罪と罰と
それから三日のあいだ、少年たちは警戒を怠らなかったが、予想に反して全く何事も起こらなかった。
教官の反撃ともなれば相当に苛烈なものを心配していただけに、いささか拍子抜けの感を覚えたほどだ。
「ばれてないみたいだね」
「ああ。何せこの男前に、あれだけ泥を塗りたくったんだ。利かなきゃ困るぜ」
格闘技場での拳闘とレスリングの訓練を終え、汗に塗れた姿で、レオニダスとアンテオンは小声で言葉を交わした。
「だが、油断はするなよ。気をつけろ」
「分かってる……」
「おい、アンテオン! ちょっと来てくれ」
年嵩の少年たちの集団から声がかかった。
別の訓練の組分けの相談だ。
「悪いな、レオニダス。先に戻ってろ」
「ああ」
レオニダスは早足で兵舎に向かいながら、自分の姿をちらりと見下ろした。
汗と土埃のために、全身が薄い斑模様におおわれている。
だが、今は水浴びをしている時間はなかった。
これからすぐに、食事を摂らなければ。
「おい」
背後から、擦れた声が聞こえた。
それが誰のものかを確かめるよりも早く、いきなり首に太い腕が巻きつき、恐ろしい力で絞め上げられた。
一瞬のことだった。
血管を絞め付ける力に、たちまち目の前が暗くなる。
反撃どころか声を上げることすらもできずに、レオニダスは意識を失った。
目を覚ました時には、見覚えのない場所にいた。
どこかの小屋の中のようだ。
だが、そんなことは、その時のレオニダスの意識にはほとんど上らなかった。
目の前にある男の顔に、レオニダスは息を呑んだ。
それは紛れもなく、三日前に自分が喉を突き、倒した教官に違いなかった。
「やはり、そうだ。おまえだったな」
レオニダスに馬乗りになり、教官は満足げに言った。
声が耳障りにかすれている。
喉には、まだ青黒い痣がはっきりと残っていた。
「他の奴らは、早々に諦めやがった。だが、俺はそれほど甘くない」
ばしり、と風を切るほどの速度で平手が叩きつけられ、涙が滲んだ。
苦痛よりも、屈辱が勝る。
「わざわざ格闘技場を見張っていた甲斐があった……おまえの身構え方には癖がある。一目で分かったよ」
レオニダスは、己の失策に唇を噛んだ。
顔ではなく、あの一瞬の体さばきで見破られるとは考えてもみなかったのだ。
さすがは教官と言うべきだろうか。
だが、とても賞賛する気にはなれない。
「仲間の名前を言えば、許してやってもいい。どうせ、おまえみたいなガキが首謀者ってことはないんだ。誰の計画だ? 言え!」
節くれ立った指に首を締めつけられ、レオニダスは喘いだ。
意識が薄れる。
だが、気を失いそうになった瞬間にまた頬を張られた。
自分は、拷問を受けているのだ。
捕らえられた他国の間諜がこれをやられるのを見たことがあった。
何度も何度も、失神させられては強制的に目覚めさせられ――情報を全て吐いた後は、あっけなく絞め殺された。
「言わないのか?」
教官の目には、訓練のときのような脅しではない、本物の殺意があった。
じわり、と指が喉に食い込んでくる。
嫌だ。このままでは、殺される。
言わなければ、本当に殺されてしまう――
圧倒的な恐怖が膨れ上がった。
死にたくない。
強烈な生存本能が、他の全てを押し退ける。
レオニダスは口を開いた。
だが、声は出なかった。
喉に物がつかえたように、何かが、ことばを堰き止めていた。
奥底から、声が聞こえた。
それはことばではなかった。
心の底から響く、嵐の海のようなとどろき。
それは告げていた。
――屈するな。それは、恥だ。
――友のために。
(そうだ……)
どんな目に遭わされようと、たとえ、命を奪われることになるとしても、友の信頼を裏切るような真似だけはできない。
そんなことをしてしまったら、自分は、スパルタの男ではなくなる。
レオニダスは歯を食い縛り、教官を睨み付けた。
その眼光の強さに、教官は舌打ちを漏らした。
「強情なガキだ」
教官が忌々しげに唸り、指に一層の力を込めてくる。
レオニダスは必死にもがいた。
だが圧倒的な体格差を覆すことなどできず、教官の身体はびくともしなかった。
「見当はついているんだよ」
空しい抵抗を繰り返すレオニダスの耳に、教官の囁き声が忍び込んだ。
「当ててやろうか? おまえが尻尾を振って従いそうな相手といえば、あの思い上がりの若造、アンテオンくらいのものだ。どうだ、違うか?」
答えを引き出そうと、首に食い込んだ指が緩められる。
その瞬間、レオニダスは首を思い切り右にひねり、教官の親指に噛み付いた。
肉に歯が食い込む感触、血の味、そして獣のような悲鳴が同時。
その隙にレオニダスは跳ね起きようとしたが、加減なしの拳が頬に叩きつけられ、再び地面に打ち倒された。
目の前に火花が飛び散り、吐き気がこみ上げる。
「糞ガキが!」
教官の右手が血に塗れていた。
口の端に泡を吹き、目は血走っている。
怒りに任せてレオニダスに圧し掛かり、顔面を無茶苦茶に殴りつけてきた。
俺は、こいつに殺されるのか。
気の遠くなるような痛みのなかで、レオニダスは生まれて初めて、死を覚悟した。
心の中で荒れ狂うのは、恐怖よりも、腸の煮えくり返るような怒りだった。
こんな場所で、こんな下種に殺されるのか。
嫌だ。
俺は、こんなところで死にたくはない。
俺は――
「死ね!」
かすむ視界の中で、教官が短剣を引き抜き、振りかざした。
レオニダスは腕を伸ばし、振り下ろされる一撃から我が身を庇おうとした。
だが、腕はもう動かない。
「……動くなよ」
かすかな声が聞こえた。
その一瞬、レオニダスは、自分の目と耳とが信じられなかった。
教官の動きが、止まっている。
「さもなきゃ、喉首がぱっくり裂けて血ィ噴くぜ」
凄まじい威圧感を込めて、教官の耳元でそう囁いたのは、アンテオンだ。
逆手に握った短剣を、教官の顎の下に押し当てている。
柄を握る拳は、そこに込められた力のあまり、関節が白く浮き出ていた。
「き、貴様」
「レオニダスから離れろ」
つうっと赤い血が刃を滑り、アンテオンの拳を染めて柄頭から滴った。
低く呻いて、教官が命令に従う。
相手を跪かせ武器を捨てさせ、握った刃は離さないまま、アンテオンはうっそりと笑った。
「あんたらも勘付いてたんだろう? そう、ありゃあ、俺の計画さ。だが、略奪を推奨したのはあんたらで、相手を選べって話は聞かなかったがね」
「何だと……!」
「御不満か? 教官様が、たかが訓練中のガキどもに伸されちまったなんて面白え話、黙っといてやるだけでも、有難いと思ってもらわなきゃな」
「この」
アンテオンを横目で見上げる教官の視線に、紛れもない恐怖があった。
この若者は、必要とあればすぐにでも、敵に止めを刺すようにためらいなく喉を抉るだろう。
だが、教官としての誇りが、彼に屈することを妨げている。
「ふざけるな! こ、こんな真似をして、ただで済むとでも」
「上等だ」
アンテオンが牙を剥く。
「むかつくなら、俺にかかってこいよ。いつでも相手になってやるぜ。だがな――」
不意に走った激痛に、教官は今度こそ絶叫した。
アンテオンが、真っ赤に染まった口から肉片を吐き捨てる。
彼は、獣のように、教官の耳朶を食い千切ったのだ。
「もしも、今度レオニダスに手を出せば、殺す! 目を潰し、喉笛を裂き、腸を抉り出して烏に喰わせてやる! 失せろ、下種が!」
アンテオンに蹴り飛ばされ、教官は後も見ず、半ば這うように小屋からよろめき出てゆく。
そのときには、レオニダスはもう半ば意識を失いかけていた。
アンテオンが自分の傍らに膝をつき、顔を覗き込んでくるのも、もうはっきりとは見えなかった。
「大丈夫か、レオニダス!」
無骨な指が、腫れ上がった頬や瞼に触れる。
その指が震えているのが感じられた。
触られるたびにひどく疼いたが、レオニダスは抗議の声を上げることはしなかった。
「何も……喋らなかった……何も」
「馬鹿、喋るんじゃねえ! すぐに、手当てをしてやるから――」
そんな言葉と同時、自分の身体が軽々と担ぎ上げられるのを感じた。
圧倒的な安心感の中で、レオニダスの意識は、あっという間に闇の中へ落ちていった。
それ以来、アンテオンは、レオニダスを決して側から離さなくなった。
やがて年月は流れ、二人は同じ部隊に配属され、いくつもの戦闘で肩を並べ、苦しい行軍も、厳寒の夜の野営も共に乗り越えた。
同じ年頃の少女たちには決して聞かせることができないような明け透けな話もした。
一緒に、女たちを抱いたこともあった。
いずれは指揮官として一部隊を預かり、常勝の戦績をあげるのだという夢も語り合った……
レオニダスは、とうとう気付くことがなかった。
時折、苦しげに投げかけられる視線に。
静かに浮かされては、宙でためらい、引かれる手に。
アンテオンの心が誰に向けられているのか、彼にはわからなかった。
幾人もの女たちと気楽に戯れながら、決まった相手はいないらしいことは知っていた。
だがそれは、アンテオン自身が容貌も、力もあまりに優れているために、並の女性では伴侶として物足りなく感じてしまうせいだろうと思っていた。
あるいは、彼の心に気付いていれば……
何かが、変わったのだろうか。
振り下ろされる運命の刃を、とどめることができたのだろうか――
その夜の出来事は、まるで復讐の女神の呪いのように、鮮明に記憶に焼き付いている。
「レオニダス」
訓練のために分け入った森で枯葉の上に身体を休めていたとき、不意に耳元でアンテオンの声が聞こえ、何事かと思う間もなく抱きすくめられた。
まず頭に浮かんだのは、近くに敵がいるのかという考えだった。
声を潜め、身を隠せという合図だと思ったのだ。
だが、性急に動く手に身体を探られ、喉元に唇を押し当てられて、レオニダスは凍りついた。
「動くな」
最初、自分の身に起きていることが信じられなかった。
数年のあいだ起居を共にし、互いを知り尽くしたと思った相手が、今、全く別の知らない人間に見えた。
女を愛撫するように肌を撫でられ、口づけをされた。
混乱が湧き上がる。
なぜ、突然、こんなことをするんだ。
君とこんなことをするつもりはないのに――
「や、やめ」
肉体の芯がぞくりとざわめいた。
レオニダスは、恐怖を感じた。
呪縛が解けたように、手足が動くようになる。
渾身の力で抗った。
「嫌だ! やめてくれ、アンテオン!」
「動くな!」
容赦なく怒鳴りつけてくる声が、心を打ち砕く。
「嫌だ!」
もがいた手が、何か硬いものに触れた。
転がっていた石――
レオニダスは、反射的にそれを掴み、相手の顔を殴りつけた。
その瞬間のアンテオンの表情を、レオニダスは、生涯忘れることができないだろう。
彼は一瞬、手ひどい裏切りでも受けたかのように深く傷付いた表情を浮かべた。
だが、その表情はすぐに消え去った。
そして狂気のような怒りが取って代わった。
拳闘で幾度もレオニダスを打ち負かした大きな拳が頬に叩きつけられ、目の前に真っ白な火花が散った。
あの日、教官に殴られた時の記憶が泡のようによみがえり、消えていった。
口の中に血の味が広がり、すぐに何も感じなくなった。
もはや抵抗する力は残っていなかった。
だが、肉体を引き裂かれる苦痛など、誇りと信頼を粉々に打ち砕かれた魂の痛みに比べれば何でもなかった。
やがて、彼は――レオニダスが誰よりも尊敬し信頼し、愛していた、揺るぎない友情で結ばれていると信じていた男は、放心したようになっていたレオニダスの上から身を起こし、擦れた声で呼びかけてきた。
「レオニダス……」
その声に、本能が反応した。
レオニダスは跳ね起きた。
よろめき、傍らの木の幹に片手をついたが、倒れなかった。
決して相手に背を向けぬように後ずさって間合いを取り、血を流しながら身構えた。
目つきが変わっていた。
自分を傷つけた敵を見る、手負いの獣の目だった。
「レオニダス」
こちらに伸ばされたアンテオンの手は、震えていた。
その手から、さらに後ずさる。
一度、人間に傷つけられた動物は、二度と人に馴れることはないという――
若者の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
「すまない……」
彼は去った。
レオニダスは、しばらくそのままの姿勢でいた。
今、起きたことが、本当にあったとは思えなかった。
そうだ、自分はきっと、夢でも見たのだ――
張り詰めていた気がゆっくりと緩み、身体中の傷がひどく疼き始めた。
レオニダスは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
奥底から嗚咽がこみ上げた。
彼は、身も世もなく声をあげて泣いた。
なぜだ。なぜ、こんなふうに裏切った?
心から信頼し、尊敬していた。
かけがえのない師で、友だった。
アンテオン、君を信じていたのに。
誰よりも、愛していたのに……
赤ん坊のように大樹の下にうずくまって一夜を明かし、翌日、兵舎に戻った彼を迎えたのは、アンテオンの死の報せだった。
彼は、河で死んでいた。
河辺の葦の茂みに流れ着いたところを、通りすがりの農民に発見されたのだ。
誤って落ちたのか、それとも謀殺かと周囲は騒然としていた。
そこへ満身創痍のレオニダスが戻ったのだ。
たちまち大勢に取り囲まれ、事の次第を追及されて、レオニダスは答えた。
アウガイの渡しで、他国からの間諜と思われる二人の男と出くわした。
アンテオンがそのうちの一人と組み打ちになり、もろともに河に落ちていった。
自分は、残った一人としばらく激しい格闘を続けたが、地面に頭を叩きつけられ、意識を失って、後のことは覚えていない――
すでに、涙は乾いていた。
友の死に衝撃を受け、涙を流す姿が自然だと判ってはいたが、胸の内を熱く空虚な風が吹きぬけるようで、それがレオニダスの涙を干上がらせてしまっていた。
地面を見つめて訥々と語った傷だらけの若者をしばらく見つめ、やがて、当時の隊長は静かに「分かった」とだけ言った。
おそらく、彼には、全てが了解できていたのかもしれない――
* * * *
(アンテオン……許してくれ)
あの時、君を拒んだのは、俺が、何も分かっていない子どもだったからだ。
今ならわかる。
血の絆よりも濃く、友情と呼ぶには、あまりにも強すぎる想い――
たった一人に、それほどまでに心を傾け、深く愛して、精神と肉体のすべてを触れ合わせたいと願う。
それは神々にすらも止めることはできぬ、哀れなまでに強い人の性だ。
かつては、わからなかった。
誇りを傷つけられ、裏切られたと思った。
(クレイトス、俺は、おまえを――)
だが、彼には、きっと理解できないだろう。
かつての自分のように……
ひときわ大きな波の音が《半神》の耳を打った。
すでに涙は乾いている。
やがて、ゆっくりと顔を上げたレオニダスの目には、透徹した決意だけが浮かんでいた。
戦いに、備えなければならない。




