デモステネス
「さあーて、いよいよ、始まるでえー!」
潮風が絶え間なく吹きつけるピュロス湾の北の岬――
アテナイの砦の西側、即ち外洋に面した海岸に立ち、景気良く叫んだのは、いまやスパルタ陸軍の唯一の攻撃目標と定められたこの砦の指揮官たる、アテナイのデモステネスである。
今、海岸には、絶え間なく寄せては返す波の音をも圧倒する音量で、喇叭と笛の音が鳴り響いていた。
アテナイ勢のものではない。
彼らを皆殺しにすべくこの砦の西の海を包囲しているスパルタ艦隊、そして東側を包囲するスパルタ陸軍のものだ。
だが、それらの不吉な物音など一切耳に入っていないかのように、デモステネスの表情から笑みが消えることはなかった。
「お天気は上々、しかし、波はちょい高め! 絶好のお日和やなぁ、諸君!」
ひょろりとすら形容できそうな長躯を鎧に包み、彼はおどけるように微笑みながら、居並ぶ部下たちに頷きかける。
歳の頃は、三十の半ば、いや、四十の手前というところだろうか。
もっと若く見えるが、それは表情が与える印象のためで、日焼けした顔には細かい皺が多く、こめかみ辺りの髪には白いものが混じりはじめている。
全体として、穏やかそうで理知的で、「会計係です」と自己紹介されたら、そうかと思うような風貌だ。
だが、そんなデモステネスを見詰める彼の部下たちの視線は、真剣そのものだった。
恐怖や不安に浮ついたようなところは微塵もない。
天下に名だたるスパルタ軍の攻撃を、わずかな兵力で、補給すらも乏しい状況で、海陸の両面から受け止める。
この、常人ならば戦うより先に神経の方が参ってしまうであろう凄まじい心理的重圧の中で、これだけの規律を保ち、反乱のひとつも起こさせずに今日という日を迎えたこと自体が、デモステネスという指揮官の何たるかを語っていた。
スパルタ側が、海陸の両面からピュロスの砦を挟撃すべく軍勢を移動させているあいだ、デモステネスは、ぼやぼやしてはいなかった。
無論、震え上がって逃げ出す算段をしたりもしていなかった。
この急ごしらえの砦に立て籠もった瞬間から今日まで、彼は着々とスパルタ軍を迎え撃つための準備を進めてきたのだ。
「えー、はい! あの通り、スパルタ艦隊の皆さんも、やる気満々で浮かんではるというわけで! ここはひとつ、僕らも気張っていこうというわけで」
長い腕を、背後の海面を一撫でにするように振って、やはりにこにこと、デモステネス。
海上では、既にスパルタ艦隊が舳先をこちらに向けて並び、いつ動き出してもおかしくない陣形を見せていた。
それでも、デモステネスの笑みは崩れない。
「とにかく、二日! 二日もてば、ザキュントス島の皆さんが援軍に来てくれる! とにもかくにも二日間、死力を尽くしてがんばろう!」
デモステネスは一同の前を行ったり来たりしながら、長い両腕を開いて語り続けた。
一同、といっても、こちら、砦の西側を守備する全兵力は、今デモステネスの前にいる六十名の重装歩兵と、その半数ほどの弓兵、合わせて百名そこそこである。
資材と人員の絶対数が足りない中で陸海両面の敵を防ぐことを求められたデモステネスは、冷静に優先順位をつけ、それに従って、各方面に振り分ける人と物の量を調整していた。
彼の決断は、砦の東の防壁、すなわち本土方面の守りのほうを徹底的に手厚くするというものだった。
仮にも世界最強を謳われるスパルタの陸戦部隊を食い止めようというのである。
それくらいしておかなければ、物理的にも、守備側の精神的にも、とても持ち堪えられるものではない。
まず防壁の工事の段階から、海側とは比較にならぬほど力を入れさせた。
基礎を築いたのは確かに六日間という突貫工事であったが、その後、繰り返し補強のための工事を施させ、防壁としてはそれなりに信頼のおけるものが出来上がっている。
その防壁を守るために、デモステネスは手持ちの兵力の大半を結集させ、最も信頼する副官に様々な策を授けて、あとの指揮は一任してあった。
残った兵力は、百名程度。
その、たった百名を、本土方面と比べればいささか、いや、大分、いや、非常に心もとない程度の堅固さしか持ち合わせない海岸方面の防壁を守るために配備することとしたのだが、ここから先が、デモステネスという男の非凡さであった。
いよいよ決戦のときを迎えたこの日、彼は、その百名の男たちと共に、自ら武装し、砦を出て海岸へと進み出たのである。
海岸を守備する百名の男たちに対する寄せ手、スパルタ艦隊の攻撃部隊は、物見の報告を正確とするならば43隻分の三段櫂船に兵力を満載していた。
この、とても正気とは思えぬ防衛戦の開始を前にして、しかし、デモステネスは自身の弾き出した計算を信じ、落ち着いていた。
その計算のかなめが、地形だ。
デモステネスはこの場所に砦を築くにあたり、周辺の地形を詳細に調査させていた。
まず、海岸近くで砕ける白い波の真下は、危険極まりない岩礁地帯となっている。
水面下すぐに潜む峻嶮な岩の峰は、うかつに突撃してきた三段櫂船の船底を容赦なく突き破るであろう。
寄せ手の操舵手がよほどの腕前であったとしても、まず、接岸そのものが困難なはずだ。
上陸に失敗し座礁した船は、新たな障害物となり、続く船の接岸をますます困難なものとするであろう。
また、波打ち際付近には、デモステネスの発案で、風変わりな障害物が設置されていた。
船だ。
アテナイ側の三段櫂船である。
それが、三隻。
彼らには、もともと手持ちの戦艦が五隻しかなかった上、そのうちの二隻はザキュントス島に駐留するアテナイ艦隊の来援を乞うために派遣してしまっていた。
「たったの三隻ぽっち、戦艦としては、あっても無くても変わらへん。かといって、ただ泊めといて敵に拿捕されるなんちゅうアホな話はあらへんからな。有効に使おう、有効に!」
そんなデモステネスの指示で、三隻の三段櫂船はすべて陸上に引き上げられ、その側面に柵を建て巡らせ、いまや船としてではなく、防禦用の障害物として存在している。
それらの障害を乗り越え、上陸を果たした敵が砦に至るまでの距離が、およそ二百歩。
その二百歩分は、初めは緩やかで、徐々に急勾配になる坂となっており、さらにその全てが、ごつごつした岩場に覆われている。
スパルタ陸軍の御家芸といわれる密集戦列の威力も、ここでは半減、いや、それ以下とならざるを得まい――
「デモステネス将軍!」
物見の兵の鋭い叫びが響き渡った。
「スパルタの艦隊が、動き出しました! 突撃してきます!」
「よろしい! ……さあーて、スパルタの皆さんの上陸戦のお手並み、ひとつ拝見といこうやないの」
深々と兜をかぶり直し、そのまびさしの下でデモステネスは呟いた。
その眼差しはあくまでも落ち着き払って前方を見据え、海面上を刻々と迫ってくる敵艦隊の動きを見詰めている。
民主主義を標榜する「帝国」アテナイ、そのもうひとつの顔は、海洋国家アテナイだ。
デモステネスと百名の男たちの奇妙な落ち着きの理由は、地形への信頼と共に、彼らのほうが海での戦いを知っている、スパルタの戦士たちなど及びもつかぬほどに良く知っているというところにあったのだ。
「おう、おう、よう見えよるわ」
ここまで彼我の距離が詰まってくると、迫りくる艦隊の一隻一隻に、スパルタの戦士たちが満載されているのがはっきりと見える。
デモステネスは再び、あの莞爾とした笑みを浮かべた。
船上のスパルタ兵たちは、槍を携え、彼ら自身の家や国家をあらわす絵や文字を描いた大きな円形の盾を壁のように押し立てていた。
彼らがその盾を命のように大切にし、戦士の名誉のあらわれであると考えていることをデモステネスはよく知っていた。
「律儀なもんや。このガッタガタの土地に、あんなクソ重たいもん持って上陸しようなんて狂気の沙汰やのに、アホらしい……そうら、来たでえっ!」
凄まじい物音が起こった。
突っ込んできたスパルタ艦隊の最初の一隻が、岩礁の餌食となり、波打ち際に辿り着く前に大きく傾いて止まったのである。
アテナイ勢の位置からは、衝撃によって幾人もの戦士たちが船端から転げ落ち、海面に叩きつけられるのが見えた。
船底が引き裂かれるばりばりという音がまるで雷鳴のように響き、スパルタの男たちの怒号と悲鳴、アテナイの男たちの歓声がいりまじる。
「はっはぁ! ドアホが、かかりよった!」
子供のように手を叩き、踊るような身振りをしてデモステネスは叫んだ。
彼らの目の前で、座礁した三段櫂船の尻にもう一隻が突っ込み、大勢の戦士たちを巻き添えにして大破する。
だが、初手から被害を出しつつも、スパルタ艦隊の前進は止まらない。
そもそも、勢いのついた三段櫂船というものは、止めようとして止まるものではないのだ。
岩礁をすり抜け、今や次なる障害物となった仲間たちの船をもすり抜けて、スパルタ艦隊はなおも接岸を試みようとする。
ようやく、数名の戦士たちが転げるようにして波打ち際に降り立ったが、その動作はいかにも鈍重で、上陸急襲戦にまったく不慣れであることをさらけ出していた。
「ありゃりゃ、初々しい。可愛いねえ。……よおーっしゃあ! ええかあーっ、諸君!」
自分自身の槍を高々と突き上げ、デモステネスは声を張り上げた。
「相手の数になんか、びびることはない! この、接岸がクソ難しい場所で、あの全員がいっぺんに上陸なんか、できるわけないやろ!? 敵はちょっとずつバラバラ上がってきよる。つまり、実際にぶつかるときの条件は五分と五分! 全兵力の差なんてもんは、問題にならん!
諸君! 君らは海戦での武勇をもって鳴らしたアテナイの男、当然、皆、敵前上陸の経験はあるやろう! その経験からも分かるやろうが、陸上で頑強に踏み止まって抵抗する勢力があれば、船からの敵前上陸なんちゅうのは、そないに強行できるもんやあらへん! 今こそ、僕らが、その『陸上の抵抗勢力』になるときやーっ!
どこまでも、徹底的に、波打ち際で敵を押し返せーっ! それが、諸君らも生き残り、砦も守り抜くことができる、たったひとつの道や――!」
それは、あまりにも奇妙な光景であった。
海洋国家アテナイの男たちが、敵国スパルタの大地に陣取って砦を死守しようとし、陸戦において最強と謳われるスパルタの戦士たちが、海上から攻めかかって、砦を攻略しようとしているのだ。
アララララーイ!
百人のアテナイ兵の叫びと共に、前代未聞の防衛戦の幕が上がった――




