。
我知らず、彼は視線を巡らせて、近くにいるはずの念弟の姿を探した。
クレイトスは少し離れた場所で、彼に仕える従卒と共に木材を運んでいたが、レオニダスの視線に気付くと一瞬、動きを止め、それからつと目を伏せて作業に戻った。
この島に上陸して以来、ずっとだ。
彼と満足に言葉を交わしたのは、上陸の前夜――それが、最後だった。
レオニダスは、胸中で己を嗤った。
全て、己で選んだことではないか。
これ以上近付くことを恐れて、自ら突き放した。
これでは、出会った時と同じだ。
自分自身の身勝手でメイラクスを傷つけてしまうなど……念者として失格だ。
だが、このままではいけない、と思いながら、もはや何を語りかけるべきかも思いつかなかった。
(このままでは、いけない)
悪いのは自分で、お前には何の落ち度もないのだと、伝えてやらなくては。
だが、今はまだ……この島における任務を果たすまでは、まだ駄目だ。
いつか、近いうちに。
そうだ、この戦いが終わり、再びスパルタに戻る時が来たら。
その時が、来たら――
「大丈夫ですよ」
パイアキスが、フェイディアスに向かって力強く頷いてみせる。
「明日、北の岬の砦が陥ちたとしても、我々の仕事が無くなるなんてことはありません。砦を再び奪い返すべく、アテナイ艦隊がやって来るかもしれない。その時、この島を占領されて、彼らの前線基地として使われてはまずい。私たちがここに居座って、睨みを利かせておかなくてはね」
「やれやれ、その島というのが、選りにも選って、こんな塩辛い水しかない無人島だとはな」
フェイディアスは嘆かわしげに肩を竦めた。
「せめてここが、まともな酒か食い物のある土地なら、俺の気分ももっと晴れるんだが」
「本土からの補給があるだけ、よしとしなければ」
パイアキスが言うとおり、スファクテリア島に上陸した戦士たちと彼らに仕える従卒たちには、充分な補給が約束されていた。
定期的に本隊から漕ぎ寄せる小舟が、練った麦粉や肉、葡萄酒、果実の蜜漬けなどを届けてくれるのだ。
「アテナイの砦はもっと悲惨ですよ。何しろ、あちらの砦は今や、一切の補給が見込めない状況なのですからね。フェイディアスのようにぶつぶつ言う兵士が多ければ、デモステネスも持て余して、案外、今日のうちにでも降参してくるかもしれませんよ?」
「おい、パイアキス、お前! 黙って聞いていれば、まるで俺が飢えに耐えられない軟弱者のような言い方をしてくれるじゃないか?」
フェイディアスの声が、いつになく鋭くなった。
スパルタの戦士にとって「軟弱者」は、決して看過できない侮辱の言葉だ。
二人の戯れめいた言い争いはいつもの事だが、今回はさすがにパイアキスの冗談が過ぎたか、と、周囲の仲間たちに緊張が走る。
「アテナイ人ならば、降参してもおかしくないと言っただけです」
だが、パイアキスは慌てる事もなく、穏やかな笑みを浮かべてフェイディアスを見返した。
「スパルタ人なら、たとえ飲まず食わずで死の淵に立つことになったとしても、決して、降伏などしない。スパルタ人の中でも特別にしぶとい《フクロウ》なら、なおさらです。あなたなら、たとえ骨と皮だけになっても戦い続けるでしょう、フェイディアス?」
「当たり前だ!」
怒鳴って、なおも不機嫌そうな顔でパイアキスを睨んでいたフェイディアスだが、やがて、怒りの芝居で周囲を驚かすのにも飽きたか、ころりと表情を元に戻した。
「そして……そうなった時にも、俺の隣には、お前がいる。そうだろう?」
「おや、その質問こそ、私にとっては侮辱ですよ。当然でしょう、フェイディアス?」
結局、行き着くところは惚気か、と周囲の男たちがよろめいて祈りの仕草をする。
フェイディアスがげらげらと笑い、その傍らでパイアキスはにこにこと微笑んでいた。
レオニダスは、二人の明るさに救われる思いがしながら、一方で、クレイトスと自分自身の関係に引き比べ、情けなさを感じずにはいられなかった。
ああ、彼らのように屈託なく言葉を交わすことが出来たら、どんなにか――
「俺たちはよく疲労に耐え、欠乏に耐え、恐怖に耐える。だが、奴らは違う。おおかたデモステネスの野郎も、今頃震え上がって、逃げ出す算段でもしているだろうさ」
フェイディアスが言い放ち、スパルタの戦士たちが歓声を上げて同意する。
だが、それは間違いであった。