第8話:シャワーの羽と、優しい霧
抜けるような青空の下、荒野の朝風が心地よく吹き抜けていた。
大木と岩壁の窪みに作られたふたりの――いや、今や「三人」となった開拓地。
ティルが前夜に敷き直した枯れ草の寝床の上で、新しく仲間になったシャワー・バードのピピが、瑠璃色の翼を器用に広げて毛づくろいをしていた。
「よし、ピピ。昨日はしっかり眠れたかい?」
「まあまあピョね。枯れ草の敷き方が少し雑だったから、アタシが夜中に手直ししてやったピョ。……でも、寒くはなかったピョよ」
ツンとそっぽを向きながらも、ピピの表情には昨日のような刺々しさは微塵もない。
ティルから「ピピ」という名前をもらい、魂の契約を結んだことで、その小さな身体からは穏やかで温かな魔素がふわりと漂っていた。
「へへっ、ピピ姉さん、照れてるッスね!」
「誰が姉さんピョ! 朝一番から口答えするモグラには、お仕置きの水滴を食らわせるピョ!」
「ピギャッ!? つ、冷たいッス!」
ピピが翼の先からパッと飛ばした小さな水滴が、モグの丸い鼻先にピトッと命中した。
モグが慌てて両前足で鼻を擦る姿に、ティルは思わず吹き出してしまう。
静かだった荒野の朝が、ピピの加入によって一気に賑やかな家族の食卓のようになっていた。
「さあ、ふたりとも。朝の小競り合いはそのくらいにして、畑の様子を見に行こうか」
「了解ッス、旦那!」
「ふん、言われなくてもアタシが案内してやるピョ! 『水遣り主任』の出番ピョ!」
ピピはティルの肩にパッと飛び乗ると、誇らしげに胸を張った。
三人は並んで、岩壁の麓に作られた第一号の畝へと向かった。
黒々と肥えた土の中央では、一昨日に蒔かれた【ゴツゴツ土大根】の小さな黄緑色の双葉が、朝の光を浴びてピンと背筋を伸ばしていた。
「うん、今日も元気に葉を広げてるな。……でも、少し土の表面が乾いてきたみたいだ」
ティルが畝の表面を指先でそっと撫でる。
荒野の朝は乾燥した風が強く、せっかく水路から引いた水分も、地表からじわじわと蒸発してしまうのだ。
「昨日、ピピに言われた通り、水筒から直接水を注ぐのは控えてたんだけど……やっぱり水やりはどうしても必要だよな」
「当たり前ピョ! 植物にとって水は血液と同じピョ! でも、人間の大雑把な手仕事でドバドバ流し込んだらダメだって、昨日教えたはずピョね?」
「ああ、しっかり覚えてるよ。細い茎が折れないように、優しい水を与えなきゃいけないんだろ?」
「その通りピョ! ふふん……そこで、アタシの出番というわけピョ!」
ピピはティルの肩から飛び立つと、水路の上へと軽やかに舞い降りた。
全長二十メートルの石組み水路。岩壁から湧き出たばかりの清らかな水が、サラサラと涼やかな音を立てて流れている。
「よく見ておくピョ! これが、シャワー・バードの真の技ピョ!」
ピピは水路の縁にちょこんと止まると、小さなくちばしを澄んだ水面へと差し入れた。
――コピ、コピ、ゴクン……。
喉を小刻みに鳴らしながら、湧き水をぐんぐんと体内に吸い上げていく。
大人の両手の中に収まるほどの小さな身体のどこにそんな容量があるのかと不思議に思うほど、ピピはたっぷりと水を飲み干した。
すると、ピピの瑠璃色の羽毛の隙間から、ほんのりと淡い青い光がこぼれ出したのだ。
「おおっ……! 身体が光ってるッス!」
モグがつぶらな瞳を輝かせる。
水を吸い上げたピピは、すぐに畑へ向かうのではなく、陽当たりの良い平らな岩板の上にパッと飛び移った。
そして、ふっくらとしたお腹を丸め、太陽の光を浴びながら目を細めてじっと静止した。
「……ピピ? 何を待っているんだい?」
「しーっ、ピョ! 今、体内の『水嚢』に溜めた湧き水を、アタシの体温と魔素で温めているところピョ!」
「温めている……?」
「そうピョ。水路の水は岩の隙間から出たばかりだから、指先が痺れるくらい冷たいピョね。そんな冷水をいきなり吹きかけたら、朝日で温まり始めた土大根の根っこがびっくりして縮こまっちゃうピョ。だから、土の温度とぴったり同じになるまで、アタシの体温で優しくぬるめてやるんだピョ」
「なるほど……!」
ティルは感嘆の溜息を漏らした。
前世の農業知識でも、育苗期の水やりは「汲み置きの水」を使い、外気温や地温と水温を合わせるのが基本とされていた。
ピピはそれを、本能と経験によって完璧に実践しているのだ。
「よし……適温になったピョ!」
ピピがパッと目を見開いた。
小さく羽ばたき、第一号畝の真上――双葉から三十センチほどの高さでホバリングを始める。
「いくピョ! 『ミスト・ベール』!」
ピピが両翼をふわりと広げ、小刻みに羽ばたかせた。
――シュワァァァァァァ……。
その瞬間、ピピの翼の羽毛の先から、信じられないほど微細な霧が、淡い煙のようにふわりと噴き出した。
水滴というよりも、まるで朝の山深い森に立ち込める、柔らかな朝靄そのものだった。
光を浴びて七色に煌めく霧のカーテンが、土大根の双葉と、その周囲の黒土を優しく包み込んでいく。
「うわぁぁ……! すっげぇ綺麗ッス……!」
モグが見惚れたように声を漏らす。
ティルも息を呑んでその光景を見つめていた。
霧の粒子はあまりにも細かく、空気中に漂う綿毛のようにふんわりと舞い降りている。
水滴の重みで双葉が倒れることなど一切ない。
それどころか、乾きかけていた黄緑色の小さな葉が、微細な潤いを全身で吸い込むように、目に見えて瑞々しいハリを取り戻していく。
黒土の表面も、水流で抉られることなく、まるでスポンジが吸い込むかのように、均一にしっとりとした深い黒へと染まっていった。
「ふぅ……! どうピョ! これがアタシの霧やりピョ!」
ピピが誇らしげに旋回し、ティルの肩へと戻ってきた。
鼻息を荒くして胸を張るピピを、ティルは指先で優しく撫でた。
「素晴らしいよ、ピピ! 土も抉れていないし、双葉もすごく気持ちよさそうだ。まるで本物の朝露が降りたみたいだ」
「へへん! これなら根っこを痛めずに、葉っぱからも土からも満遍なく水分を吸収できるピョ!」
「でも、ピピ姉さん! 霧を出すだけなら、普通の魔法使いでもできるんじゃないッスか?」
モグが首を傾げながら無邪気に尋ねた。
すると、ピピは「チッチッチッ」と舌を鳴らし、翼を左右に振った。
「甘いピョね、モグラ! アタシの力は、ただ水を撒くだけじゃないピョ! ……ティル、ちょっと畑の奥まで歩くピョ!」
「え? 奥へ?」
ティルはピピを肩に乗せたまま、第一号畝の先へと歩いた。
そこには、一昨日モグが神速の耕作で作ってくれた、まだ何も植えられていない第二号畝と第三号畝が並んでいる。
「ピピ、この畝がどうかしたのかい?」
「よく見なさいピョ。アタシのくちばしと羽毛はね、空気の湿り気と土の乾き具合を敏感に感じ取ることができるピョ」
ピピはくちばしを微かに開け、風の匂いを嗅ぐように首を巡らせた。
「第二号畝は、岩壁の風除けから少し外れてるから、乾いた風が吹き抜けて地表がカピカピに乾きやすくなってるピョ。深さ五センチまで完全に水分が抜けてるピョね」
「えっ、触ってもいないのにそこまで分かるのか!?」
モグが驚いて前足のシャベル爪を第二号畝に突き刺した。
大地の声を聴くモグが、目を丸くして顔を上げる。
「ほ、本当ッス……! 爪の先で探ると、確かに深さ五センチまで土がパサパサに乾いてるッス!」
「ふん! モグラが地中を透視するなら、アタシは地表と風を透視するピョ!」
ピピは得意げに鼻を鳴らすと、さらに視線を第三号畝へと向けた。
「逆に第三号畝は、大木の影に入ってるから湿気が逃げにくくて、土の底に水分がたっぷり残ってるピョ。こっちに水を撒きすぎたら、土がジメジメしすぎて種が腐っちゃうピョよ」
「すごいな……! 畑の場所ごとの乾き具合まで、一瞬で見抜いてしまうなんて」
ティルは心底驚嘆した。
土壌の水分管理は、前世のプロの農家でも最も神経を使う作業のひとつだ。
乾きすぎても枯れるし、湿りすぎても根腐れを起こす。
だが、モグが地中の障害物と水脈を見極め、ピピが地表の湿度と風の流れを読み解く。
ふたりの能力が合わされば、この畑の土壌環境は完璧にコントロールできるのだ。
「それじゃあ、第二号畝には少し多めに水をあげた方がいいんだな?」
「そうピョ! でも、種を植える前の土には、さっきの細かい霧じゃなくて、土の奥までしっかり染み込む水が必要ピョ! ……いくピョ、『スプリング・シャワー』!」
ピピは再び水路で水を一口補給すると、第二号畝の上空へと舞い上がった。
今度は翼を大きくしならせ、くちばしの先からサーッと細やかな水流を放出した。
それは、春の訪れを告げる優しい通り雨のような、極上のシャワーだった。
水滴の粒は揃っており、激しく土を叩くことなく、乾いた黒土の隙間へとスルスルと吸い込まれていく。
パサついていた土壌が、みるみるうちにふかふかの潤いを帯びていった。
「ふぅ……! これで第二号畝も、いつでも種を受け入れられる最高のベッドになったピョ!」
作業を終えたピピが、満足そうにティルの頭の上にストンと降り立った。
その小さな足の温もりが、ティルの頭頂部に心地よく伝わってくる。
「モグの耕作に、ピピの水やり……。ふたりの力が合わされば、ここは本当に最高の農園になるな」
「へへっ! 俺たちのチームワーク、バッチリッスね!」
「アンタたちだけじゃ危なっかしいから、アタシがしっかり見ててやるピョ!」
顔を見合わせ、満面の笑みを交わす三人。
太陽の光が強くなり、荒野の気温も少しずつ上がってきた。
乾いた風が吹き抜け、作業着の袖をまくっていたティルの額に、じわりと汗が滲む。
「ふぅ……ちょっと日差しが強くなってきたな。モグ、喉が渇いてないかい?」
「少し喉がカラカラッスね、旦那!」
ふたりが首筋を拭ったその時だった。
「ちょっとアンタたち! 何ぼんやり立ってるピョ!」
頭の上から、容赦のない小言が降ってきた。
「汗をかいたまま放置したら体温が奪われるし、水分補給を怠ったら熱中症でバッタリ倒れるピョ! 野菜の世話をする前に、自分の身体の管理をしっかりしなきゃダメピョ!」
「あ、いや、今から水を飲もうと……」
「問答無用ピョ! 『クールダウン・ミスト』!」
ピピがパッと頭上から飛び立つと、ティルとモグの頭上でパタパタと翼を羽ばたかせた。
――ふわり……ひんやり……。
微細でひんやりとした涼やかなミストが、ティルとモグの全身を優しく包み込んだ。
火照った肌に染み渡る、心地よい冷涼感。
荒野の砂埃で乾燥していた喉や鼻の奥がすっと潤い、熱を帯びていた頭がシャキッとクリアになっていく。
「うわぁぁぁ……! 涼しいッス! すっごく気持ちいいッス!」
モグが短い前足を広げ、ミストを全身に浴びて大はしゃぎする。
砂まみれになっていたモグの黒い毛並みも、余分な泥汚れだけが綺麗に落ちて、ビロードのような艶を取り戻していた。
「あはは……これは極楽だな。ピピ、ありがとう」
ティルは思わず破顔した。
前世の社畜時代、締め切ったオフィスの濁った空気と、埃っぽいエアコンの風に喉を痛めていた日々が嘘のようだ。
アロマ加湿器と冷房を兼ね備えた、優しくて少し口うるさい、誰よりも頼もしい小さなお母さん。
(王国の貴族たちは、この素晴らしい力を『ただの便利な水撒き器』として弄んでいたのか……)
彼らは何も分かっていなかったのだ。
心を通わせ、互いを慈しみ合うことで、魔物の力は単なる作業の道具から、暮らしを彩るかけがえのない温もりへと変わる。
「……ふん! お礼なんていいピョ! アタシの農園の労働者が倒れたら困るから、ついでに冷やしてやっただけピョ!」
ピピは赤くなった顔を羽で隠しながら、ツンと横を向いた。
だがその時――。
――きゅるるるるぅ……。
小さな、だが確かな空腹の音が、ピピのふっくらとしたお腹から鳴り響いた。
「…………ピョ」
「あはは! ピピ姉さん、霧をいっぱい出して、お腹が空いたんスね!」
「う、うるさいピョ! 魔力と水をたくさん使ったんだから、お腹が減るのは生き物として当然の生理現象ピョ!」
真っ赤になってモグの頭をペチペチと叩くピピ。
ティルは優しく微笑むと、ふたりの背中をそっと小突いた。
「よし、それじゃあ野営地に戻って、少し早い昼飯の準備をしようか。ピピの好物になるような、美味しいものを探してみるよ」
「やったぁぁぁ! 旦那の飯ッス!」
「……べ、別に期待なんてしてないピョ。でも、アンタがどうしてもって言うなら、食べてやらないこともないピョ!」
青空の下、三人の楽しげな足音が荒野の大地に響いていく。
耕された土と、注がれた清らかな水。
小さな緑の命を育む農園は、確かな絆とともに、また一歩大きく動き出していた。




